シーズ・ソー・クール

第2話 シーズ・ソー・クール(1)

(1)


 ホイップクリームはフリルレースの裾。

 チョコレートはバラの花びら。

 銀色アラザンは刺繍されたイミテーションパール。


 スーパーマーケットで見かけた、お姫様のドレスをイメージしたピンク色のケーキに幼いジルの目は釘付けだった。


「おかあさん、今日、わたしの誕生日でしょ。ケーキはあのお姫様のケーキがいいの、わたし、あれが欲しいの」

「駄目よ、あんな高いの。お父さんが絶対許さないわ」

 お父さんが許さない、の一言に、ジルはぐっと言葉を飲み込んだ。

 十中八九言われるだろうと予想はしていたけれど。

「じゃあ、あっちでもいいよ」


 仕方なく、お姫様のケーキの隣、子供達に人気のアニメキャラクターを模した黄色いケーキを指差してみる。本当は騒がしい一つ目お化けなんて全然好きじゃない。ただ、誕生日にホールケーキを食べることがしたいだけ。


「駄目、駄目!誕生日ケーキを買うお金がもったいないって、お父さんが怒るよ!いつも通り、うちで作るトライフルでいいじゃない??」

「だって……」



 ――誕生日にホールケーキでお祝いして貰えないなんて可哀想!――


 クラスメイトにバカにされたなんて、口が裂けても言える筈がない。

 言ってしまったら最後、必ず父に報告された上で『うちはうち、よそはよそ!』とこっぴどく叱られるのは火を見るよりも明らか。


 口にこそ出さないまでも、ジルの吊り上がり気味の目尻が更に上がっていた。

 目は口程にものを言うを体現する娘に、どうしたものかと母は困惑している。

 気弱で従順な質で父に一切反抗できず、いつも怒られてばかりの母、せめて自分は困らせないように振る舞おう、なんて。幼いながらにそう気遣ってきたが、今回ばかりはどうしても譲りたくなかった。


 父は腕のいい大工で稼ぎも悪くない。貧しい家庭で育ち、お金で苦労したせいか病的な守銭奴で、異常なまでに質素倹約に勤しんでいた。

 でも、父が言う程、うちは貧乏なんかじゃない。貧乏じゃないのにしなくていい我慢ばかりしなきゃいけないなんて。しかも家族には節約生活を強要する割に自分には案外甘い。

 例えば、砂糖、塩の調味料の使用量を煩く指定するから、うちの食事は物凄く味が薄い。母は言われた通りにしただけなのに、うちの食事が不味い、口直ししてくると、頻繁にパブへ飲みに行く。

 まだ一〇年も生きていない子供から見てもおかしい、自分勝手な人だと理解できる。父と比べたら、この程度の我が儘くらいはきいてほしかった。


「おかあさん。わたし、一度でいいから、ちゃんとした誕生日ケーキでお祝いしてほしいの。一度だけ、一度だけでいいから。おねがい」


 滅多に無理や我が儘を言わない、言ったとしても押し通そうとはしない娘の懇願。母は気まずげに視線を右へ左へ、忙しなく彷徨わせる。


「ねぇ、おねがい。おかあさん!」


 自分自身、吃驚するくらいの大声が出てしまった。近くを通りかかった母子が驚いた顔でこちらを振り向いてくる。

 親子揃って艶々とした髪、流行のファッション、ぴかぴかに磨かれた靴。

 頭のてっぺんから爪先まで完璧に磨かれた姿に、腰まで伸び放題の髪、毛玉だらけの色褪せた古い服を着て、穴が空きそうな程履き込んだ、サイズが小さくなってきた靴を履く自分が惨めに思えてくる。

 こっち見ないで。放っておいてよ。

 睨み返したいのを我慢し、俯いた彼女の上から母の言葉が降ってきた。


「……じゃあ、一番安いのだったら」

「ほんとう?!」


 パッと顔を上げたジルに、根負けしたと言いたげに母は肩を竦めてみせた。

 それから、母娘二人で棚に積まれた沢山のケーキの箱を手に取っては、値段を確認し、と何度か繰り返した。

 店員からの万引きチェック確認の視線、通りすがりの客からの何あれ、と笑い声も、どうでも良かった。値段もケーキの種類もこの際何でも良かった。

 誕生日に念願の誕生日ケーキを食べられる喜びの前では、取るに足りない些細な事。そうして、母が選んだ苺の生クリームケーキの箱を抱え、レジに向かった。


 嬉しくて、嬉しくて、帰路を辿る足取りがとても軽やかだ。

 背中に羽根でも生えている、とか、こんな感じだろうか。

 最初で最後だって、お母さんと約束したんだから、きっとお父さんも今日くらい許してくれるよね。

 お父さんも一緒に、親子三人で切り分けて。

 皆で美味しく食べればいいじゃない。

 たまにはいいよね――、ね??








 ――バシッ!



 肉を打つ音と共に、カットナイフが宙を飛び、床へと落下、母もその場に崩れ落ちる。父が母の頬を張り倒した音――、ジルはこの音が大嫌いだ。


「馬鹿野郎っ!無駄なものは買ってくるなと何度言えば分かるんだ!!」


 父の帰宅時間を見計らい、母がケーキを切り分け、それぞれの皿に取り分けていた時だった。台所へ入ってくるなり、母やジルが説明するよりもずっと早く、父は母に詰め寄って有無を言わさず殴りつけたのだ。


「で、でも、お父さん……、今日はジルの誕生日だから、お祝いで誕生日ケーキを……」

「そんなもん、いちいち祝う必要ないだろ!いつも通りの飯だけで充分だ!!」


 一足先にケーキの皿を手元に置き、フォークで掬った一口目を食べかけていたジルの手は止めざるを得ない。とりあえず、フォークに刺したケーキの欠片を皿へ戻して置いた。

 一方的に怒鳴り散らす父、すすり泣きしながら謝り倒す母――、こうなったら、成す術もなく落ち着くまで見守るしかない。最初に殴られたのが一回だけなのは随分マシな方。

 食べる直前まで、珍しい宝石でも目にするかのようにドキドキと高鳴っていた胸は、今は鉛を一杯詰め込まれたみたいで非常に重苦しい。


「…ま、待って、どこへ」

「煩い!気分が悪いから飲んでくるんだよ!!」

「そんな……」


 追いすがろうと立ち上がりかけた母を避け、父はドスドスとわざと大きな足音を立て、台所を出て行く。待って、待って、とぶつぶつ呟き、テーブルに使ってよろよろと母が立ち上がった。

 その間にも、バッタン!と乱暴に玄関の扉を閉める音が反響し、ようやく家の中に静けさが戻った。


「……おかあさん……」

 呆然とする母を慰めるべく、席を立つ。手湿疹が目立つ母の手をそっと撫でる。

「……ごめんね、ごめんね、ジル……」

 私のせいだ……、と、謝罪の言葉を告げるよりも母の方が先にジルに謝ってくる。居たたまれなさに言葉を失う。

「……ごめんね、お父さん、怒らせてごめんね……。お母さんが馬鹿だから……」


 頭を振って否定するジルの手を自らの手からそっと離すと、母はケーキの皿を手に持った。ケーキを一体どうする気だと動向を眺めていたジルの顔がくしゃりと歪む。

 母は切り分けたケーキ全て、躊躇いなくゴミ箱へと捨てていく。

 柔らかなスポンジの黄色、滑らかな生クリームの白、黄色と白に塗れた苺の赤。

 まるで母と作る自家製トライフルのようだが、単なる残飯でしかない。


 無残に潰されたのはケーキだけじゃない。

 父も母も見向きどころか気付いてさえくれなかった。

 






(2)



 ――数年後――




 袖や首回りが伸び切った長袖Tシャツ、色落ちの激しいハーフ丈のパンツ。目を凝らすとソースの染み跡がスカートに付着したワンピース。

 それらを箱いっぱいに詰め込んだ段ボールを、ジルは酷く醒めた目で見下ろしていた。


「これさ、あたし達からジルちゃんへのプレゼント!」

「お古ばっかで悪いけど、でも、ジルちゃんに似合うかなって」

「ほら、ジルちゃんかわいいしお洒落な服着た方が絶対いいって思ったのよ!」


 終業後の教室内はジルと三人の自称お友達しか残っていない。自称お友達たちの不自然にはしゃいだ声ばかりが煩く反響し、苛立ちに拍車を掛けていく。

 整然と規則的に並ぶ机と椅子、老朽化した板張りの床が斜陽の橙で暖かな色に染まる中、ジルの心の温度は下がる一方。

 ぐずぐずしていたら、あそこへ足を運ぶ時間はもちろん、滞在する時間が短くなってしまう。


「……あのさ、あんた達のお古なんて別にいらないからね」

 煩わしげにはっきりと断り文句を口にする。

 断られるなどまるっきりの想定外だったのか、自称お友達たちはぽかんと間の抜けた顔で言葉を失ってしまった。

「悪いけど、私、ゴミ箱じゃないし。いらないもの押し付けられても迷惑だから」


 机上に置かれた段ボールをちらと一瞥し、「私、行きたいとこあるから」と背中を向け、扉へと進んでいく。


「なっ……、ひどーい!」

「あたし達、ジルちゃんのこと思ってしたことなのに!」

「せめてちょっとくらい、服を見てみるくらいしてみればいいじゃない!!」

 ささやかな厚意が無下にされた――、そう認識した途端、ジルの背に向かって批難の言葉が次々と投げつけられる。いちいち言い返すのも面倒臭いので無視を決め込む。

「何よ!ちょっと可愛いからっていい気になってさ!!」

「そうよ、そうよ!!どんなに顔が良くたって、いっつもみすぼらしい格好してるくせに!!」


 ぎゃあぎゃあと喧しいし騒がしい。別に吠えたければ好きなだけ吠えていればいいけれど、とりあえず黙らせようか。

 ドアノブを握りしめながら、ジルは振り返った。無表情で、吊り上がった薄青の双眸をわざと細めて。じとりとした鋭い視線に絡めとられた少女達は、ハッと息を飲んで目を逸らし、各々明後日の方向へそわそわと視線を彷徨わせた。特に何を言うでもなく、ジルは何事もなかったかのようにドアノブを回し、教室を後にする。


 長い廊下を速足で歩いていく。モップで綺麗に掃除されているであろう廊下は歩く度にキュッキュッと小気味いい音を立てた。

 音と共に廊下から大階段を駆け下り、玄関まで更に歩調を速める。飛び出すように玄関の扉を開け、校門を抜けたところでジルは脇目も振らずに駆け出した。

 校門の外で我が子が出てくるのを待つ母親、出てきた子供と仲良く手を繋ぐ親子、毎日の通学で目にする光景をあえて見ないようにするため、もう一つは――、唯一の居場所へ向かうため、ジルはひたすら走った。


 家に真っ直ぐ帰ったところで楽しいことなんて一つもない。帰ってくるなり母による父への愚痴を聞かされるし、最悪父もいたら顔色をいちいち窺って過ごさねばならない。

 だったら、ほんのひとときの間、閉館時間の十八時になるまでは一人で、誰にも気を遣うことなく過ごしていたい。あそこに行っていたと言えば、両親から文句は言われない。


 一分でも一秒でもいいから、早く辿り着きたい。

 あそこなら誰も私を構わないし邪魔もしない。

 怖いくらいひっそりと静寂に包まれた空間が恋しい。


 玄関ホールの吹き抜けになった高い天井、ステンドグラスの天窓からの木漏れ日は七色。カウンターを通り越し、見上げる程の高さを誇る年季の入った本棚。少しだけ埃臭い古い紙の匂い。

 本棚と同じく年代物であろう、アンティーク製の長机、椅子、ソファーの数々。それら全てに囲まれ、手に取った本の世界にどっぷりと浸かる。

 時折、本の返却や館内の見回る職員達が行き交うが、静かにしていれば、閉館時間さえ守ればそっとしておいてくれる。


 街の図書館へ毎日通う。

 ジルにとっての楽しみであり、図書館だけが彼女の居場所だった。

 将来はここで働けたなら――


 しかし、ジルの幼き夢が叶う事はなかった。

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