第4話 シーズ・ソー・クール(3)
(1)
天井のブラックライト、絶えず明滅するストロボライトが人工的に造り出された暗闇の意味を失わせている。安酒と煙草と耳障りなDJミュージック、その隙間を埋める仲間同士の騒がしい会話がさして広くもない箱型の空間に充満していた。
連れの男――、世間的には恋人と呼ぶ仲なのだろうか――、は、彼の言うところの『友達』の姿を見つけると耳元に唇を寄せ、「ちょっとあいつらのところに顔出してくる」と叫んだ。
そんな大声出さなくても聞こえるよ、と、口に出す代わりに眉を顰めたが、気付くことなく彼はジルを置いて仲間達の下へさっさと行ってしまった。ぴったりと張り付いていられるのも鬱陶しいし、強引に仲間に引き込まれるのも面倒。
ジルの性分を理解した上で一人にしてくれたのは有難い。有り難いが――
(そもそも私はクラブなんかに出掛けたくなかったんだけど)
出掛ける前にそれとなくは伝えてみたが、あえなく却下された。
家出した当初、ジルにしては珍しく感情が昂っており、つい後先考えない浅慮な行動に出たものだと、今となっては猛省している。
だからと言って両親に謝罪し実家に戻る気などない。
さりとて、いつまでも恋人への物理的な依存を続ける訳にもいかない。
比較的人気の少ない壁際に寄り掛かり、はぁ、と息を吐き出す。恋人と仲間達の輪からはどっと爆笑が巻き起こった。アハハ、アハハとその場の享楽に溺れて生きられるくらい、お気楽な性格になりたいものだ。
覚えたての煙草に火を点ける。音楽がミディアムな曲調に変わったのに伴い、喧騒が幾らか落ち着いた、ように感じた。
煙草を咥えて軽く顔を伏せれば、洗いざらしの亜麻色の髪が肩から滑り落ちていく。これなら顔が見えなくなるし、陰気な女だと思われて誰からも声を掛けられない筈、と思っていたら、早速誰かに肩を叩かれた。
舌打ちしたいのを堪え、声の主を剣呑な眼差しで見返す。見た目こそ若々しく見えるが、声の質や肩に置かれた皺の目立つ手からは年齢が隠しきれていない。
「オバサンが私に何の用なの」
「煙草の火、貸してくれない??」
オバサン呼ばわりされても女は特に気分を害さない。
仕方なく嫌々ライターを手渡してやれば、「ありがと」と、すぐに煙草に火を点けた。
貸したライターが戻り、これで自分から離れてくれるだろうと、期待していたのだが――
「貴女、綺麗な娘ねぇ……」
「……は??」
「色味は明るいのに、憂いを帯びた青い目にゾクッときちゃうわ」
「……何なの、きも……」
「冷たさそうなところがまたいいわねぇ」
まさか、女、それも場違い極まる若作りの年増女にナンパされるとは。背筋に怖気が走り、女から二、三歩身を引く。
しかし、ジルが身を引いた分だけ女は詰め寄ってくる。
「私、同性愛の趣味ないから他あたってくんない」
引き攣った顔で断れば、女はきょとんと不思議そうにジルを見つめた。あどけない少女のようで一瞬可愛らしく見えたが、何を血迷ってるのかと思い直す。
言われた意味が分かっていないのだろうか、年の割に頭が鈍いのだろうか。女に背を向けようとしたのと、「いやあねぇー、勘違いしちゃって!」と女が噴き出したのは同時だった。
「お嬢ちゃんを綺麗だと思ったのはホントよ。でも、色っぽいお誘いなんかじゃないわ」
「じゃあ、何なのよ」
「私が描く絵のモデルにならない??」
「……余計に怪しいわね」
醒めた目で睨みつつ話を聞くくらいはしてやるかと向き直れば、女は水色の革ジャケットのポケットから名刺ケースを取り出した。
「はい、これでも国内ではそれなりに有名人なのよ、私」
渡された名刺には、絵に疎いジルでさえ聞いたことのある画家の名前が記載されている。
「とりあえず、一応は考えてくれたら嬉しいわ。滅多にいかない場所に顔を出すのもたまにはいいわねぇ。うちのトイ・ボーイのお誘いさえなければ非会員制の安いクラブなんか行かないから」
名刺の両端を両手で持ち、表の印刷面を食い入るように見つめるジルに女は余裕げに笑いかけた。
この出会いがきっかけで、ジルは主にディータの絵のモデルを務める傍ら、彼女の伝手で他の画家やアートスクールのモデル、更にはショーモデルとしての道を歩み始めたのだった――
閉めきったカーテンの隙間からワンルームに朝の光が差し込む。起床してすぐにベッドで一〇分、柔軟ストレッチをした後、浴室へ向かう。
スリッパを引きずるように歩くフローリングの床の上には、シングルベッドの他にはベッドとセットで揃えた同じ素材の机、椅子、ドレッサー、あとはそれらよりも値段が張っただろう紫檀製の本棚が置かれているのみ。再生中だった机上のCDデッキの停止ボタンを押し、浴室の扉を開けて中へ消えていく。
静まり返った室内にシャワーの水音だけが響く。水音が止み、一、二分後、今度はドライヤーの音が響く。
だから、その二つの音に紛れて三つ目の音がひっきりなしに鳴っていたことを、浴室から出てくるまでジルは気づけずにいた。
三つ目の音の正体――、CDデッキと共に机上に並ぶ電話の呼び出し音に、ジルはあからさまに顔を顰めた。ナンバーディスプレイは出ずとも、この時間に電話をかけてくる相手に大方の予想がついている。
またつまらない用事でかけてきているんだ。
無視しておけばいいじゃないか。
どうせ呼び出し音は留守番電話に切り替わる前に切れてしまう。
しかめっ面のままで呼び出し音と電話に背を向けて着替え始める。案の定、留守番電話の音声が流れると電話は切れた。
ホッとしながら着替えを済ませ、スリッパからスニーカーへと履きかえ、玄関へ出ようと――、して、再び電話が鳴り出す。
無視すれば良かったものを、条件反射的に受話器を握っていた。
「……もしもし、朝から何なのよ」
『あ、あのね、ジル……』
「私、今から仕事に行かなきゃいけないからお父さんの愚痴ならまた今度にして」
『ち、違うわよ……』
違うと言いつつ、母は二の句をなかなか告げられないでいる。
「ごめん、用がないなら、もう」
『あ、あんたの、小さい頃の写真が出てきたから、うちに取りに来て欲しくて……!』
「悪いけどさ、最近忙しいから当分家には行けない」
『と、当分っていつまで……』
「わかんない、じゃ、切るね」
受話器越しに母が何か言い続けるのを聞こえない振りで受話器を戻す。写真なんか、家に来させたいだけの口実じゃないか。誰がその手に乗るもんか。
六年前にクラブでスカウトされた後、『後々のトラブル回避のため』と、家出したジルに代わってディータが間に入り両親を説得してくれたお蔭で、この仕事と独り暮らしを始めることができた。以来、時々、母は一方的にジルに連絡してくる。
だが、それは娘に会いたいからではない。
父と二人だけの生活に心底倦み、愚痴の相手をして欲しいだけ。
気晴らしで外出するなり仕事でも始めるなりして、人を巻き込まずに自力で気分転換して欲しいものだ。昔ならいざ知らず、今の父ならおそらく文句すら言わないだろうに。
年を経たせいか、父の性格も丸くなり近頃は暴力も異常な倹約ぶりもすっかりなりを潜めている。仕事も以前よりセーブし始めたので家にいることも増えてきているようだ。
とっくに関係が破綻した夫婦が家で二人きりなんて、居心地悪い事この上ないのはよく分かる。
それなのに母ときたら、『私は頭悪いし鈍くさいし学歴もないから、外で仕事するなんて絶対無理、周りに迷惑掛けそうで怖い』『今更新しい趣味なんて始めたところで何の役に立つって言うの』と、できない理由だけをあげつらっては一切行動しようとしない。
結局、母も母で『夫に虐げられ、娘に見捨てられた可哀相な自分』への自己憐憫に酔いしれたいだけなのだ。
夫に依存し娘を傷つけていることに気付けない、被害者面した加害者なのに。そう、母も父同様、自分のことだけしか頭にないのに。
「……まあ、自分しか頭にないのは私も同じか……」
思わず唇から自嘲が零れ、大きく息を吐き出す。それ以上は何も考えまい。軽く頭を振ると、ジルは玄関の扉を勢い良く開け放した。
(2)
出がけにつまづいたせいか、今日はついていない日かもしれない。
整備された歩道の上から街路樹の葉がはらはら舞っては落ちていく。緑豊かに生い茂る環境は人の心も豊かにさせるという。
この辺りの木々は自生しているものではなく、全て人の手で植樹された人工的な自然ではあるが。枝葉が風に揺れ、木々から光が零れ、目に優しい緑が現代的な建物群を囲む様は疲れた心を癒して――、などはくれない。
今日の仕事自体は昼過ぎに終わった。あとは自由に過ごせるというのに、ジルはすでに疲れ果てていた。
長時間同じ姿勢(ポーズ)を取り続けるのも、人前で裸になるのも慣れ切っている。それが例え、大勢が集まるアートスクールの講義室の檀上であったとしても。
肉体的な疲れもない訳ではない。ただ、今回に限っては精神的な疲れが大きかった。
ディータを始めプロの画家相手では決して発生しない。少なくとも、これまでジルがモデルを務めた画家に限っては。
他のアートスクールでも余り発生はしなかった。大勢の中で数人程度ならいたかもしれないが、気になる程ではなかった。けれど、まさかデッサンに集まった生徒の大半が講義中に
講師も覇気がなさそうだったし、きっとあの学校自体ろくでもないところなのかもしれない。次に依頼がきたとしたら――、どうしようか。
無駄に目立った凹凸のない歩道を歩くのは左程苦にならないのに、ジルの足取りは重たい。件のアートスクールの他に小学校、中学校が集まる区域なので最寄りの地下鉄、バス停までもそう遠くない筈なのに。
靄がかかったように茫洋とする意識の中に子供達のはしゃぎ声が流れてくる。義務的に動かしていた足を止め、声の方向を無意識的に振り返った。
ジルの立つ歩道から車道を挟んだ向かい側――、黒い鉄柵に囲われた場所から声は聴こえてくる。柵の奥には赤煉瓦造りの平屋建て校舎、校舎玄関前、一階の各教室の軒下には幾つものプランタが置かれ、花々が古い建屋に色を添えていた。
校庭には様々な遊具で生徒達が遊んでいて、小さいけれどサッカーコートも設置され、男の子達がそれぞれチームを作りボールを奪い合っている。
ジルが通っていた学校とは違うけれど、ふと懐かしさが込み上げた。さっきまでの疲れよりも懐かしさが勝り、走行する車がないことを確かめて車道を渡る。正門前には警備員が立っているので、彼らから離れた場所で鉄柵の間から校庭の様子をじっと眺めた。
思えば、自分は友達と遊んだ記憶がなく、教室の片隅で本ばかり読む子供だった。学校の図書館は大した本が置いてなかったから、放課後は蔵書が充実した街の図書館に入り浸って。
人とつるむよりも一人の方が楽しかったし、後悔はないけれど。あんな風に誰かと笑い合って、はしゃぎあってもみたかった、気もしないではない。
(……やっぱり、今日は疲れているかもね)
警備員がちらちらと不審げな視線をジルに送り始めている。不審者と怪しまれ、声を掛けられたくはないのでそろそろ行こう。
校庭から視線を外し、背を向けようとした、その時だった。
「もういちど言ってみなさいよ!ただじゃおかないわ!!」
空気を裂くような、鋭さを帯びた甲高い叫び声。
何事かと鉄柵を振り返り、叫び声の方向を探る。
声の主は、ジルから見て校庭の中央左側――、サッカーコートの裏側ら辺に立っていた。
自慢じゃないが、ジルの視力はかなり良い。
だから、声の主――、その年頃の割にすらっとした体格の長い髪をした少女と、彼女が背に庇う小柄な少年、少女の怒声に怯みながらも一定の距離を開けて睨み合う大柄な少年達の姿がはっきり見て取れた。
特に、少女と少年は遠目から見ても肌の白さとブルネットの髪の艶やかさが目立っていて一瞬姉弟かと思う程に整った雰囲気が似通っている。少女と少年の容姿と比べるせいか、品性の貧しさが出ているのか、対峙する少年達は色んな意味で見劣りしていた。
「な、何度でも言ってやるよ!なぁ、アルフレッド!」
揶揄い口調で『アルフレッド』と呼ばれた瞬間、少年は無表情から一転、徐に眉間と鼻先に皺を寄せ、口角を引き下げた。
「ママに捨てられたくせに生意気なんだよ!そのママだって男好きのヤリ……、ぎゃっ!!」
少年達の中でも一番体格の良い少年が下品なFワードを言い切るより早く、少女の拳がニキビ面に深くめり込んでいた。
「うわぁ!ブラッディ・メアリがキレたぁ!!」
「先生―!!」
殴られた少年が鼻血を出して倒れると、他の少年達は三々五々、散り散りにその場から逃げ出していく。
「メアリ、それ以上はやめろって」
「だって……!フレッドだけじゃなくて」
「また反省文書かされるぞ??」
尚も倒れた少年を足蹴にしようとするメアリを、少年はため息混じりに止め立て、言葉を遮った。
メアリは地面に横たわる少年を忌々しそうに見下ろし、今度はフレッドを無言で睨みつける。メアリの視線を意に介すことなく、フレッドは少年の頭の近くにしゃがむと、静かに告げた。
「違うよ。彼女はとても純粋で自分に嘘がつけない、可愛い人なだけだ」
教師や他の生徒がサッカーコートの裏へ集まり始めたのを背に、ジルは足早に車道を渡ろうとして、クラクションを鳴らされ足を止める。校庭での騒動に気を取られ過ぎていて、安全確認が甘かったらしい。車が目の前を走り去った後、改めて左右をよく確認して元いた歩道へと戻る。
余りに両親に似ていないせいで、逆に記憶に残っていたチェスターの長男の、遠目からでも分かるくらいに昏く醒めた眼差し。
幼い頃の自分もあんな目をしていただろうか――、否、彼は自分よりももっと深淵を見ているような、気がする。
(それが、一体、何だって言うのよ。私には関係ない)
今日は本当についてない日だ。
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