第18話 シーズ・ソー・クール(15)
(1)
家の近所まで辿り着いたところで、チェスターは掴んでいたジルの手をさりげなく離した。
大きく温かな掌が離れ、寂しいような残念なような――、けれど、オールドマン家に近づくにつれ、手を離してくれて良かったと思った。丁度、アガサが玄関先でプランタの花に水遣りをしていたからだ。
「あ、悪いんですけど、先に家に入っててもらえます??……ちょっと、お隣に用があるんでー」
返事の代わりにジルは頷くと、チェスターは荷物を抱えて自宅と二軒続きになった隣家に足を向けた。
「あら、ジルさん。こんばんは」
「こんばんは」
ジョウロを手に振り返ったアガサがジルに笑いかける。
「珍しいわね、こんな時間に家に来るなんて」
「さっき……、図書館近くの公園にいたら、たまたまオールドマンさんと会ったんです」
「あぁ、何かフレッドに本を返してきて欲しいとか言われていたわね。で、チェスターは……」
チェスターはどうしたの、と尋ねかけたアガサの表情が曇る。
隣家の玄関先に立つチェスターを、開かれた扉に隠れて彼を中に招き入れる住人の影を目撃したからだ。
「ジルさん、チェスターは大量に買い物していなかった??」
「大きな買物袋を抱えてましたけど……、それが何か??」
「本当にあの子はお人好しよね……」
アガサは眉を寄せ、頭を二、三度振ると大仰に溜め息を吐き出す。
「外で立ち話もなんだし、とりあえず家に上がりましょ」
いつになく神妙なアガサの態度に違和感を覚えたが、彼女に促されてジルは家の中に入ろうとした。
「こんばんは、Ms.オールドマン」
やけに畏まった声が二人の背中に向けて投げかけられた。誰、とジルが振り返るよりもずっと速く、アガサは声の主を振り返っていた。
声の主――、上品な初老の紳士といった様相の男に、アガサの表情は険しさを増していく。
「……チェスターなら、今、隣の家にいます。一〇分程で家に戻る筈ですから、それまで玄関でお待ちいただけますか」
「分かりました。では、遠慮なくここで待たせてもらいます」
紳士を家に上げようとしないアガサへの違和感は募る一方、人の好い彼女がここまで警戒するこの男は何者なのか。日没と共に姿を現すなんて、まるで人目を避けたいがためとしか思えない。
不審も露わに、それでいて気付かれないようにそっと送った筈の視線――、だが、男はジルをちらりと一瞥した。視線がかち合ったのはほんの一瞬だったが、ジルは背中に薄ら寒いものを感じ、サッと足元へと視線を落とす。
オールドマン家にとってのジルの立場を見定めている――、そんな気がしたのだ。
「さ、ジルさん、早く入りましょ!」
男の目から隠すように、アガサはジルを玄関扉の奥へと押しやり、自らも中に入るやいなや素早く扉を閉める。アガサは外に漏れないよう抑えた低い声でジルにこう尋ねてきた。
「……変なことを聞くけど。ジルさんはこの家の事情を、どこまで知っているのかしら??」
切迫した様子に怯みつつ、「……大体は……」とだけ答える。
「……そう。じゃあ、詳しい説明は必要ないわね」
黙って頷くジルに、アガサは無言で彼女をリビングに案内したのだった。
(2)
「チェスターが今行っている場所はね……、アビゲイルの実家よ」
「そうじゃないかとは、思いました」
ソファーに座るジルに紅茶のカップを手渡しながら隣に腰を下ろすと、アガサは弱々しく微笑んだ。
「アビゲイルが
淡々としながらも強い語調で『許せない』と言い切ったアガサの目は、静かな怒りと悲しみに満ちている。
「……なのに、チェスターは『義理とはいえ、家族には変わりないから』って、未だに彼女を気に掛け続けているわ。本当に、どこまでお人好しなのかしら……」
「……あの……」
ジルは、チェスターの母が今し方口にした言葉の中から、ある一語がどうにも引っ掛かりを覚えた。
聞いていいものなのか、どうか――、数分迷った末、問い質すことを決意する。
「……あの……、……『義理』って……、どういうこと、ですか……??」
アガサの、チェスターとよく似た薄茶の双眸がこれでもかと大きく見開かれた。
動揺するせいか唇を開けては閉じを繰り返す仕草に、聞かなくてももう答えは出ているのでは、と悟るが――、ジルはアガサの口から直に聞きたかった。
そして、遂に観念したアガサはジルの目を真っ直ぐ見据え、重い口をゆっくりと開く。
「……今から話すことは従業員達も孫達も知らない、私とチェスターしか知らないことだから、絶対誰にも言わないでちょうだい」
「……はい……」
強く念を押した後、アガサは一呼吸置くように一旦口を噤み、ごくりと喉を鳴らした。それから再び、先程よりも更にゆっくりと口を開く。
「…………実は…………、……チェスターとアビゲイルは、まだ正式には離婚していないのよ……」
ドクン!と、一際大きな音で心臓が脈打った。
直に太い杭でも打ち込まれたかのような衝撃に続き、ドッドッドッと鼓動の速度が増していく。
「アビゲイルの浮気相手――、というより、フレッドの実の父親とよりを戻してしまった――、という方が正しいのかもしれないけど……。おそらくその男の差し金でしょうね、アビゲイルが出て行ってからしばらくして彼の顧問弁護士――、さっき玄関先で会った人よ……が、離婚届のサインを求めて家を訪ねてきたの。チェスターはサインを拒否して彼を追い返したわ。『自分達が引き起こした問題なら自分達で蹴りをつけるべきだろう。他人に頼るんじゃない。籍を外したいなら自分で直接言いに来い』って」
「……それは、オールドマンさんの言い分が正しい、と、思います……。でも……」
紅茶で潤した筈なのに、からからに乾ききった喉から辛うじて言葉を振り絞る。
「……意地やプライド、だけのために、離婚を拒否している……、とは――」
――どうしても思えない。
「ジルさんの言う通りよ。そうね……、私が思うに――」
『チェスターは、いずれアビゲイルがこの家に戻ってきてくれるのを、どこかで期待しているんじゃないかしら』
「……チェスターの髪が長いのは何故だか分かる?……まだ二人が、二十歳にもならない頃だったかしら……。髪が少し伸びてきたチェスターが『邪魔になってきたから、そろそろ切ろうかなぁ』とか言ったら、アビゲイルが『チェスターの髪はすっごく綺麗なハニーブロンドだし、いっそのこと伸ばしてみたら??』って、なにげなく勧めてきたの。その時は『えぇー、女子じゃあるまいしー』って鼻で笑ってたくせに、結局髪を伸ばし始めたのよね。二人が結婚してからはアビゲイルがチェスターの髪を整えてた。アビゲイルは、チェスターの髪に触るのが好きだったみたい……。……でも、人の心って分からないものよね……」
在りし日の二人の姿を思い返し、遠い目で語るアガサの隣で、ジルは相変わらず早鐘を打ち続ける心臓の痛みと、去来する様々な感情に押し流されないように耐え忍んでいた。
「…………なぜ、私に、二人の思い出話をするのですか…………」
「……そうね……、きっと誰かに胸の内を打ち明けたかったのかもしれないわ……。それと……」
「それと……??」
務めて平静を装いながらアガサを見返す。
ジルの心中に気付いているのかいないのかは分からないが、アガサは宥めるようにジルの膝をそっと撫で擦ってきた。
「……怒らないで聞いて欲しいんだけど……、貴女になら、チェスターのことを……、任せられるかもしれない、と私が勝手に思ったの」
「……それは……」
覗き込むように見つめてくるアガサの瞳は無言で哀願してくる。
『どうか、チェスターからアビゲイルを忘れさせてやって欲しい』と――
「……わ、私は――……」
「ばーちゃん、おなかすいた!なにしてるのー??」
ジルが返答に窮したことで止まりかけた時間が、リビングに飛び込んできたマシューのお蔭で再び動き出す。アガサはジルからマシューへと視線を移し、慌ててソファーから立ち上がった。
「あらぁ、ごめんねぇー、おばあちゃん、ジルさんとお喋りしていたのよー」
しゃがみ込んでマシューに話しかけるアガサは、普段の明るく優しい祖母の顔に戻っていた。
「今からご飯作るから、ちょっと待っててね」
「あい」
台所へ移動するアガサと入れ替わるように、マシューはソファーに座ったままでいるジルの元に駆け寄っていく。
「……マシュー君、お祖母ちゃんがご飯作る間、私と一緒に遊ぶ??」
「うん!!」
「……そう、何する??」
「えっとねー、お外いきたい!!」
「今から??それはダメだよ。もうお外が暗くなってきているし」
「やだ!」
「ダメ、今日はもうすぐゴハンでしょ??無理なものは無理」
小動物みたいに頬をぷっくり膨らませるマシューに、これは駄々を捏ね始める前兆だ――、と、嫌な予感がした。
「……わかった!今日はお外へ行けない代わりに、今度明るい時間に一緒に公園行こう??私だけじゃなくて、お父さんかお祖母ちゃん、あとお兄ちゃんも……、皆で一緒に、ね??」
「…………」
「……ダメ??」
「……いいよー、でも、こんどっていつ??」
一応は納得してくれてホッとしたのも束の間、今度は非常に答えづらい質問が投げかけられる。
「う、うーん、次に、私がマシュー君のお家に来る時かな……」
「ねーねー、じゃあ、次にジルがおうちにくるのはいつー??」
どうして小さな子供と言うのは、答えづらいことに限ってしつこく聞いてくるのだろうか。
「…………そ、そうだね…………」
チェスターそっくりの顔を期待で輝かせ、マシューは今か今かとジルの返事を待っている。
「こらっ、マシュー!ジルさんに無茶なこと言うんじゃないの!」
見兼ねたアガサがキッチンから顔を出してマシューを叱りつけた。
途端にマシューは凄い勢いでリビングの扉を開け放し、廊下へと逃げ出していく。
「ごめんなさいねぇ、マシューが我が儘言って」
「……いえ……」
「もしかしたら、貴女に母親の影を求めているのかも……って、あっ……!変なこと言っちゃったけど……、気にしないでね……」
「……はい……」
この日、ジルは初めて夕食の誘いを固辞し、一人アパートの帰路を辿った。
そして、この日を境に、彼女がオールドマン家に立ち寄ることもなくなった。
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