第9話 シーズ・ソー・クール(8)
(1)
ローテーブルにチェスターの肘が落ちる。上半身ごと突っ伏した机上からはみ出た右手が握るカードは、ジョーカー一枚だけ。
対するエリザはチェスターを見下ろし、にんまりと笑う。彼女の手にカードは一枚も握られていない。
「そういう訳で、出張仕事に最低一人は誰か同行させてよね」
「…………」
「チェスター」
「……なるべく、善処します……」
机上に伏せたまま呻くように絞り出された返事にエリザの笑みが深まった。勝敗の行方を見守っていた従業員達はワッと歓声を上げる。エリザを称える声、チェスターを揶揄う声等が飛び交う中、ジルの意識は全く別に向いていた。
二人が勝負する間を見計らい、空いた皿やグラスを下げたり、忙しなく働く一人の女性。品良くまとめた蜂蜜色の髪は、加齢で退色している点を除けばチェスターやマシューと同じだった。
「あの」
「何かしら??」
僅かに飲み残されたワインとジュースのグラスを手に、女性は動きを止めてジルを見返す。目尻に寄った笑い皺がまた、人好きする印象を与える。
「手伝いましょうか」
「えぇ??いいわよ、いいわよ。お客様にそんなことさせるわけにはいかないもの」
「でも、一人でこれだけの量の食器やグラス、キッチンに運ぶだけでも大変じゃないですか」
「気持ちは嬉しいし有難いわ。でも、本当に気にしないで」
滅多に出さない親切心がむくむくと湧き上がってしまったものの、却って余計なお節介だったかもしれない。らしくない、柄じゃない行動は程々にしなければ――、親切心と交代で後悔の念がどっと押し寄せてくる。
少なからず落ち込んだのが顔に表れていたのか、もしくは察しが良いのか。女性は気遣うようにジルに笑いかけた。
「……とはいったものの、そうねぇ。チェスターも取り込み中だしフレッドも今いないから……、貴女の言葉に甘えちゃおうかしら」
「じゃあ……、食器下げるの、手伝いますね」
「ええ、そうしてくれると助かるわ、ええっと」
「ジル・ギャラガーです」
「ありがとう、ジルさん」
いきなり名前で呼ばれたにしては馴れ馴れしさや違和感などまるでなく、以前からの知り合いに呼ばれたような気にさせられる。チェスターの気さくさは母親のアガサ――、この女性に似たに違いない。
何枚も重ねた皿を両手で抱え、アガサに従ってキッチンのシンクに置く。
さすがに洗い物させるのは気が引けるから、と皿洗いは断られ、リビングに戻ろうとした時、コンロにかけたケトルが目に入った。
シンクの天板の上にはティーポットと紅茶の茶葉の缶。テーブルをリビングに移動させたため、ここに置いてあるのだろう。ケトルからは湯気が立ち上っている。
アガサは皿洗いの方に気が向いており、ケトルを火にかけているのを忘れていそうだ。
「アガサさん、お湯湧いてますよ」
「え、あら、いやだ!私ったら、すっかり忘れちゃってたわ」
食器洗剤で手を泡塗れにさせたアガサに代わり、火を止める。
「紅茶は沸かしたてのお湯のがいいですよね。アガサさんが洗い物する間に用意しても問題ないですか??」
さっきよりもやや強い語調で手伝いを申し出る。
皿洗いする間に湯は温くなってしまうし、湯を沸かし直すのは二度手間。少々温くなった湯で紅茶を淹れるなんてのはもっての他。
「えぇ、むしろ助かるわ。どうせなら、少しでも早く、美味しい紅茶を皆に飲んでもらうのがいいかも」
ジルの、紅茶に対するこだわりを察したのだろう。
アガサは苦笑交じりにジルの申し出を受けた。
「あと、砂時計ってあります??」
「あるわよ、奥の棚の一番上にしまってあるの」
「じゃあ借りますね」
「どうぞどうぞ、好きに使って。ジルさんに任せるわ」
(2)
空のティーポットにケトルの湯を注ぐ。ティーポットを温めている間、トレーに人数分のカップを並べる。それぞれのカップにもケトルで熱湯を注ぐ。全てのカップに熱湯を注ぎ終えた後、ティーポットの湯を流しに捨て、湯を新しく注ぎ直す。
必要量匙で掬った茶葉をティーポットに入れ、砂時計をひっくり返す。砂が下に落ちきるまでにすべてのカップの湯を捨てる。砂が完全に落ちきったところで紅茶をカップに注いでいく。
「ジルさんは、しっかりしたご家庭で育ったのね」
最後のカップに紅茶を注いでいると、洗い物を終えたアガサにこう言われた。
「なぜ、そう思うのですか」
「紅茶の淹れ方が丁寧だから、かしら」
「あぁ……」
空になったティーポットをシンクの天板に置き直す。
「昔……、いえ、今でもお世話になっている人に徹底的に教え込まれたんです」
モデルの仕事を始めた頃、両親とも絶縁状態、当時の恋人とも別れたジルは一時的にディータの屋敷に身を寄せていた。その時、ディータから紅茶の淹れ方を伝授されたのだ。
「紅茶なんて安くて不味い粗悪品しか飲んでなかったし、紅茶が美味しいものだなんてある程度の歳になるまで知らなかったくらいだったし、淹れ方自体教えてもらったこと、なかった。多分、両親もちゃんとした淹れ方を知らなかったかも……」
ここで我に返ったジルは、手に持ちかけたトレーを無意識にシンクに置き直してしまった。やや雑に置き直したので、トレーの上のカップ達がカタカタ揺れ、紅色の液面が波立つ。
振り返ってアガサの顔を見るのが怖い。
そうかと言って、いつまでも立ち尽くし続ける訳にもいかない。
早鐘のように激しく脈打つ心臓が痛くて、鼓動が喧しくて仕方ない。
冷水を浴びせられたかのような寒気が全身を襲う。
分厚い氷が張った真冬の湖上でスケート中、突然氷に深い罅が入って割れる――、そんな気分だ。
だから、アガサがぽつりと漏らした呟きに、一瞬耳を疑った。
「ジルさんも、なのね……」
「も、って……??」
恐る恐るアガサを振り返る。
不安げな顔のジルに、アガサは宥めるように微笑む。
「ほら、私も……、夫と別れてチェスターと母一人子一人で生きてきたからか、類は友を呼ぶって訳じゃないけど……。うちの従業員の子達は揃いも揃って、家庭不和な環境で育ってきた子ばかりなのよね。今でこそ温かい家庭築いているエリザも……、アビゲイルもそうだった。なーんか、集まっちゃうみたいね」
「すみません」
「あぁ!違うの、悪い意味で言っている訳じゃないの。だからね、うちに集まってきた子達には第二の家だと思って、拠り所というか、彼らにとって甘えられる場所であればいいかな、と、勝手に私が思っているだけ。それだけよ」
「優しいんですね」
「ま、単に私とチェスターが、大勢でわいわい盛り上がるのが好きなだけなんだけど」
ペロッと小さく舌を出し、悪戯めいた笑顔を見せるアガサの明るさがジルには眩しく思えた。
自分もいつかはこんな穏やかな境地に至れる日が来るだろうか。
「さ、紅茶が冷めちゃうから早いところ持っていきましょ。あぁ、そう言えば、フレッドがまだリビングに戻ってきてないみたい。紅茶は私が運ぶから、悪いんだけど二階にいる筈のフレッドを呼んできてくれないかしら??」
ジルは素直に頷くと、フレッドを呼び戻すためにキッチンを退出した。
廊下に出れば、キッチンの隣のリビングからは相変わらず騒然と、それでいて和やかな雰囲気が扉越しからも伝わってくる。彼らにとって、この家は余程居心地がいいのだろう。
廊下を真っ直ぐ進む。二階に続く階段は玄関から近い位置にある。
昼寝しているかもしれないマシューのことを考え、足音を立てないよう、ゆっくり静かに一段一段上がっていく。
二階に上がると階段の右手に三つ、後方に一つ扉があり、階段の前方は洗面所になっている。なんだかコソ泥になったみたいな気分で後方の部屋からそっと扉を開けていく。
その部屋のベッドでマシューは寝ていたが、フレッドは弟の傍にいなかった。
他の部屋も順に開けて様子を窺っていったが、結局、フレッドの姿はどこにもなかった。
行き違いでリビングに戻ったのかもしれない。
でも、もし戻っていなかったら――??
不安を抱えて階段を下り、玄関の扉を開ける。いた。
ポーチの段差にしゃがみ込む、フレッドの背中が。
何やってるの、と、声を掛けようとして、言葉を飲み込む。
自己否定を連ねた内省的な歌を、彼が口ずさんでいたから。
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