第19話 シーズ・ソー・クール(16)
(1)
ベッドを壁際に押しやり、少し広くなった室内。控えめな音量でクラブミュージックを流し、床に敷き詰めた消音マットの上をハイヒールで歩き回る。CDを巻き戻しては気になる箇所で止め、納得できるまで動きを確認して少し歩き、また同じ箇所まで巻き戻したらまた少し歩き――、を何度も繰り返す。
アパートの他の住人達が仕事で出払う平日昼間、ショーのウォーキング練習をするのに格好の時間帯だ。
頭から腰は真っ直ぐに、足を踏み出す時は膝を曲げない。
膝からではなく爪先から――、爪先を上げずに地面に下ろしたまま、床に着ける。後ろ足で体重を降ろし、前に出した足に――、小指側ではなく親指側に乗せる。この時、前脚も後脚も膝をしっかりと伸ばし、爪先を上げずに後脚を真っ直ぐ前へと踏み出す。
室内の端と端をこのように歩き、歩き方や指定されたポージングをスタンドミラーで確認する。タンクトップに薄手のジャージパンツという軽装だが、練習していく内に全身が汗ばんでいく。
ショーモデルの経験なら過去にも何度かあるし、ウォーキングの練習を必死にする必要なんて本当はない。ただ、今回のショーはメインの役どころを与えられたから、いつもより少し力を入れているだけ。
それと――、何かに集中することで余計な懊悩に取り付かれずにすむ。
あの日から、ジルがオールドマン家に行くことはなくなった――、否、行けなくなった、という方が正しかった。
アガサにチェスターへの想いを見抜かれていたなら、チェスター本人や他の者達にも見抜かれていたかもしれない。勿論、羞恥心のためだけではなく――、これ以上チェスターと関わるのが怖くなってきたのもある。
このままオールドマン家に通い詰め、仮にチェスターとの仲も深まっていったとしても、きっと、ことあるごとにアビゲイルの影を感じてしまうだろう。
その度に、あの時――、アガサから二人の話を打ち明けられた時同様、嫉妬心や諦念が入り乱れ、そして何とも言えない敗北感に襲われるのは間違いない。
チェスターにとってアビゲイルは妻というだけではなく、幼なじみでもあり妹分でもあり、最も守るべき大切な人だったから。
夫婦関係が壊れたとしても幼なじみとしての友情、妹分としての肉親的な愛情が残っている限り、万が一でもアビゲイルが戻ってきた時にはいつでも笑顔で迎えるつもりだろう。彼はそういう人だ。
チェスターの家族、仕事仲間を愛し受け入れるだけではなく、彼が未だに抱き続けているアビゲイルへの想いも含めて受け入れなければ、彼を真の意味で愛することにはならない。
頭では理解できるが――、実際に達観できる程、ジルは大人にはなれなかった。
自分はチェスターの優しさに甘えてしまう癖に。彼の、唯一の甘えを受け入れられない自分は彼にはふさわしくない――、そう思ってしまったのだ。
衣装制作、舞台練習が進むと共にヘアメイク担当者達との打ち合わせも増えていく。 そのヘアメイク担当者達のチームリーダーはチェスターであった。フレッドの誕生会の時、ちらっと口にした『大きな仕事』はこのクリエイターズショーのことだったらしい。
必然的にチェスターと顔を合わせる機会は日に日に増えてきているが、ジルは最低限関わるに留めていた。
チェスターもまたジルの態度から察したのか、それとも、アガサから話を聞いたのか――、は、分からないし、知るのも怖いけれど――、彼も彼で、ジルと個人的な交流などなかったかのように他人行儀に接している。
一方で、いつにも増してジルは仕事に打ち込んでいた。
ショーの準備で思うところがあればそれとなく意見を出してみたり、ヘアメイクを自ら独学で研究してみたり。
与えられた役割を機械的にこなすだけでは、今までの自分と何も変わらない。
懊悩を晴らす為だけでなく、ジルは本気で自分自身を変えたかったし、見た目ばかりで空っぽな自分を脱したかった。
彼と手を取り合う関係にはなれなくても、せめて仕事では彼と同じ場所に立つにふさわしい存在でありたかった。
慣れないハイヒールを履く足が疲れてきたところで、CDデッキの停止ボタンを押す。個人練習のやりすぎで足を痛めては、参加モデル全員で行う貸スタジオでの練習中、講師から厳しく叱責されてしまう。
飛び込むようにベッドに腰掛け、足を投げ出したついでにハイヒールを脱ぎ捨てる。肌に滲む汗が少しずつ引いていき、上昇した体温も元に戻っていく。
息を整えながら、少し休憩したらシャワーで汗を流そうと思ったのと同時にインターホンが鳴った。
(2)
平日昼間の時間帯に来客とは――、ひょっとしてアパートの管理人が苦情を言いに来たのか。
思わず身構える間に二回目のインターホンが鳴り、仕方なくベッドから立ち上がった時に三回目が。続けざまに四回、五回と鳴り、実は単なる悪戯なのではと疑い始めたところで、六回目のインターホンが鳴った。
悪戯にしては少々悪質、もしかしたら空き巣の類で留守宅かどうかを事前に確認しているとか――、有り得ないとは言い切れない。
七回、八回、九回……と繰り返しインターホンが鳴らされる中、クローゼットから取り出した適当な上着を羽織って、恐る恐る近づいた玄関のドアスコープを覗き込む。
そして、インターホンを執拗に鳴らし続ける人物を確認するやいなや、安堵で胸を撫で下ろしつつ、込み上げる強い苛立ち任せに扉を開け放した。
「…………あっ…………」
「……何しに来たのよ」
「……えっ、と……」
「……とりあえず、入れば??その代わり、話は手短に頼むわよ」
煩わしさを隠しもせず、ジルは投げ遣りな口調で玄関前の外廊下に立っていた母を室内に招き入れた。母はびくびくと身を竦めて扉を潜る。
「椅子の代わりにここに座って」
面倒臭そうにベッド脇に座るよう促され、母は遠慮がちに腰を下ろした。ジルは隣に座ることなく、母の眼前で腕を組んで立っている。
紅茶かコーヒーくらい淹れてやるべきだろうが、先日の件が未だジルの中で尾を引いているせいで、その程度の気遣いすらもする気になれないでいた。
母が何の話をしに来たのか――、おおよその見当はついている。
「言っておくけど、お父さんには絶対謝らないからね」
母の顔が酷く強張ったかと思えば、縋るような目でジルを見上げてきた。
母は昔からこうだ。父を嫌い切っている癖に、ジルが父と揉めた時は必ず父の肩を持つ。記憶の限りではジルの味方をしてくれたことなど一度足りとてない。
募る一方の苛立ちで自然と眉間に皺が寄り、吊り上がり気味の目尻が跳ね上がっていく。険しさを増すジルの目付きに母は怯え、目線を逸らしては右往左往と彷徨わせる。
「あのさ、お母さん」
「……な、なあに??」
「ずっと前から考えていたんだけど、病院に駆けつけるのも嫌なくらいお父さんを嫌っているのに何でまだ一緒に居るの??本当に、自活していく自信がないだけ??」
「…………」
「黙ってないで、ちゃんと答えて」
母の、猫背気味な背中が更に曲がる。
蛇に睨まれた蛙、もしくは猫に追いつめられた鼠――、より一層萎縮する姿に良心が痛まないでもないが、真意を問い詰めたい気持ちの方が勝っていた。
母子の間に冷ややかな沈黙が降りる。
ジルの汗ばんでいた肌もまた、すっかり冷めきっていた。
「……お母さんは、ね。あんたみたいに綺麗でもなければ度胸もある訳でもなかったし、頭も大して良くなかったし、目立った取柄もなくて昔から誰かの影に隠れているような……、平凡も平凡、ううん……、もしかしたら、平凡以下かもしれない、そんな女だったのよ……。反対にお父さんは……、今じゃ信じられないかもしれないけど、若い頃はまぁまぁ良い男で結構もてていたの。結婚するまでは優しかったし、お金に煩くなかったしね……。そのお父さんと付き合うことになった時、周りの人達皆に『全然釣り合ってない』って失笑されたし、結婚する時だって、『子供が出来たから結婚するしかなかっただけで、いつか絶対離婚するよ』って、決めつけられたのが、すごく、すっごく悔しかったのよ……!だから」
「…………愛が冷めようが家庭が破綻しようが死ぬまで別れるつもりはない…………って??……はっ、あははは!バッカじゃないの!?」
「ば、馬鹿……だって……??」
「はは……、あははは!バカ以外の何者だっていうのよ!!あははははは!!!!」
絶句する母の青褪めた顔色、小刻みに震える唇など気付かない振りで、ジルは大声で笑い転げた。腹筋は引き攣るし、目尻に溜まった涙が頬を伝う。
つまらない、下らない意地のために、母は自身の人生の大半を棒に振っただけではない。プライドを保つ為なら、結果的に
「はは、可笑し過ぎて、壊れそうだわ……、あは、は、はははは……」
「……ジ、ジル……」
「うん、分かった、充分分かったから。とりあえずさ、あは……。……今すぐこの部屋から出てって……!」
目尻の涙を細い指先で拭うと、殺気立った目できつく睨み、叫ぶ。
ジルの剣幕に、母は飛び上がらんばかりにベッドから立ち上がり、逃げ出すように部屋から急いで出て行った。慌ただしく駆け去る足音、勢い良く玄関扉が開閉される音が立て続けに室内に反響する。
崩れ落ちるように床に膝をつき、さっきまで母が座っていたベッド脇に顔を埋め、声にならない声で細く呻く。両手で固く握り締めたシーツに酷く皺が寄る。
しばらくの間、ジルはそのままの姿勢で身じろぎ一つすらせず、微動だにしなかったが、やがて、静かに起き上がった。
起き上がったついでに、枕元にあった買ったばかりの業界向け美容雑誌を手に取ると、ショーに役立つ情報を探し始める。
出口の見えない暗闇に閉じ込められたような――、途方に暮れたような感情に浸っている暇などない、と、心中で強く唱えながら。
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