She's So ×××

青月クロエ

プロローグ

第1話 プロローグ

(1) 

 

 ある日を境に、彼は自分の名前を嫌うようになった。


 授業が終わり幼馴染のメアリと共に下校して真っ直ぐ家に帰るか、一人で図書館へ直行するか。いつもなら、どちらかを選択していたのに。

 その日に限っては、たまには父さんと母さんの店に顔を出してみるかと、彼の両親が経営する美容院へと足を向けてしまった。


 店まであと少し、この十字路を左に曲がった住宅群の一番奥、白い屋根と全面ガラス張りの建物まで行けば――、と、やや小走りで角を曲がる。曲がり切る直前、見慣れた栗毛の長い髪が、強く吹きだした風になびくのが視界の端に入った。ふわふわと遊ぶように流れる毛先に、ほんの少しだけ頬が緩む。


『母さんっ!』


 風に乱れ、目に刺さる自身の長い前髪を抑えつけ、いくらか弾んだ声で呼びかける。しかし、母は振り返って彼に応えるどころか、何の反応も示さない。

 風の音で声が掻き消されて届かなかったのだろうか。

 角を曲がり切ると同時に、母が返事をしなかった、否、できなかった理由を否が応でも悟ってしまった。


 母は知らない男に肩を抱かれて俯きがちに歩いていた。

 彼がやってきた道とは真逆の方向に向かって。

 母と男が進む先には黒塗りの高級車が止まっている。


『……母さん、何処へ行こうとしてるの?!その人は誰なんだよ?!』




 叫び声は確かに届いている筈なのに。

 母は返事もしなければ振り向いてさえもくれない。


 追いかけなきゃ、追いかけて、追いかけて、追いかけて。

 男の腕を引き剥がしてやらなきゃ。


 なのに、竦んだ足はたったの一歩ですら進み出てくれない。

 動け!と強く念じ、両の脚を震える手で叩いては鼓舞しても全く意味をなさない。その場に立ち竦む以外成す術がない彼など存在しないかのように、母と男の後ろ姿は遠ざかっていく。


 物心つく頃からずっと怖れていたことが、遂に、現実で起きてしまい、全身の血が凍り付く。母の言うところの『あの人』と再会し、『用無し』になった自分の前から母が去ってしまう。

 顔は見えないがほっそりした体躯に彼と同じ髪色、あの男が「あの人」なのは間違いない、だろう。

 せめてもの抗議で男の頭部をきつく睨み付ける。浴びせられた強い視線に引き寄せられるように、男が振り返った。


 男は彼の姿を見た瞬間、胡乱げな目を見開いた。彼もまた、今度こそはっきり男の容貌を確認できた。

 癖のない真っ直ぐなブルネットの髪、切れ長の薄灰色の双眸、酷薄そうな薄い唇、すっきりと鼻筋が通った鼻――、少し冷たい印象の顔立ちは、彼と男との間に同じ血が流れていることを、まざまざと思い知らされるには充分であった。





 その後のことは正直よく覚えていない。

 

 ただ、それからというもの、彼は母を『母さん』と呼ばず、『あの人』呼ばわりするようになった。また、周囲の人々も彼を気遣っい、『フレッド』と愛称でしか呼ばなくなった。

 

 










(2)


「その日」の夢をまた見てしまった。


 仕事から帰宅し部屋着に着替えた後、食事も摂らずにソファーでギターを軽くつま弾いていた。新たに作曲しようとか練習しようとかの確たる目的などなく、ソファーの近くに立てかけたギター数本の中から、たまたまエレアコが目につき手に取っただけ。

 弦を指で弾はじき、手癖で適当なメロディを奏でる。手癖で奏でる音は自分の耳によく馴染んだ好ましい音となる。心地良さにリラックスし始めたところで疲れが押し寄せ、自然と睡魔に襲われていた。

 気付けば、フレッドはソファーの背もたれに頭を預け、ギターを抱えたままでうたた寝していた。例の悪夢に魘され、飛び起きる羽目になったけれど。


「……もう、いい加減にしてくれよ……」


 頭が割れるように痛い。片手でネックを握りながら、もう片方で顔を覆う。

 激しい眩暈で視界がぐらぐら揺れ、込み上げる吐き気を堪える。

 大量にかいた冷や汗で酷く寒気がする。風邪をひく前に、汗で湿った部屋着を着替えなければ。

 こめかみから頭頂部に掛けての鈍痛に耐え、ギターを抱えて立ち上がる。ふらついた弾みで他のギターを倒したりしないよう、慎重にスタンドへ立てかける。

 確か頭痛薬は寝室の机の引き出しに入っていた気がするし、必要な着替えを取りに行くついでだ。


 前髪を掻き上げ、ローテーブルに放り出された黒い悪魔が描かれた金色の箱、ライターを手に取り、黒い巻紙に包まれた煙草に火を点ける。同じ銘柄でも他の種類は咽る程に味も煙の香りも甘ったるいが、唯一この種類だけは無香料。

 薄暗い室内で白く細い煙がゆらゆら天井まで昇っていく。勝手気ままに室内中を揺蕩う煙を茫洋と眺める内、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

 実際は頭痛も吐き気も変わることなく残っているが。


 半分近くが灰と化し、今にも落ちそうになったところで、ローテーブルの振動し始める。吸殻を押しつけがてら、空いている手で振動の元であるスマートフォンに手を伸ばす。


「何の用だ、シエナ」

 二本目の煙草に火を点けながら、ぶっきらぼうな口調で尋ねる。

『相変わらず愛想も欠片もないわね、それがレディに対する態度??』

「どうせ今の男と上手くいってないか別れたかして、寂しさ持て余して俺に電話寄越したんだろ」

『余計な詮索はしないで。そっちこそ、遊んだ女に手痛いしっぺ返し食らったらしいじゃない。郵便受けにメープルシロップぶちまけられたんだって??』

「女かどうかは知らん。オートロックのエントランスにどう侵入したか不明だし。被害届は一応出したが、犯人は捕まってない……って、なんで、あんたがそんなこと知ってるんだ」

『教えてなんかあげない。自分で考えれば??あなた、頭良いんでしょ』


 電話越しから聞こえる、くすくすと意味ありげな笑い声。わざと意味深な態度で煽っておきながら肝心なことは絶対教えない。シエナはフレッドが嫌うタイプの女性だ。嫌いなタイプだが――、身体の相性だけはなぜか合っている。

 どちらか、もしくは双方に相手がいれば(最も、フレッドは特定の相手との交際はしない主義だ)連絡すらしない、非常に都合の良い関係。

 だから、断続的ながらつかず離れずの状態を何年もずるずると続けていた。


『どうしても知りたかったら、今夜私と会ってよ』

「別に知りたくないしどうでもいい」

『つまんない、そんなんだからもうすぐ三十になる癖に独り身なのよ』

「あ??喧嘩売ってんのか??俺はお喋りな質じゃないんだ、切るぞ」

『あぁ、はいはい。揶揄って悪かったわ!話云々関係なく、寂しいから構って欲しかっただけ』

「最初から素直にそう言えばいいだろうが。面倒臭い女だな」


 言外に『会ってやるよ』と匂わせれば、シエナの声の調子が若干高くなった。

 明日は休館日で仕事は休み、バンドのスタジオ練習も入っていない。せいぜい、昼過ぎにメアリが働くカフェに立ち寄るつもり程度だ。

 指定された待ち合わせ場所、時間を聞きながら、スマートフォンを耳に押し当てたまま寝室の扉を開ける。

 今すぐ頭痛薬を飲まなければならない、シャワーを浴びなければいけない理由が出来てしまったのは億劫だが、例の悪夢を見た後の憂さ晴らしくらいにはなる、かもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る