第13話 シーズ・ソー・クール(10)
(1)
肩紐と胸元、裾を黒いレースで縁取られた深紅のビスチェ、黒のパニエとガーターベルトだけを着用し、ロッキングチェアに浅く腰掛ける。煙草を咥え、肘掛けの片側にもたれかかって足を組む姿は、大半の良識ある人間ならば眉を潜めるだろう。当のジルでさえ、本来の自分ならば絶対にしない恰好や行動(喫煙は除く)だと思っている。
そう、これはあくまで仕事の姿。指示した
天窓から降り注ぐ陽射しがスポットライトのように、白い肌と淡い髪色を輝かせる。油絵具、ワニスの臭いが籠らないよう、三分の一程開けられた喚起窓から微風が流れ込む。ジル自身は動かずとも自然と揺れるチェアの動きで毛先が僅かに乱れ、頬や額にかかった。
キィ、キィとチェアが揺れるごとに軋んだ音が鳴るのと、ディータが筆先をカンバスに走らせる音しか聞こえない、無音に近いアトリエ。長時間じっとしたまま、この静寂に身を委ねるのは嫌いじゃない。
「……ジル、一旦休憩入れようか」
絵筆とパレットを作業台に置くと、ディータは椅子から立ち上がりアトリエを後にした。ジルもロッキングチェアから立ち上がり、作業台の隅にある灰皿へと煙草を押しつける。作業台には先程ディータが置いた絵筆やパレットの他にも、筆先の太さ、素材の違う絵筆、何種類ものの絵の具等、多くの画材が散乱していた。
作業台の周囲、壁際には描きかけのカンバス、布を掛けたカンバスは完成させたものの気に入らずお蔵入りしたもの――等、複数のカンバスがイーゼルに立て掛けられ、絵にぐるり、包囲されているかのような錯覚を覚えてしまう。
『女性が描く女性美』がディータの絵のテーマであり、並んだカンバスに描かれているのも全て女性。中にはジルを描いたものもあり、自身の絵姿だけは一瞬チラ見する程度でサッと視線を逸らすが、ディータが戻るまでの時間潰しも兼ねて一つ一つの絵をじっくり眺めてみせる。
絵画モデルが生業とはいえ、未だにジルの絵に対する関心は正直言って薄いが、ディータの絵は好きだった。
「お待たせ」
扉が開き、ティーポットとカップ、菓子類が入ったバケットをトレーに乗せてディータが戻ってきた。
普段は
ディータは適当に作業台の上を片付けてトレーを置くと、二つのカップに熱い紅茶を注いでいく。それぞれのカップの把手を指に掛け、はい、と、その内の一つをジルに受け渡した。
「最近、ちょっと雰囲気変わったんじゃない??」
残ったカップに口をつけた後、ディータはジルに問う。
「さあ、どうだか……」
「さては男でもできた??」
カップに口をつけて液面に息を吹きかけるジルに、ディータは揶揄うように軽く問い重ねる。一口だけ紅茶を飲むと、ジルはわざと溜め息を吐き出す。
「まさか。そういうの興味ないんだよね」
「なんだ、つまらないわね。少し会わない内に、心なしか表情が柔らかくなった気がしたけど……。私の気のせいなのかしら」
探りを入れるディータの視線をさりげなく避ける。
ジルの気を知ってか知らずか、ディータの言葉は止まらない。
「でも私としては、成熟した色気を貴女に持ってもらいたいのよねー、そしたら更に描きたい衝動に掻き立てられそうだもの」
「それと男と付き合う事とは特に関係ない気もするけど」
「相変わらず冷めてるわねぇ」
「面倒臭い」
「ちょっと、若いのに枯れすぎ!貴女だってね、心の底から好きだと思える男と出会ったら、絶対考えが変わるわ!」
色恋事について、爛々と目を輝かせて熱く語るディータにはほとほと呆れ果てる。母やアガサと年が変わらない筈なのによくやるよ、と。
人目を惹く容姿のお蔭で気難しい性格にも関わらず、ジルは一定の男性――、主に年上から誘いを受けるため、
絵画モデルになってからも何人かの画家や芸術家達と付き合ったし、割り切った身体だけの関係を持ったこともある。
だが、ジルは相手が自分に惚れ込んでいる程心を開かなかった。否、彼らはジルに惚れこんでいる様で、冷たく頑な彼女を屈服させたい支配欲に駆られていたから。甘い言葉にも絆されることなく、一貫して冷淡な彼女に相手も次第に冷めていくので、結果、交際は短期間で終ってしまう。
好きでもない相手となぜ付き合ったのか。
好きでもないけど嫌いでもなく、断る理由がなかったから――ただ、それだけのこと。
しかし、ここ一年程は男性との交際自体が億劫になり、恋人も寝るだけの男性もいない。自分にはさして必要のないものだと気づいたからだ。
「貴女は人を愛することを怖がっているだけよね」
聞き分けのない幼児を諭すかのようなディータに、少し苛立ったが特に言い返しはしない。代わりに口を固く閉ざし、温くなりかけている紅茶を一気に飲み干した。
ジルの機嫌が傾いたのを察したのか、あるいは仕事を再開する気になっただけか――、おそらく後者だろう――、ディータはジルに再びロッキングチェアに座るよう促す。それからは、ディータが絵を描くのに集中しだしたのでお互い無言で時を過ごした。
煙草を咥えてロッキングチェアに揺られながら、ふと、フレッドの誕生日会からの帰途をジルは思い出していた。
(2)
似たような外観の建売住宅群の中をチェスターと二人、並んで歩く。
オールドマンの家から自宅アパートは西の方角に当たるため、諸に西日の輝きが視界を遮ってくる。眩しさに思わず目を細めれば、チェスターも庇代わりに右手を目の上に当てていた。
歩道側にはジルの影、車道側に頭一つ分高いチェスターの影が肩を並べている。
あの玄関での一件もあり、チェスターの何かしらの本音が聞けるかもしれないというジルの期待はあっさり外れた。
チェスターは軽い口調でとりとめのない話をするばかりで、ジルは適当に相槌を打ちながら内心残念に思う。
それでも、会話の途中に挟まれる笑顔は、仕事中に見せる自信有りげな笑い方でも家族や従業員達と過ごす時の快活な笑い方でもなく。ひどく寂しそうな、力無い笑顔こそが彼の本当の顔なのではないだろうか。
チェスターはジルを優しい人だと評した。
けれど、この人の方こそ、いつでも人のことばかり考えている、底抜けに優しい人なのでは――、少なくとも、自分なんかよりもずっと、ずっと。
「ジルさん、今日はフレッドの誕生日会に来てくれて、本当にありがとうございました。もし良ければ、これからも今日みたいに
「……えっ??」
ジルは一瞬、耳を疑った。
オールドマン家の只ならぬ家庭事情を、それも付き合いの浅い自分が、偶然とはいえ知ってしまったのに。
チェスターの真意が掴めなくてその場で一旦立ち止まる。つられてチェスターも立ち止まったので、向かい合う形で恐る恐る薄茶の双眸を見上げてみせる。
「ジルさんがいると、家族も従業員達もいつもより随分と楽しそうで、なんていうかー……、場が明るくなる気がしたんですよねー。母も若い友人が出来た!って喜んでいましたしー。……と言っても、家族や友人、恋人とか他に優先すべき付き合いがあるとか、貴女自身騒がしい環境が好きでなければ、無理にとは言いませんが――」
そう言うと、チェスターはもう何度目かに、力無く笑った。
この笑顔を前にすると、胸の奥が細い針先で突かれるかのようにチクチク痛む。
一つ一つは取るに足らない痛みなのに、間断なく続くせいで嫌でも気になってしまう。
「……アパートで一人暮らしだし恋人も友人も特にいないし。騒がしいのは……、実は好きじゃないけど、貴方の所は例外です……。だから……、……またいずれ、お邪魔しますね??」
柄にもないことを言ったせいか、何故か疑問形で返してしまった。
チェスターは特に気にせず、「ありがとう」とだけ言って微笑んだ。
その笑顔は少しだけ明るさを取り戻していた――、気がする。
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