第3話 シーズ・ソー・クール(2)

(1) 


 耳元で流れる激しいROCKミュージックは、喧騒で溢れ返る外界から意識を遮断してくれる。地下鉄のホームで電車を待ちながら、ジルは音の洪水に一人静かに身を委ねていた。


 平日の正午過ぎ、地下鉄構内には地元の大学に通う学生や営業らしきスーツ姿のビジネスマンがぽつり、ぽつりいるだけ。ジルのように学生でもなく会社員でもない、けれど、やたらと人目を惹く風体の若い女は人気の少ない構内では否が応でも目立ってしまう。

 自身に向けられる視線を無視し、イヤホンの位置を調整するべく指先を耳元に宛がう。指の動きに合わせ、薄ピンクに染めた長めの前髪や肩上でアシンメトリーに切り揃えられた横髪もふわふわ動く。柔らかく軽い猫毛が動く度、短く刈り上げた後ろ髪がちらちら覗く。

 薄暗い線路上におぼろげにライトの光が浮かび上がり、徐々に電車が近づいてくる。イヤホンの位置調整が終わる頃には、赤と白の塗装が施された車体が停車していた。


 ホーム同様、昼間の地下鉄車内は人がまばらで座席もガラガラに空いていたが、ジルはあえて座らずにいた。車体の扉と同じ赤で統一された手摺、ロングシート、ボックスシート、床の色。他の車両にはない安っぽさと紙一重の高級感は本日向かっている目的地の雰囲気と似ているような。


 四駅を通過、五駅目に到着したところで電車を降りる。色褪せた煉瓦の壁面と古い石造りの階段の出入り口から地上へ出れば、通りを挟んで昔ながらのデタッチド・ヴィラやマナーハウス風の大きな家が出迎えでもするように建っていた。

 初めてこの場所に訪れた時は、動じない性格のジルにしては珍しく高級住宅地の景観に圧倒されたものだ。あれから六年を経た今では何の感慨も持たないけれど。

 その高級住宅地の通りを一〇分程歩いたところで、高さが優に三メートルはあろうかと思う鉄柵に囲まれた、白亜の豪邸の前で足を止める。鉄格子越しから垣間見える広い庭園を視界の端で捉えながら、門柱のインターホンを押す。


「ディータ、今来たけど」

『あら、ジルってば相変わらず早いわね!まだ指定した時間の三十分前よ』

「地下鉄の時間でちょうどいいのがなかったのよ」

『ま、いいわ!門のロックは今解除したから上がって頂戴』

「了解、お邪魔します」


 門を開けようとインターホンから離れようとしたジルだが、ディータと呼ばれた女が続けた言葉に思わず動きを止めた。


『今日はね、チェスターくんにヘアメイクお願いしたのよー』

「……は??」

『だって彼の美容師としての腕は確かだし、それにいい男でしょ??ちなみに、貴女よりも一足早くここに来て待ってるのよ』

「……あぁ、そう。たかだか絵のモデルにヘアメイクさせる為だけに、売れっ子美容師呼び出すとかよくやるね……」

 どうせ押しの強いディータが無理を言って、早く屋敷に呼びつけたのかもしれない。彼も彼で、いつものように軽いノリで二つ返事で請け負ったのだろう。

「……ワーカホリック気味なオールドマンさん自身はともかく、助手の奥さんは」

『あぁ、アビゲイルちゃんなら今日いないわよ』

「へぇ……」


 あの夫婦はセットと言っても過言でないくらい、出張仕事では必ず一緒という噂もあるのに。

 ふと脳裏に過ぎった疑問を嗅ぎ取ったのか、インターホン越しのディータの声のトーンが落とされた。


『ここだけの話よ??チェスターくん、アビゲイルちゃんと別れたんですって。しかもね』


 気の毒そうに潜められたディータの声音には好奇心と喜色が入り混じり、隠しきれていない。


『原因は浮気よ、う・わ・き。チェスター君じゃないわ、アビゲイルちゃんの方の浮気だって』





(2)


 屋敷の玄関先で待っていたディータに案内された部屋の扉を開けると、長身の男の後ろ姿が目に入った。男は扉が開いた瞬間、こちらを振り返った。白いシャツの背中に流れる蜂蜜色の髪がサラサラと揺れる。


「おはようございまーす!ギャラガーさん!」

「……おはようございます」

「今日はよろしくお願いしますねー、ま、三〇分足らずの短い時間ですけどぉ」


 この部屋に入る直前までディータから喜々として聞かされた、彼の込み入った。どんな顔して会えばいいのか、だなんて、少しだけ気にしていたこちらの気持ちなど、渦中の人物の一点の曇りもない笑顔と明るい声で一瞬にして掻き消された。


「じゃ、あとはよろしくね、チェスター君」

「はいはーい、任せて下さーい!」


 手を振り合うチェスターとディータに白けながらジルは黙って室内に入った。

 八帖程の広さの部屋には窓がなく、ドレッサー、クローゼット、小さめのカトラリー、四人掛け程度のソファーが置かれているのみ。白い陶製のドレッサーは、ジルの部屋にあるものと比べて縦にも横にも倍は大きさがあり、鏡部分はハートの形を模した些か少女趣味なものだ。


「僕の方はもう準備万端ですから、ギャラガーさんさえ良ければいつでも始められますからねー」

「わかりました」

 返事するやいなや、脱いだジャケットと鞄をソファーに放り投げ、ドレッサーの椅子に腰掛ける。さっさと始めろと行動で示せば、チェスターもメイク道具を乗せたワゴンカートを引き、ジルの傍へと歩み寄った。

「じゃ、早速始めちゃいますか!」

「お願いします」


 チェスターの大きな掌がジルの額、頬、鼻の上を滑り、下地をそっと叩き込む。

 刷毛を使ってファンデーションを重ね、チークやフェイスシャドウで陰影を形作る。グレーや黒の濃いアイカラーを瞼に塗り重ね、くっきりとしたラインを瞼の際、下瞼や目尻まで引いていく。薄いブラウンのリップカラーを筆で丁寧に唇に塗っていく。


 手を動かしている間、普段と打って変わり、チェスターは一言も無駄口を叩かない。他愛のないおしゃべりが嫌いなジルに合わせてくれているのだ。過去に二回程度担当しただけなのに。

 ジルの気難しさを知りながら、それでもべらべらと喋りかける他のメイクアップアーティストにはない対応。正直軽薄そうな態度は苦手だが、この気遣いに関しては有難かった。手際の良さも手伝い、さくさくとメイクは終っていき、大きな掌は肌から髪へと移行していく。


 だが、ここで沈黙が破られることになった。


「アビー、新品の艶出しスプレー取ってくれ」


 中身が切れたスプレー缶をカラカラ振りながら、チェスターは後ろ手に手を伸ばして確かに、言った。


『はい!』


 無邪気に微笑んで彼にスプレー缶を差し出す小柄な女の姿は、当然、ない。

 ジルは軽く目を見開き、チェスターを振り返りそうになるのを堪えた。だから彼がどんな顔をしていたかは分からない。

 さっきまで心地良かった沈黙が息苦しいものへと変わる。会話が得意であれば良かった、などと、柄にもなく悔やんでいると。


「あ、そうだ、ギャラガーさん。このカラーですけど、地毛の伸び具合からすると染めてからまだ二カ月も経ってないですよね??」

「あぁ……、以前に美容雑誌の撮影でカットモデルした時のだから、もうすぐ二カ月目に入るか入らないかくらい、です」

 何の脈絡もなく唐突に振られた話題に大いに戸惑いつつ、答える。

「その時の雑誌、何となく目を通した記憶があって。いえ、店や美容師に問題ないんですよ。ただ、使用した薬剤がですねー……、染めた直後の発色は良くとも、退色が激しくて通常の薬剤より速く色が焼けやすいんです。アフターフォロー込みの仕事でした??」

「いえ、そんな話は全く」

「じゃあ、遠慮なく言わせてもらいます。ギャラガーさんさえ良ければ、うちの店で染め直しませんか??」


 やられた。

 さっきのが素での行動だったとしても、まさかここで営業トークを持ち込んでくるとは。


 ちょっとでも深刻に考えてしまった自分がとてつもなく馬鹿に見えてくる。鏡越しに薄茶の双眸と視線が合えば、やたらと爽やかな笑顔で返された。

 ハーフアップに結った蜂蜜色の長髪に精悍さを湛えた端正な顔立ち。他の女ならば頬を赤く染めるかもしれないが、ジルは鼻白む一方でしかない。


「…………考えておきます」

 その後、髪型が完成するまでジルが一言も発しなかったのは言うまでもなかった。

「はい、終わりましたよー、お疲れ様でしたー!!」

「……ありがとうございました」


 濃いメイクにあちこち跳ねた毛先。

 あとはディータのアトリエで服を脱ぎ、裸になるだけ。

 椅子から立ち上がり、各道具を片付けているチェスターの横を通り過ぎようとして、絨毯の上に何か落ちていた。


 ガラス張りの建物の前で、栗色の長い髪を耳の下で二つに結ぶ赤縁眼鏡の女性が、幼い少年二人の肩を抱くように立っている写真。


「あちゃー、すみませんっ!大事なもの落としてました!手帳に挟んでいたのになぁ」

 写真を拾い上げたジルに気付き、チェスターが片付けの手を止めて飛んでくる。

 かける言葉が見つからずおずおすと手渡すジルに、チェスターは嬉しそうに笑った。

「僕の息子達なんです!上が一〇歳で下がもうすぐ四歳!!上の子は年の割に落ち着きのあるしっかり者、下の子は元気いっぱいの病気知らずでしてー、って、親馬鹿丸出しですね!」


 ハハハ、という笑い声が妙に胸に突き刺さってくるのは何故なのか。


 ただ、明らかに父親似の次男に対し、長男は両親のどちらにも全く似ていなかった。

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