第10話 シーズ・ソー・クール(9)

(1)


「何しに来たんですか」

 玄関扉を閉めると、段差に腰掛けたままフレッドがこちらを振り返った。

 細めた切れ長の瞳と歪めた唇は不機嫌さよりも気まずさが勝っているように見える。

「アガサさん……、あんたのおばあさんから、お茶が入ったからあんたを呼んできてって頼まれたのよ」

「ばあちゃんが??」

 一定の距離を取るように扉の前で佇むジルを、フレッドは訝しげに見返したが、すぐにジルから顔を背けてしまった。

「わかった……けど、もう少ししたら戻るって伝えておいてください」


 ジルの顔も見ず素っ気なく言い放つと、フレッドは膝に顏を埋めてまたさっきと同じ歌を歌いだした。自分自身を延々と蔑む歌を。

 ジルは扉の把手を掴んではいるが、中に戻るどころか扉を開けようともしない。ただ、膝を抱えて小声で歌い続けるフレッドの後ろ姿を無言で見下ろしていた。

 晴れていた空に雲が広がりだし、少しずつ陽射しに陰りが帯び始める。天気までが歌の昏さに引き摺られたかのように。


「まだ何か??」

 一向に戻ろうとしないジルをフレッドはもう一度振り返る。今度ははっきりと苛立ちを表情や声に滲ませて。

「一人で陰気臭い歌を歌っているのに気にならない訳がない」

「別に深い意味なんてないし、好きな歌だから歌っている。それだけですけど」

「そんなに好きなの、この曲」

「好きだったら悪いんですか」

 顔つきは険しいのに唇を尖らせている様がやけに幼く見える。毛を逆立てる子猫みたいだ。

「いや、誰も悪いだなんて言ってないけど」

「確かに歌詞の内容は暗いけど、声もメロディも綺麗だし崇高ささえ感じますよ」

 不貞腐れた顔して『崇高』という言葉が飛び出すとは。

 大人びた言葉選びと子供じみた表情との落差、ある意味彼らしい気がする。

「でも、父さんやばあちゃんはこの歌を俺が歌うといい顔しないし、メアリとエドも暗い暗いって言うから……。歌いたくなった時はこうしてこっそり歌うしかなく……って、なんで、ギャラガーさんまで座るんですか?!」

「距離を空けて話すのが少し面倒になってきたから」


 ジルはフレッドの右側、彼と同じくポーチの段差に腰を下ろした。コンクリートの冷たさがひやり、尻から全身に伝わっていく。

 晴天から曇天に変わったせいで気温も少しずつ下がってきている。フレッドは身体を左へずらし、隣のジルと間隔を空けて座り直した。

 あからさまな、と呆れたが、立ち去らない辺り本気で嫌がっている訳ではない、筈。


「私一人で戻ったら、きっとアガサさんやオールドマンさんがフレッド君のことを心配するからよ。もしかしたら、あの場の雰囲気が居づらく感じてたとか、全く楽しめていないとか」

「居づらくもなければ皆のことも好きだし、ゲームも楽しかったし。ギャラガーさんの考えすぎですね」


 そっぽを向いたまま、ふん、と鼻で笑われた。生意気にも程があるのでは、と、さすがに少しカチンときた。

 そんなに言うなら好きなだけここにいればいい。

 だんだん心配するのが馬鹿らしくなり、段差から腰を浮かしかけ――


「……だけど、俺……。本当は……、この家にいていい人間じゃないのに、って、ふと我に返る時がある……。決して居づらい訳じゃない……、でも、どんなに楽しくても皆のことが好きでも……、心の底から、ここが自分の居場所だとは、どうしても思えなくて……」


 聞き逃してしまいそうな程、小さく掠れた呟きに浮かしかけた腰を再び下ろす。相変わらず、フレッドはジルから顔を背けているので表情は見えない。

 さらさらと流れる前髪が白い額や目に当たり、俯いた顔に降りる陰を色濃くさせる。


「多分、父さんから聞いたかもしれない、けど……」

「……知ってる。あんたが、アビゲイルさんの連れ子だって。でも、私は気にし過ぎだと思う。オールドマンさん達はちゃんと家族の一員として見ているし、少なくとも今日集まった人達はフレッド君を大事にしている。あんたは自分が思うよりも周りから愛されているよ」

「……っつ!そんなことは、分かってるよ!」

 フレッドは急に泣きそうな目でジルを睨み据えた。

「……そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ……!」

「……じゃあ、何なの??」


 愛されている自覚があるのなら、一体何に対して苦悩するのか。

 彼の口ぶりから母親に捨てられたことや複雑な家庭環境とはまた別の理由が大きそうだが――、正直な所、ジルには皆目見当つかない。 


「あれ??お前、まだこの家に居座ってるのかよ?!」


 突然、素っ頓狂な叫び声が頭上に降ってきたせいで、ジルの思考は遮断され、現実に引き戻された。汚れの目立つスニーカーの爪先、くたびれてよれよれになったジーンズの裾が足元の視界に映り込む。

 フレッドを気にする余り、叫び声を聞くまでその人物がすぐ目の前にいたことにジルは全く気付けなかった。感傷に耽っていたフレッドも同様で――、ただし、彼の反応はジルとはまた違っていた。

 見知らぬ者への警戒心からジルは鋭い視線を飛ばすが、フレッドはサッと顔を青褪めさせる。二人の反応を、その人物――、初老の痩せぎすの男は面白そうに見つめていた。


「とっくにこの家から追い出されてるものかと思ってたのになぁー、まぁ、チェスターのことだから我慢して面倒見てるのかもしれんが……、よくもまぁ、平然とここで暮らし続けられるってもんだ。あの元嫁の血引いてるだけに図々しさが似たのかねぇ」


 男はわざとフレッドに詰め寄って話しかけてくる。

 ニタニタと嫌らしく笑って喋る度、酒と煙草のヤニ臭さが混じった息がジルの顔にまでかかり、不快さに鼻先を顰めた。フレッドは俯ぎがちだった顔を更に俯かせ、男の不躾な言動と口臭に黙って耐えている。


「どうせ出て行くなら、元嫁もついでにお前も一緒に連れて行けば良かったのに。お前もと一緒に暮らした方が幸せってもんじゃないか……」

「……いい歳した大人が、それも年寄りが、子供相手に絡むんじゃないわよ」

「ん??誰だ、姉ちゃん」

「誰だはこっちの台詞。あんたこそ誰。この家と何の関係があるのよ。……例え、関係があったとしても、この子のことをとやかく言う筋合いはないんじゃないの」


 フレッドの前に立ちはだかったジルを、男は頭から爪先まで舐め回すように眺めた。含みある厭らしい視線は非常に腹立たしくも耐え難いが、これ以上フレッドを謂れなき悪意に晒す訳にもいかない。


「あぁ、もしかして!チェスターの彼女!」

「違う、私はこの子の……、友達」

 一瞬の躊躇いの後に言った『友達』に、フレッドが僅かに身じろぎする。

「友達ぃ??んなこと言ってさぁ、このガキに近づいて後釜狙ってんじゃないのかぁ??」

「馬鹿馬鹿しい……」


 にやけた赤ら顔、呂律が回りきっていない舌足らずな喋り方。パブで飲んで帰ってきた時の父と似通っている――、が、父よりもこの男の方がもっと下劣だ。

 どう見繕ったところでアル中のろくでなしが何だって、執拗にこの家の事情に深く踏み込んでくるのか。知りたいような、知りたくないような――、だが、どうにも強い嫌悪感には抗えそうにない。フレッドのためにもこいつは追い払うのが最善だろう。


「姉ちゃんがこのガキの友達ってなら、教えといてやるよぉ!このガキの本当のオヤジはな……、チェスターの元嫁が出て行った原因、要はあの女の浮気相手の男なんだよ!!」

「な……」

 思わず、足元で一層身を固くするフレッドを二度見してしまう。

 同時に、彼が苦悩する理由を瞬時に理解した、否、理解できてしまった。

「チェスターもとんだ大馬鹿野郎だよ、わざわざ嫁を奪った男のガキ育ててんだから……、ぶっ!!」


 背後で乱暴な音を立てて扉が開き、男の顔面目掛けて何かが、勢い良く投げつけられた。

 男の面中に当たったそれはバウンドした後、男とジルの足元へと落下。落下物は使い込まれた茶色い合成皮革の長財布だった。

 驚いて玄関を振り返れば、フレッドも呆然と同じ方向に首を巡らせている。


「それ、あげるから。帰ってくんないかなぁー??」

「チェ、チェスター!」

 いつも通り笑っている、笑っているが――、いつもと違い、その笑顔にジルは寒気を覚えた。

「時々俺に金せびりに来るの、母さんには内緒で渡してたけどさ。もうこれからはそういうのなしにしよっかー??っていうかさ、もう二度と家に来ないでくれる??」

「わ、わるかった、悪かったよ!な、な??絶縁だけは……」

「絶縁も何も元から俺とあんたはもう二十五年以上前から他人じゃん??今度もし家に来たら、迷うことなく警察呼ぶから覚悟しといてねー、っていうことで……。フレッドもジルさんも早く家に入って!折角の紅茶が冷めちゃうでしょー??」


 言いたいことを一通りまくし立てると、チェスターは後頭部をボリボリ引っ掻きながらジルとフレッドに、中へ戻るよう促した。

 リビングに戻るまでの間、フレッドはジルの顔を見ようとすらしなかった。

 扉の前まで辿り着いた時、平静を取り戻すためか、ふぅ、と深く息を吐き出したフレッドはドアノブを掴む。


「フレッド、お前さぁ、まーた一人でたそがれてたのかよ」

 扉を開け放つと、呆れ顔のエドがフレッドに駆け寄ってきた。

「もう!すぐ一人になりたがるんだから……!!ちょっとは協調性もちなよ!」

 エドの隣で同じく呆れ顔のメアリが腰に両手を当て、ぷんぷん怒っている。

「あぁ、もう、二人ともうるさい……」

「うるさいじゃない!!」

 声を揃えて怒る二人をさも迷惑そうにフレッドは見上げたが、先程までの顔色の悪さや表情の昏さは消えていた。

 そのことにホッとしつつ、開けっ放しになったままの扉を閉めようとする――、と。

「待って、待って、ジルさん!俺も部屋に入りますからー」

 廊下からバタバタと慌ただしい足音と共に、チェスターの大きな手が閉めかけた扉をぐっと掴む。入りやすいように扉を再び開ければ、彼もまた先程までの(顔は笑っていたが)怜悧さが消え、いつも通りの朗らかさを取り戻していた。


 父子揃って取り繕うのが異常に巧すぎじゃなかろうか。

 何とも言えない気分でドアノブから手を放す、放したつもりだった。

 チェスターもまた確認もせずにジルの手がドアノブから離れたと思い込み、自身で扉を閉めようとしたのだろう。

 そう、これは事故であり、決してわざとではない。

 ドアノブごと手を握られた瞬間、チェスターは目を丸くさせ一瞬固まったものの、すぐに手を離した。


「すみません、まさかドアノブ握ったままだったとは」

「いえ、気にしないでください」

 ぎこちない動きで扉を閉めると、チェスターは気まずそうにジルを見下ろしている。目撃者はいなかったらしく、揶揄う声が飛ばされてこないのが不幸中の幸いだ。

「普段の仕事や誕生日会の準備なんかで疲れてたんですよ、きっと」


 本当に気にしてなどいない、と示す為、わざと肩を竦めてみせる。

 軽く笑ってみせれば尚いいのだろうが、生憎、仕事以外での愛想笑いは苦手な質だ。折り良くアガサが二人の元へ紅茶のカップを手渡しに来てくれたので、この件はこれで打ち切りとなった。


 つまらないことでチェスターを患わせたくない、と思う自分に違和感を覚えるが、温かな紅茶を啜っている内にどうでもよくなってきた。

 フレッドの寂しげな横顔、衝撃の事実、チェスターの冷たい笑顔だけは、脳裏にちらついていつまでも消えなかったけれど。





(2)

 アガサが空になったカップを片付け始めると、フレッドと昼寝から目覚めて戻ってきたマシューがそれぞれ、ゲストへのプレゼント入りのバケットを手に抱えてくる。参加者へのお礼であり、本日の誕生日会はお開きを意味していた。

 二人からお礼とプレゼントを受け取った者から順にリビングを退出する中、ジルの番が回ってくる。


「ギャラガーさん、今日は誕生日会に参加してくれてありがとうございました」


 ぶっきらぼうな口調、仏頂面を下げて、フレッドはジルにプレゼントを手渡す。他の者には笑顔で渡していた癖に、青いリボンで巾着状にラッピングされた銀色の小袋とフレッドの顔を交互に見比べる。

 ジルと視線がぶつかるやいなや、フレッドはさっと目を逸らしてしまい、別の人のところへプレゼントを渡しに行ってしまった。

 まぁ、最も知られたくないことを聞かれてしまったから仕方ないのかもしれない。痩せた小さな背中をしげしげと眺めながら、こっそりと嘆息する。


「あ、ジルさん、待ってちょうだい」

「はい??」

「これ、貴女にあげようと思ってね」

「??」

 アガサが広げてみせた茶の紙袋の中を覗き込めば、酸味を含んだ爽やかな香りが微かに立ち込める。

「ジルさん、オレンジとグレープフルーツ好きでしょ??」

「あ、はい」

「余り物で悪いけど、良かったら持っていって」

「え……、いいんですか??」

 目をぱちぱち瞬かせてアガサを見返せば、彼女特有の悪戯めいた笑顔を向けられる。

「いいのよ、ほら、うちは男所帯だし、マシューもオレンジとグレープフルーツはすっぱいとか言って食べてくれないのよねぇ。私一人じゃちょっと食べきれないし」

「そういうこでしたら……、ありがとうございます」


 遠慮がちにビニール袋を受け取る。蛍光灯の下で瑞々しい光沢を放つ、三つずつ並ぶ橙と黄色が袋越しに眩しく見える。物理的な重みだけでなく無償の好意と優しさの重みでもあるのだろう。


「ジルさん、またいつでも家に遊びに来てね。こんなお婆ちゃんの相手が退屈じゃなければ」

「退屈だなんて、そんな……!私も、アガサさんと、もっとお話したいです」

 実母には感じられなかった母としての強さ、優しさを持つアガサにジルは心を開きかけている。

 だから、もっと話したいというのは紛れもない本心だ。

「ふふふ、ありがとう。こんな若いお友達ができちゃうなんて、何だか嬉しいわ」

「ちょっと母さん、うら若いお嬢さんをさりげなくナンパしないの」

 ふいにチェスターが二人の話に割り入ってきたので、咄嗟にジルは口を噤んだ。

「あら、いやだ。羨ましいのかしらー??」

「あのねぇ……」


 閉口するチェスターをニヤニヤして揶揄うアガサに、この二人は紛れもなく同じ血が流れていると痛感させられる。

 あんなろくでもない男を夫、父に持ったがゆえに、きっと人並み以上の苦労を強いられただろうに、一切感じさせない強さも含めて。


「貴方もね、仕事ばっかりじゃなくて……」

「ちゃんと家族は大事にしてるじゃん??今度、大きな仕事任させられるから、ちょっとばかし不義理するかもだけど……」

「そうじゃなくて」

「あ、ジルさん。今日は歩きでしたっけ??」


 アガサの説教を避けるように、チェスターは唐突に話題を変えてジルに振ってきた。

 誤魔化したな、と思いつつ、「あ、運動も兼ねて歩きでここまで来ました」と答える。


「じゃあ、俺も運動代わり兼ねて送ってきますよ。ちょっと今日食べ過ぎたし」


 結構です、と断りかけて思い止まる。代わりに、「そういうことなら……、まぁ、お願いします」と伝えた。

 もしかしたら、あの玄関での一件についての話があってのことかもしれない。単に、改めて謝罪したいだけもしれないが。


 何かしらチェスターの本音が語られるかもしれないことを、心の片隅でジルは期待した。

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