第17話 シーズ・ソー・クール(14)
(1)
気が付くと、ジルは図書館に隣接する公園のベンチでぼんやりと煙草を吸っていた。
空は赤く染まり、頭上を覆う銀杏の枝葉は乾いた風に揺れている。扇形の葉が一枚、二枚……と、足元に落ちていく。
たった今吸い終わった煙草の吸殻を横の灰皿スタンドへ放り込む傍ら、新たに一本、箱から抜き取る。数分後、吸殻と化したそれを灰皿スタンドに放り込むとまた一本吸い、更に数分後も同じように吸殻を捨てては新しい煙草に火を点け、煙を吐き出す……を何度も繰り返す。灰皿スタンドにはどんどん吸殻が溜まっていく。
一時間もしない内に一箱分の煙草を吸い、二箱目にも手を付ける。短時間で大量に煙草を吸ったせいで喉は乾燥し、肺や気管支が痛む。それでもまた新たな煙草に火を点け、煙を吸い――
「……げほっ、げほげほっ!」
咳き込んだ勢いで顔を伏せる。咳はすぐには治まらずしばらく続き、目尻には涙が滲んでいく。
日暮れ時の肌寒い空気に身を震わせているのに、ジルは一向に立ち上がろうとしない。ここから離れたくなかったし、もうどこにも帰りたくなかった。
母を置いてアパートの前から飛び出したジルは、大通りで捕まえたタクシーに飛び乗った。帰宅ラッシュより早い時間だったお蔭で渋滞に引っ掛かることもなく、二〇分程で病院に到着。時間外窓口専用の玄関を潜り、一番近い場所にあったエレベーターのボタンを押した。有り難いことに、エレベーターは丁度一階で待機していたため、すぐに扉が開いた。
ボタンを押した階まで上がるのに僅か一分もかからない短い時間でさえ、ジルにはやけに長く感じた。無意識に組んだ両腕を、片側の指先で忙しなくとんとん叩く。
目的の三階で扉が開くやいなや、急いでエレベーターを出る。真正面のナースセンターで父の名前と娘であることを告げ、病室の番号を訊き、薬品と消毒が混じり合った臭いが漂う廊下を足早に進む。壁も床も手摺も、やや黄ばんだ白で統一された空間の正面は長い廊下になっており、両脇の壁には各入院部屋の扉が並んでいる。
教えられた病室番号の白い扉をノックした後、勢い良く開ける。左右に三床ずつ並んだベッドのうち、右側の一番奥――、窓側のベッドにジルは早足で近づいていく。
「……お父さん……」
「……お前が、来たのか……」
「…………」
「……やっぱり、母ちゃんは、来ないか……」
ベッドで半身を起こした状態で座っていた父は、ジルを見るなり肩を落とした。
そんな父の様子をジルは見なかった振りをする。
「お母さんから、代わりに病院行ってきてって、頼まれたのよ。まさか検査入院するくらいだったなんて」
「いや……、CT??とかいう検査は異常なかったんだよ……、ただ、頭痛と眩暈が治まらなくてな……、少し様子見ることに、なったんだ……」
「ちょっと……、だったら、起きてないで横になってなよ……」
父は、ん、と短く頷き、ジルの言葉に従って大人しくベッドに横たわった。
「とりあえず、いるものがあれば私が用意するから。喋るのがしんどいなら看護師さんに聞いておくよ」
再び、ん、と頷く父を気遣わしげに一瞥する。
昔は恐ろしくて堪らなかったのが嘘のようで、弱りきった姿に何故か胸が痛んだ。
「じゃ、明日また来るから」
余り長居しては疲れさせてしまう、そう思って病室を出ようとした時だった。
「……自分の不注意とはいえ、入院費が勿体ない……。全くの無駄金だ……」
思わず深いため息をつきそうになるのを、寸でのところで堪える。
己の命が掛かっているかもしれない時まで、お金の話――、昔程極端ではなくなったが、相変わらずお金に執着する父が腹立たしくて仕方ない。
「……入院費なら私が全額出すわよ」
ジルだって、決してお金に余裕がある訳ではないが、父の入院費くらいなら捻出できないこともない。
「いや、いい」
ならば、最初から入院費が勿体ないとか言わなきゃいいのに。
つい舌打ちしかけたジルに、父は信じられない言葉を言い放った。
「売春まがいの商売で得た汚い金なんか、使いたくない」
絵画モデルの仕事を始めた当初、家出の件も含めた上で父からは勘当を言い渡されていた。
ディータの仲裁で一応は和解したもの、と、ずっと信じていたし、偶に(大抵は母に泣きつかれてだが)実家に顔を出しても、特に咎められた覚えもなければ当たり障りのない会話くらいは普通にしていた。
けれど、今、はっきりと思い知らされた。
父は、ジルの事を許していなければ認めていない。
全身の血が一気に引いていく中、思考だけはやけに冴え渡っていた。
同時にこの状況に強い既視感を覚える。
『女に大学行かせたところで何になる!どうせ結婚でもすれば仕事なんて辞めちまうんだから無駄だ!!それよりも
幼い頃から図書館で働くのが夢だった。
図書館の職員になるには、大学もしくは大学院で専門の教育を受けなければならない。大学の学費は無償だから金銭面で父にとやかく言われる心配もないだろうし、ジルが大学に入れるだけの学力を身に付けさえすればいい――、そう信じていたのに。
中学の進路相談時、両親に大学進学の希望を告げたところ父に猛反対されたのだ。
あっけなく夢を打ち砕かれた後、優秀だった学業成績は著しく低下。学校も休みがちになり、次第に家出や夜遊びを繰り返すようになっていった。
「……あんたにだけは、私の仕事のことをどうこう言われたくないわよ!元はと言えば、あんたが……!あんたが、私が本当にやりたかったこと、認めてくれなかったからじゃない!!ふざけんな!!」
忘れていた筈のやり場のない憤り、反発心が腹の内で沸々と煮え滾った末での爆発。
「あんたなんか……!とっととくたばっちまえ!!」
その後、ジルは父と何を話したのか(まともに会話しなかったかもしれない)、どうやって病室から出て行ったのか、もしかしたら、看護師に追い出されたのかもしれないが――、この公園までどうやって辿り着いたのかも――、よく、覚えていなかった。
(2)
「……煙草を吸うなとは言わないけどさー、ちょっと吸い過ぎじゃないかなー??」
突然、思いがけない声が頭上から降ってきた。
驚いて顔を上げれば、随分と高い位置から薄茶の双眸が困ったようにジルを見下ろしている。目を大きく見開いたまま硬直するジルに構わず、チェスターは当たり前のように隣に座った。
「今日から明後日まで、フレッドがエドワード君の家にメアリちゃんと一緒に泊まりで遊びに出掛けたんですよー」
「……??……」
「そしたら、出掛ける間際になって『図書館で借りた本を返しに行くのを忘れた。返却が今日までだから返してきて欲しい』と言い出しましてねぇ。まったく、俺がたまたま仕事休みだったから良かったものをー。あの子、普段しっかりしている癖に変なところで抜けてるんですよねぇ。で、買い物帰りに本を返却しに図書館行ったら、隣の公園で一人ベンチに座ってるジルさんを見つけた訳です」
「………………」
チェスターが腕に抱える大きな紙袋をちらりと横目で見た後、ジルは再び項垂れる。チェスターは何も言わず、黙ってしばらくジルの頭を撫でていた。
大きな掌に触れられている内に、激しくささくれ立った心が少しずつ和らいでいく――
やがて、ジルがゆっくり顔を上げると、チェスターはベンチから立ち上がった。立ち上がりざま振り返ったチェスターの長い髪は夕焼けと同じく赤みの強いオレンジ色に輝いていた。
「さてと……、帰りましょっか」
「……どこに?……」
「
まだベンチに座っているジルに、チェスターは空いている方の手を差し伸べる。
その手に掴まっていいものか躊躇っていると、強引に華奢な手首を掴まれ、ベンチから引き起こされた。
「……お父さんみたい……」
「せめてお兄さんにしてくれません??」
一連の行動が迷子を家に連れて帰るかのようで、つい漏らした呟きに、振り向いたチェスターは苦笑を漏らした。
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