第6話 シーズ・ソー・クール(5)
(1)
白い屋根と全面ガラス張りの建物の前でジルは足を止めた。室内から漏れる照明の光屋外まで明るく照らしている。
平日の夕刻だからか、客入りが少ないのが幸いだが、数人の従業員と共に彼の姿を目にするなり、ジルはフレッドだけ置いて帰りたくなった。
フレッドは自宅ではなく
自宅へ送り届ける場合、初対面であるフレッドの祖母に事の経緯の他に、自分の身元説明もしなければならない。ジルと直接面識を持つチェスターが経営する美容院へ行く方が話は早く終わるだろう。
フレッドがそこまで考えた上で頼んできたのか、もしくは別の理由があってのことなのか。理由はどうあれ日がとっぷりと暮れ、夜が迫る中、できるだけ早く帰れるに越したことはない。そう思っていながら、いざ店の前まで来た途端、ジルは少しだけ及び腰になっていた。
フレッドは立ち止まったまま動かないジルを置いて、すたすたとコンクリートの玄関ポーチに進み、こちらを振り返った。
「中に入りたくないなら、ここで帰ってくれてもいいんですよ??」
黒に近い茶色いアルミ製扉の影でフレッドの表情はよく見えない、見えないが――、言動と同じく生意気な顔つきをしていそうだ。ジルは黙って彼に続き玄関前まで足を進める。
「硝子越しに私の姿は見られているだろうし、挨拶もせずに黙って帰るのはさすがに失礼でしょ」
フレッドの言葉など適当に受け流し、金色に輝く細長い把手を彼より先に掴む。重厚そうに見えた扉だったが、左程力を入れて引かなくてもあっさりと開いた。
店内に足を踏み入れると「いらっしゃいませ」と店員達が一斉に振り向いた。ジルを押しのけるようにしてフレッドが後に続く。
玄関から店内に入ってすぐ右側には、人一人分入れるだけのカウンター、机上にはレジ台、予約のリスト用紙とボールペンが置いてある。正面には黒い革張りの大きなソファー、各雑誌が揃うラック、横の壁にはコート掛けが五つ取り付けられ、ハンガーも用意されている。
カウンターとソファーの奥へと視線を巡らせれば、左右の壁に真四角の壁鏡と台と椅子が三つずつ並び、その内の二つの場所で従業員が客の髪を切っていた。シャンプー台はパーテーションで仕切られた、更に奥まったところだろうか。
「いらっしゃいませ、うちは初めてですね??……って、あら、フレッド。こっちに来るなんて珍しいわね。もしかして、そのお客様と一緒に来たの??」
カウンターまで出てきた女性従業員がジルの他にフレッドの存在に気付き、目を丸くした。深海色の瞳に何となく見覚えがあるような、と、記憶を手繰り寄せてみる。いまいち思い出せない。
「小母さん、この人お客さんじゃないんだ」
「仕事中にお邪魔してすみません。実は……、ちょっと事情があって彼をこのお店に送り届けただけなんです」
「どういうことなの……、って、その顔は一体どうしたの??」
「……それを、今からこの人に説明してもらうから。父さん呼んできてくれない??」
女性はまだ何か言いたげにジルとフレッドを何度か交互に見比べたが、結局何も言わず店内の最奥の扉の向こうへ去っていく。
眉尻と目尻が少し吊り上げった顔や、すらりとした長身の後ろ姿を見て、ようやく思い出す。もしかしたら、メアリとかいう少女の母親、なのかもしれない。
残った従業員や客から醸し出される微妙な空気に耐えながらチェスターを待つこと数分。やっと最奥の扉が開いた。
「悪いけど、後頼むわー」
扉の向こう側にいるのか、先程の従業員と話がてら扉を閉めると、チェスターはジルとフレッドが待つ玄関に近づいてきた。フレッドの腫れ上がった頬を見るなり、チェスターの表情が歪む。
「エリザから聞いたけどさ、お前、その顔は一体どうした……??」
「……そ、れ、は……」
「私から説明させてもらいます」
フレッドの言葉を遮って口を開くと、チェスターは息子からジルへと視線を巡らせた。薄茶の瞳はいつになく真剣味を帯びている。
「ただ、彼としてはあまり知られたくないようなことも多々あるみたいですが」
そう言って、従業員と客達がいる方向へチラッとだけ視線を移す。
ジルの言わんとする意味を察したのか、チェスターは「……そうですかー」と力無く笑ってみせた。
「じゃあ、さっき僕が出てきた奥の部屋にフレッドと一緒に来てもらっていいですか??エリザ……、僕を呼びに来てくれた副店長ならもうすぐ店内に戻るでしょうから」
「私は構いませんよ」
「ありがとうございます。助かります。フレッド、ギャラガーさんと奥で待っててくれよ」
フレッドは父の言葉に黙って頷くと、『自分についてきて欲しい』とジルに目配せした。
(2)
従業員の休憩所らしきその部屋には、四人掛けのテーブルと椅子、二人掛けのソファーの他、テレビや室内干し用の物干し台が置かれていた。
机上の畳まれたタオルの山を崩さないよう席につくと、フレッドはジルの対面の席に座る。程なくしてチェスターが姿を現し、フレッドの隣の席に腰を下ろした。
「実は、図書館の近くにある公園で、息子さんが数人の悪ガキと喧嘩していたんです」
フレッドが非難がましげにジルを睨んできたが、構わず続ける。
「喧嘩と言っても彼より背も高く体格の良い子供達ばかりでしたから、ほぼ一方的にやられていました。その時、たまたま私が公園にいたので、悪ガキを追い払って怪我をした息子さんをここまで送り届けた、というだけの話です」
ジルが話終えると同時に、チェスターは神妙な顔つきで腕を組み溜め息を吐き出した。
「ギャラガーさん、色々とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでしたねぇ……。……にしても、何だってお前、喧嘩なんか……」
フレッドは顔を伏せ、困惑するチェスターにどう答えようか考えあぐねている。伏せた目元に睫毛の影が落ち、彼の表情は益々大人びて見える。
「オールドマンさん、決して彼は悪くないので叱らないであげてください。どうも、悪ガキの一人が好きだった女の子が、フレッド君のことを好きだったらしくて……。振られた腹いせに絡まれてしまったようなんです」
「…………はぁ??…………」
父子揃ってポカンと口を開け、間抜け面を晒しているのはこの際無視しよう。
ふざけているかもしれないが、フレッドがチェスターに心配をかけたくない気持ちも、チェスターがフレッドを心配する気持ちも、彼らが特に口にせずとも痛い程伝わってくる。自分がくだらない話をすることで場を白けさせるかして、喧嘩の原因を追求する気を失せさせれば。勿論、浅はか過ぎる考えだということは重々承知している。
「…………本当なのか??」
案の定、半信半疑でチェスターはフレッドに尋ねた。
フレッドは微妙に頬を引き攣らせながら、「………………うん………………」と、控えめに頷いてみせる。下手に言い訳したり、逆にだんまりを決め込むよりも信憑性が持てそうな反応を彼なりに考えたようだ。
息子の返事にチェスターも一応納得した素振りを見せていた。
「……父さん、くだらないことで喧嘩して、ごめんなさい……」
「……まったくだってぇー……。心配して損するは恥ずかしいはで、怒る気にもならねぇー……」
机に両肘をつけ、組んだ手の上に額を乗せて嘆くチェスターと、彼の肩を叩いて宥めるフレッドを尻目に、ジルは椅子を引いて静かに立ち上がった。
「話も済みましたし、私はこれで失礼します」
「あぁ、待ってください、ギャラガーさん」
部屋を出ようとしたジルを、まだ座ったままでチェスターが呼び止める。
振り返った時には緩慢な動きながら椅子から立ち上がっている最中だった。
「今日はうちのバカ息子のことで、とんだお世話とご迷惑おかけしました。ありがとうございます」
「いえ、私は別に、大したことはしてませんから」
再びチェスターに背を向け、ドアノブを握ろうとした時、耳を疑う言葉が投げかけられた。
「ねぇ、父さん。女の人を一人で帰すには外が暗いんじゃない??家まで送ってあげたらどう??」
「あー、それもそうだなぁー……」
このマセガキ!と、チェスターに気づかれないよう、振り返ってフレッドをきつく睨んでやったが、どこ吹く風とばかりに受け流される。
「すっかり遅くなっちゃいましたしー、お礼も兼ねて家まで送りますよー」
「結構です、そこまでしてもらわなくても……」
「若い女の子が夜道を一人歩きするのは危険ですし、もしものことがあってもいけませんから!」
「いえ、ですから」
「ギャラガーさん、大丈夫ですよ。父さん、見た目はチャラチャラした若作りの遊び人みたいだけど、意外と常識人でお堅いから。送り狼なんて真似は絶対しないので安心してください」
だから、どこでそんな言葉を覚えてくるのか。
フレッドの早熟さに呆れ果て言い返す気力すら湧いてこない。
「お前は父さんをそんな風に思っていたのか?!ひどいなぁー、もう……。ちょっと、これ以上息子に苛められるのが精神的に辛いので、とりあえず裏口から外に出ましょうかー。車の駐車場所に案内しますね!」
最早何も言うまい。
この父子には調子を狂わされっぱなしだ。
チェスター(とフレッド)に従い、ジルは仕方なく彼にアパートまで送られる羽目になってしまった。
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