第12話 閑話 シーズ・ソー・ラブリー(2)

(1)

 

 消毒液と粉ミルクの匂いが混ざり合った個室部屋はそんなに広くなかった。

 かつては白かクリーム色だっただろう壁紙は日焼けで黄ばんでいて、あちこち染みの跡が付着している。奥の窓にかかるカーテンも染みや黄ばみが目立ち、窓際近くのベッドの下、床には建設中に付いてしまったらしき足跡がくっきりと残されていた。さすがにベッドのシーツ類は汚れ一つなく清潔だし、ベッドで半身を起こすアビゲイルも元気そうだった。


『ね??私の言った通り、男の子だったでしょ??』


 以前にも増して細くなった腕に抱く赤ん坊を、チェスタ―へ誇らしげに見せつけてくる。ベッド脇に佇みながら、促されるままに赤ん坊の顔を確かめてみる。

 長く濃い睫毛、薄っすらと生えた髪の色、生後間もない割に鼻筋の通った顔立ち。3000g以下で生まれた小さな体躯を除き、赤ん坊はアビゲイルにほとんど似ていない。


『しかも、ちゃんと『あの人』そっくりに生まれて来てくれたの』

『……へぇ―』

『それでね、名前ももう決めているの』

『何て名前??』

 アビゲイルは頬を淡い薄桃色に染め、恥じらうようにはにかむ。

『アルフレッド』

『……まさかと思うけどさ、ひょっとして……』

『えへへ、そうなの!『あの人』の名前をそのまま付けようと思うの!』


 返す言葉をなくしたチェスターは、アビゲイルの笑顔から目を逸らしたくなり。もう一度赤ん坊の顔に視線を戻した。しかし、アビゲイルは逸らされた視線を追ってチェスターの目を覗き込んでくる。目を逸らされた理由に全く気づいていないが、朗らかな笑顔が消えていた。

 今にも泣きそうな程不安げな表情を浮かべるアビゲイルに、チェスターはため息を押し殺す。アビゲイルがこの顔を見せる時は、彼女曰く内緒の打ち明け話や相談事を持ちかけてくる時だから。


『あのね、チェスター。あのね……。絶対、絶対誰にも内緒にしてくれる??』

『俺、アビーから聞かされた内緒話をバラしたこと、あったっけか??』

『ないわよ!チェスターに限っては一度もないよ!!』

『でしょでしょー??さて、今日の俺への内緒話は一体何かなぁー??』


 わざと笑っておどけた物言いをしてみせれば、アビゲイルは憂い顔から再び笑顔に戻った。彼女がこれから打ち明けようとする話に、チェスターは大体察しがついている。

 気弱で臆病なアビゲイルが秘密を終生胸に秘め続け、墓場まで持っていくことなどできる筈がない。遅かれ早かれ、いずれは自分にだけは打ち明けてくるだろうと踏んでいた。

 アビゲイルは緊張した面持ちで周囲を何度も見回す。部屋にはチェスターの他に誰もいないというのに。

 そうして、アビゲイルが語り出した内緒話は、チェスターの予想通り、『あの人』についてだった。





(2)


『あたしの友達にセシルっているでしょ??そのセシルがね、あるバーで働くバーテンさんに恋しちゃったんだけど、一人で夜の盛り場に行くのがどうしても怖いからって、あたしについてきて欲しいってお願いしてきたのよ。でも、ほら、あたし、ママがダメって言うからって最初は断ったのよ??そしたら、しばらくしてまた、セシルからお願いされちゃって。他の友達はもう付き合ってくれない、でも一人じゃ怖いし、でも彼には会いたいからって。しまいには泣き出しちゃったからだんだん可哀想になっちゃってね。じゃあ、一回だけなら、その代わり、ママにバレないようにこっそり家を抜け出す方法考えてくれたら、一回だけ付き合ってもいいよって。セシルはあたしの言った通りにしてくれたわ。セシルが買ってきてくれた登山用のロープをベッドの脚に括りつけて、二階のあたしの部屋の窓から屋根、屋根から外壁をロープで伝ってね、地面に降りて家から抜け出したのよ。ママ??うーんとね、ほら、ママはあたしが部屋でベッドに入るの確認した後は睡眠薬飲んで寝るから。朝、目覚ましがなるまで絶対起きないし、ママが起きるまでに帰ってベッドに入れば大丈夫だったわ』


 夜遅くにこっそりと家を抜け出す――、アビゲイルにしてみたら一世一代の大冒険だったに違いない。初めての大冒険によって高揚し、浮かれた気分で目的地のバーに到着した彼女は、更なる新しい扉を開いた。 


『『あの人』はね、そこのバーでピアノを弾いていたの。切れ長の薄灰色の目がとっても印象的で、シュッとした顔立ちで……、すごく、すっごく綺麗な顔してたわ……。ブルネットの長い前髪がサラサラしてて……、童話の王子様はきっとこんな感じなんだろうなぁ、って。あんなにカッコいい男の人、見たことなくて……。ピアノ弾いている間中、ずっとあの人しか目に入らなかったの……』


 頬に手を添え、ほぅ……と嘆息するアビゲイルの恍惚とした表情と裏腹に、チェスターの顔からは表情が消え、僅かに眉間に皺を寄せていた。アビゲイルはチェスターなど目に入っていないかのように、うっとりと語り続ける。

 結局、その夜は自分から彼に話しかけられず、そっと熱視線を送るしかできなかった。


 一度だけ、たった一度だけの大冒険のつもりだったのに。

 一目惚れ――、初めての恋に落ちたアビゲイルは、その後も母の目を盗んでセシルと共に、『あの人』がいるバーへと足繁く通った。


 通う回数を重ねるごとに母の言いつけを破る罪悪感は徐々に薄れていく。

 いかに母に気付かれないよう、なるべく長い時間店に滞在できるか。あの人ともっと親しくなれるのか。

 彼女の頭はもう、それしか考えられなかった。


『『あの人』ともちょっとずつ話せるようになってきてね。年はあたしの三コ上、あ、ちょうどチェスターと同い年だね!名門の音楽院に通ってて専攻はもちろんピアノ。ご両親は有名な交響楽団員で、彼も将来その楽団員になることを望まれているんですって。腕を磨くためにバーでピアノ弾きのアルバイトしていたのよ。ね、凄くない?!でもね、あの人とお話しできるようになってからしばらくして、楽団の入団テストの対策に専念しなきゃいけないからバーを辞めることになって……。もう会えなくなるかもしれないって聞かされて、それで……』

『あ、アビー、それ以上は……』


 アビゲイルがあの人への熱弁を振るえば振るう程、チェスターの心は冷えていく。皆まで聞かずとも予想がつくし正直聞きたくない――、けれど、アビーは口を閉ざしてくれなかった。


『一晩だけでいいから一緒にいて、って、お願いしたの』


 その音楽院の入学者は上流階級アッパークラス中産階級ミドルクラスの者がほとんどだ。

 親が楽団員となればまず中位中流ミドル・ミドル以上の筈だが、上位・中流の出自の者がわざわざ自ら進んでワーキングクラスの店なんかで働くだろうか。もしくは――、嘘をついているか。

『あの人』の話し方、服装、立ち居振る舞いが本当に上位・中流のものだったのか。残念ながら、世間知らずなアビゲイルでは見分けるのは非常に困難だし、顔が良いのを盾に、ちょっと上品ぶった話し方や服装というだけで簡単に騙されてしまうだろう。

 仮に、彼が真実、中流以上の出身だとして――、アビゲイルとの関係など、ほんの一時の気まぐれに過ぎないのに。


 アビゲイルは一生に一度の運命的な恋だと思い込み、あげくの果てには生まれた子供を『あの人』の身代わりにしようとしてさえいる。

 時折、腕の中で眠る息子を見つめる眼差しは、我が子への慈愛というより『あの人』の影を求め、縋っている方が近かった。


 寄り添う母子の姿は傍から見れば尊くも美しい――、しかし、チェスターの目には歪で痛々しい光景に映っていた。











(3)


「……さん、父さん!」

「お、おおう?!」


 急に後ろから呼びかけられ、一気に過去の回想から現実に引き戻される。

 慌ててコップの水で口を漱いで振り返れば、フレッドは神妙な面持ちでチェスターを見上げていた。


「どしたー、フレッド??」

「…………」

「んー??」

「あの、さ……」

「昨日のクソオヤジの件、まだ気にしてるとか??」

 フレッドは小さく呻き、チェスターから徐に目を逸らした。

「あいつのことなんか一切気にすることないからな??」

「…………」

「誰が何と言おうとお前はうちの子だ。もしも、アビーとあの男がお前を引き取りたいとか言い出してきたら、出るとこ出て争ってでもお前を渡すつもりはないから」

「…………」


 フレッドの表情は一向に晴れない。

 チェスターは数瞬だけ逡巡すると、少し声を低めて問いかけた。


「それとも、のところで暮らしたいのか……」

「そんなの、死んでも嫌だ!!」


 白い顔を真っ赤に染め、悲壮ささえ漂わせてフレッドは大声で反論した。

 息子の叫びに安心したチェスターはいつもの笑顔を浮かべ、「じゃ、気にしちゃダメダメ!分かったなら、早く朝メシ食べてこいよー」と、下の台所へ行くよう促したのだった。





 半年前のある日、買い物に出掛けたきり、アビゲイルは二度と帰ってこなかった。

 数日後、弁護士を名乗る初老の紳士が自宅を訪問し、チェスターに告げた台詞――


『アルフレッド・マクダウェルと貴女の妻アビゲイル・オールドマンの代理で離婚届へのサインをお願いに参りました。マクダウェル氏とアビゲイル・オールドマンは再婚を前提に、現在生活を共にしています。慰謝料も貴方が望むだけの金額を幾らでもお支払い致します。どうかサインを頂けないでしょうか』


 二人がいつ、どこで、どうやって再会してしまったのか。

 知る由はないし知りたくも――、ない。


 突然の別れ――、そして、裏切り。


 それでもアビゲイルを憎むことがチェスターには到底できそうにない。

 彼女が上流の生活や人々に馴染めず、いずれは逃げ帰ってくるのではないかという憶測すら立てている。

 周囲には別れたと話してはいるが――、未だ離婚届にサインは押されていない。

 マクダウェルとアビゲイルも事を荒立てたくない、極力穏便に進めたいらしいので、時折顧問弁護士を催促に行かせるだけに留めているのを幸いに。


 万が一、アビゲイルが戻ってきた時のために、居場所を残しておきたかった。

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