第7話 シーズ・ソー・クール(6)

(1) 


 店の裏口から外に出てみれば夕陽はまだ沈みきってなく、フレッドやチェスターが言うほどには暗くなかった。やはり自分の足で帰ると断ってみたが、何だかんだと理由を重ねられ――、最終的には断り文句を考えるのも面倒になり、今の状況に至る。

 マゼンタから黒に染められゆく街の家々の灯りを窓越しに眺めつつ、腕時計で時間を確認する。デジタル時計の液晶画面が映すのは17:59。家庭によってはすでに食卓を囲んでいるかもしれない。


 家族で囲む食卓を楽しいと思ったことなど、ジルは一度もなかった。

 いつ、何が原因で急に父の機嫌が悪くなるか。ビクビクしながら、なるべく早く食事を済ませることに徹していた。

 両親と(一応の)和解をした今でも彼らと食事を共にしたいだなんて全く思わない。

 大人になって一度だけ、一度だけ共にした家族の食卓は、子供時代とはまた違った意味で気まずかったから。

 キズや塗装落ちの目立つ安物の古い丸テーブルと椅子、異様に味が薄くて不味いシェパーズパイ、父の右側がジル、左側が母という席順も昔と全然変わっていなかった。母が父に背を向ける状態で食事を摂っていたこと以外は。


『……お母さん、ちゃんとテーブルの方を向いて食べないと。床にこぼすよ』

『うん、分かったわ』

 母は返事をしたものの、横向きの姿勢を変えようとしない。

『……床に食べこぼしがいっぱい落ちてるんだけど』

『あぁ、後で掃除するからかまわないわ』

『そういう問題じゃ……』


 父の反応が気になったが、当の父は特に気分を害すでもなく黙々とパイにスプーンを運んでいる。気が気がじゃない――、と内心ハラハラしていると、父とジルより先に食べ終わった母はそそくさと席を立ち、自分の食器だけを洗い始めた。

 ここでジルは母の更なる行動に目を瞠った。

 自分の分を洗い終わった母はさっさと台所を出て行き、一人で居間に行ってしまったのだ。


 以前の父であれば即座に激怒し、母を殴っていただろう。しかし、父は怒るどころか、自ら食器をシンクまで運んで洗い始めたのだ。自分がいない間に、一体二人の間に何があったというのか。

 自分が使った食器は自分で洗う。それ自体はごく当たり前の行為で、何らおかしくはない訳で――、と、一旦は納得してみたものの、母がいる居間へ父と移動した後も気まずい空気は変わらず。

 所々破れた古いソファーで家族三人、何気なくテレビを観ていたが、母は父に背を向けてソファーの端に座っていた。おまけに、時折話しかけてくる父を、テレビに夢中の振りをして終始無視を決め込む始末。

 わざわざ訊くつもりもないが、数年の間に変わってしまった両親の関係――、しかもより悪い方へと。


 父に対する母の復讐。

 別れられない弱さを棚に上げて――??


 実家に寄りつきたくないのは母の愚痴を聞くのが嫌だという以上に、崩壊しきった両親の関係を見たくないから。肌で感じたくないから。

 自分もきっと逃げているだけなのだろう。でも、正直どうしていいか分からないし、考えたくもない――




「ギャラガーさん、今日は本当にありがとうございました」


 畏まった口調で礼を述べるついチェスターの声で、ジルは現実に引き戻された。







(2)


 いつもの軽いものではない声につられ、運転席を振り返る。

 前方を見据えてハンドルを握っているので、横顔しか見えないが口調と同じく表情も少し改まっている、気がした。


「別に、私は大したこと、していませんから。オールドマンさんにそこまで律儀に恩を感じられると却って気が引けます」

「失礼を承知で言いますが……、今まで貴女に抱いていた印象が少し――、いえ、随分と変わりました」

「他人に無関心な冷たい女、と思っていたんですね」

 慌てて弁解を述べかけるチェスターに「いいんです、自分でもわかってますから」と苦笑交じりに遮った。チェスターは申し訳なさそうにジルを横目でチラチラ窺っていたが、すぐに観念したらしい。

「言っておきますが、冷たい、とは思ってませんよぉ??ただ……、僕が写真を見せていたから顔を知ってたとはいえ、通りすがりの赤の他人のあの子を助けるなんて……、正直意外だったんです。あと……、あの喧嘩の理由とか」


 苦し紛れの言葉から一転、チェスターは声を殺して小さく笑った。

 やはり嘘だとばれている。


「すみません、つまらない嘘をつきました」

 恥ずかしさと申し訳なさで居たたまれなくなり、素直に頭を下げる。

 チェスターはふるふると頭を振った。頭の動きに合わせて長い髪が跳ねる。

「とんでもない!あの嘘があったからこそ、実は貴女は優しい方なんじゃないのかなー、と気付けました!」

「……優しい??私が??」

「本当はあの子の母親のことで悪ガキに絡まれていたんでしょう??あ、雨が降ってきましたねぇー」


 フロントガラスに細かな雨粒が一つ、二つ、三つ――、天井やボンネットの上にも次々と降り注いでゆく。


「ほらー、やっぱり歩いて帰らなくて正解でしょ?!」

「…………」

 返す言葉が見つからないジルに構わず、チェスターは世間話でも語るように話を続けた。

「周りで散々噂されてますし、おそらく貴女もディータさんから聞かされたでしょうし、何より僕自身隠す気がないんで言いますけど。アルフレッドは、別れた妻の連れ子なんですよ」


 薄々感じていたことが確信に――、けれど、それよりももっと違和感を覚えることが。


「アルフレッド??」

「あぁ、あの子の本名です。妻と別れて以来、『アルフレッド』と呼ばれるのを酷く嫌がるようになって――、身内の間ではフレッドと呼ぶようになったんですよ」


 なぜ、と尋ねそうになったが、踏み込み過ぎだと自重した。

 代わりに、「血の繋がりがなくても、息子さんを大事にされているんですね」とだけ言っておく。どうか、ここでこの話は切り上げてくれないだろうか、と願って。


「別れた妻のお腹にいる時から今までずっと、あの子の成長を見守ってきたから――、実の子のように思えるのかもしれませんねぇ……」


 けれど、ジルの願いは虚しく、チェスターは尚も話を続けた。

 誰彼構わず家庭の事情をペラペラ喋るタイプなのか、と一瞬疑ったが、もしかしたら、彼があえて蓋を閉めていたものに自分が触れてしまったのか。

「そうなんですか」とだけ答えて、あとはさっきまでみたいに窓の外に視線を向けていれば良かった。


「元々、彼女とは家が隣で母親同士仲が良かったし、お互いに母子家庭だったからか兄妹みたいに一緒に育ってきて――、普段は誰に対しても従順な良い子な癖に俺……、僕にだけは平気で憎まれ口叩いたり逆になんかあるとすぐに泣きついてくる、そんなやつでしたよ。大人になってからも僕の店で一緒に働いていたし、あいつのことはなんでも知っている気になっていた――、でも、結局、何一つ分かっていなかった……、まさか、俺の知らない間に恋をしたあげくにフレッドを妊娠していたなんて」

「じゃあ、彼は……」

「実の父親は不明、アビゲイルの私生児として生まれました。正直なところ、あの子を引き取って育てたいがために彼女と結婚したようなものです」


 後悔ばかりが押し寄せてくるが、浅ましいことにチェスターの話にしっかりと耳を傾ける自分も存在していた。雨は、一向に止む気配がない。左右に揺れるワイパーに何度払われてもフロントガラスの雨だれは流れ続ける。

 チェスターの店からジルの自宅アパートまでは地下鉄で二区間程度の距離だが、帰宅ラッシュの時間帯に差し掛かった今、車はなかなか前に進んでいかない。

 淡々と語るチェスターの横顔。前を走る車のテールランプを見ている様で薄茶の双眸には何も映っていない――、少なくともジルにはそう感じられた――、が。


「こんなつまらない話、若い娘さんに聞かせるもんじゃあないですね!やめやめ!!込み入った話をしてしまってすみませんー!適当に流しておいてください!!あぁ、そうだ」

 唐突に普段の明るい調子に戻ったチェスターに戸惑い、無意識に扉側に身体を寄せる。切り替えが早いのか、誤魔化すのが巧いのか。多分両方だ。

「来週の日曜日にフレッドの誕生日会を開くんですけど、ギャラガーさんも参加してくれません??」

「私が??」 

「えぇ、今日接してみて分かったと思いますが、あの子、大人び過ぎているせいで友達が凄く少なくて、参加人数が割れちゃってまして」

「はぁ……。でも……、私、彼とは知り合ったばかりだし、嫌がらないでしょうか」

「大丈夫、大丈夫!!あぁ見えて、きっとギャラガーさんのことを気に入ってるでしょうから」


 自分に対する終始生意気な態度のどこを見れば、気に入っているように見えたんだ。

疑念に満ちた目でチェスターを見返せば、「そのうち分かりますよ」と笑い飛ばされた。急にどっと疲れが押し寄せてくる。

 ジルの気など知ってか知らずか、チェスターは誕生日会の時間や場所などの詳細を聞いてもいないのに勝手に教えてくるので、あぁ、とか、うん、とか適当に聞き流す。


「ギャラガーさんの予定もあるでしょうから、無理にとは言いませんが。一応は考えてもらえたら、僕としてもフレッドとしてもありがたいですー」


 アパートの前に到着後、降車する際に言われたこの言葉も含め、誕生会に関する話題は忘れよう――、忘れるつもりだった。

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