第11話 閑話 シーズ・ソー・ラブリー(1)
(1)
窓ガラスから漏れる朝の光が、洗面台の鏡を鈍く輝かせていた。
鏡の前で歯を磨くチェスターの長い金髪の毛先はあちこち跳ね、頬や口周りは塩でも振ったような髪と同色の髭がぽつぽつ伸びている。とろんと瞼が半分閉じかけた薄茶の瞳から、意識が覚醒しきっていないのが伺えた。
職業柄、外見には気を遣っているし、実年齢よりも若く見える自信はあるが、鏡に映る起き抜けの無防備な顔はどう見繕っても三十過ぎの中年男のもの。
「ちょっと、チェスター。だらしないわよ!」
階段を上がってくる足音と共に、洗濯物の籠を抱えたアガサが横を通り過ぎ様チェスターを咎めた。寝ぐせも直していなければ髭も剃っていない、シャツの釦をかっていないので下に着用するタンクトップは丸見え、パンツのサスペンダーは腰から垂れ下がっている。
「ふぁー、ごへんごへん(あー、ごめんごめん)」
「歯ブラシ咥えたままで喋らないのっ」
アガサは息子の尻をベシッと一発叩くと、廊下の突き当りにあるベランダへ行ってしまった。苦笑交じりに見送っていたチェスターは、母の背中が見えなくなると歯磨きを再開しだす。
つい半年前までは、母ではなくアビゲイルに全く同じように注意されたものだ。
だらしないと怒られ、歯ブラシを咥えたまま適当に返せば、更に尻を叩かれる。
別にアガサはアビゲイルの真似をした訳ではないし、単なる偶然でしかない。分かってはいるが――、一度開かれてしまった思い出の蓋は簡単に閉めることができなかった。
(2)
両親が離婚したのはチェスターが七歳の時だった。
父は俗に言う「髪結いの亭主」そのものの男で、かつてはアガサと同じ店で働く美容師(それが縁で両親は結婚した)だったらしい。
ちょっとでも店の人間や仕事の方針が合わないと思うとすぐに仕事を辞め、新しい場所で働き始めても気に入らないことがあれば、またすぐに辞める――、を何度か繰り返す内、とうとう仕事自体しなくなったという。
父は、実家の店を継いだアガサの稼ぎを頼りに一日中家でゴロゴロするだけにとどまらず、あろうことか若い女との浮気に走った。我慢を重ね続けていたアガサはとうとう離婚に踏み切り、幼いチェスターは心に固い誓いを立てる。
『僕は絶対に、お父さんみたいな、ろくでなしにはならない』と。
そして、母子二人で心機一転、新たに引っ越した二軒続きの家の隣人が当時四歳のアビゲイルであった。
アビゲイルは小柄で瘦せっぽちの上に弱視で、四歳にして牛乳瓶の底のように分厚く、大きな眼鏡を掛けていた。気弱で大人しく同年代の他の子供と比べて動きも鈍かったので、何かと揶揄いの対象になりがちな彼女を庇っているうちに自然と兄妹みたいな関係に発展していった。
アビゲイルの母は非常に神経質な人であり、夫との死別で家族を喪う不安や恐怖ゆえに一人娘を厳しく躾け、過剰な束縛を施していた。見兼ねたアガサが何度か諭してみても、激高されるばかりで聞く耳すら持とうとしない徹底したその内容は――
学校以外で友達と遊んではいけない。学校帰りや休日に外で遊ぶのも禁止。(チェスターは隣同士のため例外)
悪い男に目を付けられてはいけないから、赤やピンク等の女の子らしい色やレース等の装飾がついた服の着用禁止。
甘い物を食べると太るし、頭が悪くなるのでお菓子は禁止。ニュース以外にテレビを観るのは禁止。
門限について夏季は十八時、冬季は十七時。一分でも遅れたら夕食抜き。夜九時までの就寝。
数え上げればキリがない程の禁止事項の数々を、アビゲイルは思春期に入っても、成人してからも反発することなく、忠実に守り続けていた。
母への不満を感じていない訳ではない。ただ、反抗できるだけの気概がアビゲイルにはなかっただけ。
素直で従順だが、二言目には「でも、ママが」「ママがダメだって」「ママが、ママが」が口癖。いつまで経っても小さな子供のような彼女に同世代の友人など中々できる筈はなく。友人と呼べる存在は片手で足りる程しかいなかったせいか、チェスターが一番親しい存在であった。
困りごとが起きる度にしょっちゅう泣きつかれる。相談に乗って慰めるのはチェスターの役目であり、彼自身も常に彼女を気に掛けていたし、他の女の子と付き合っていてさえ、アビゲイルを気に掛けるので相手から愛想をつかされることもしばしば。
そんな二人の関係をアビゲイルの母親は心配どころから喜んですらいた。
『アビーをお嫁さんにもらってくれないかしら』と、耳にタコができる程言われていたし(その度に笑って濁していたが)、アビゲイルがアガサとチェスターの美容院で働いていたのも自宅から近い場所に店があるから。仕事で帰りが遅くなってもチェスターが送ってくれるという信頼と安心感ゆえ。
でも、それはチェスターが隣家の息子だから。
仮にアビゲイルが彼と結婚しても、自分の目の届く範囲に置いておけるから。
もしもチェスターが別の街へ移るとかであれば、掌を返すようにアビゲイルとの交流を禁じただろう。
母によって半径一㎞圏内の世界でしか生きられず、良くも悪くも純粋な子供のまま成長してしまったアビゲイル。
いつか何かのきっかけで箍が外れたら……、と、チェスターは常々懸念を抱いていた。そう、悪い予感程的中するもので――
あの日は夏の盛りだった。十八時を過ぎても生温い空気が肌に纏わりつく中、アガサやエリザと閉店作業に勤しんでいた。当然、玄関の扉には『close』の札が掛かっていたのだが、突然、壁に叩きつける勢いで乱暴に扉が開かれた。
何事かと三人が一斉に注視した扉から、肩を大きく上下させて激しい息切れを起こしたアビゲイルの母が店内に飛び込んできたのだ。
呆気に取られる面々など構わず、押し入るように店内に入ってきたアビゲイルの母はいきなりチェスターに掴みかかり、こう言い放ったのだ。
『よくも私のアビーを傷物にしてくれたわね!!』
血走った目で髪を振り乱し、今にもチェスターに殴りかからんばかりなのをエリザとアガサで必死に止め立て、宥め、よくよく話を聞き出してみれば――
『アビーが、私の大事なアビーが……!あぁ、口にするにもおぞましい!!まさか、妊娠しているなんて!!相手はあんたでしょ!チェスター!!アビーと仲の良い男なんてあんたの他に誰もいないんだから!!』
仕事が休みで家にいたアビゲイルが倒れ、病院に連れて行った結果、医師から妊娠していると告げられたという。
まさかの衝撃を覚えつつ、勿論、チェスターの身に覚えなど一切なかったが、いくら説明しても頑として納得してくれない。仕方なく残りの閉店作業をエリザに任せ、アガサと共にアビゲイルの家へと向かった。
家具の種類や配置は違えど、自宅と同じ構造、同じ材質の扉や壁紙のリビングのソファーで、クッションを抱えてアビゲイルが座っていた。眼鏡を外していて、目立った特徴のない地味な顔が酷く青褪めていた。
チェスターとアガサの姿を認めると、『ママには、チェスターじゃない、違うって、ちゃんと言ったのよ……??』と、叱られた子供のように首を竦めて訴えかけてくる。
アビゲイルの隣に彼女の母が、向かい側のソファーにチェスターとアガサが座り、話し合いが始まった。
チェスターへの疑いが晴れるまでに数時間を要し、「じゃあ子供の本当の父親は誰」と話題が移った途端、アビゲイルは『それだけは絶対言えないわ、秘密よ』と固く口を閉ざしてしまう。
チェスターとアガサが、持てるだけのあらゆる言葉を尽くして説得を試みても、再びヒステリーを引き起こしたアビゲイルの母が、泣き叫びながら彼女を何度となく叩いてさえも。アビゲイルは涙の一粒も零すことなく、ただじっと俯いて沈黙を貫いていた。
どのみち、周囲がどんなに騒ぎ立てたところですでに妊娠二十四週目に入っている。堕胎は絶望的で、最早出産するしか道は残されていない。
『ねぇ、貴女はアビーばかりを責めているけれど。何故、半年もの間、娘の妊娠に気付かなかったのよ。確かに、お腹も出てないから気付きにくくはあったかもしれない。ほぼ毎日一緒に仕事している私達もだし、貴女の落ち度でもあると思うわ』
アガサの厳しくも的確な言葉に、喚いてばかりだったアビゲイルの母は顔を引き攣らせて押し黙った。おそらく、自分でも分かっていながらも認めたくなかった事実なのだろう。
『違うの、小母さん。ママは何も悪くないの』
『アビー』
『だって……。赤ちゃんができたこと、どうしてもママに知られたくなくて……。知られたら、絶対無理やりにでも中絶させられちゃうから……。毎月生理がきそうな時期にナプキンをゴミ箱に捨ててたの』
『な……』
今度はアビゲイル以外の面々が言葉を失う番だった。
純真だが少し足りないところのある彼女が思いがけない周到な行動で、何カ月も周囲の目を欺いていたとは。
『だって、あたし、どうしても『あの人』そっくりの綺麗な顔した男の子が欲しかったんだもん。だから、赤ちゃんできて本当に嬉しかったの』
『アビー……』
『あのな、アビー。お腹の子が男の子かどうかなんて生まれてみなきゃ、わからないだろー??もしも、女の子だったり相手の男に似てなかったら――』
『そんな訳ないもん、この子は絶対に『あの人似』の男の子だもん!あたしには分かるの!!』
冷房など入れていない筈なのに、この真夜中のリビングの空気は寒気を覚える程に冷え切っている。
膨らみが目立たない腹を撫でるアビゲイルは、凍り付いた室内に全くそぐわない無邪気な笑顔を浮かべていた。
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