3
しかたなかったんだ。
坂本祐樹はそう言い聞かせてトーク画面を閉じた。
彼からの連絡は突然だった。初めは誰だかわからなかったが、尋ねると「そんなこともわからないの?」と罵られた。そのあとのさらさらした笑い声でわかった。普段からは想像もつかないような、恐ろしく冷たい声色……。
佐伯英治はサークルの先輩だ。新歓で体験に行ったときに担当してくれたのが佐伯で、何も知らない自分たちに丁寧に教えてくれたのをよく覚えている。
入会後も懇意にしてくれていた。直属の先輩ではなかったが、いつも穏やかで優しい佐伯を、祐樹は心底信頼し、尊敬していたのだ。
それがどうしてこうなったのだろう。思い返してみても、兆しはどこにもない。
彼は何も語らなかった。突然電話をかけてきて、秘密をバラされたくなければ自分の言うとおりにしろ、と脅してきた。ここで相手にしなければよかったのかもしれない。しかし、秘密――と聞いて、思い当たることがないわけではなかった。
正直、祐樹は彼に心を許しすぎたように思う。一緒にサークルに入った彼女のことを、多く語りすぎたのかもしれない。それでも祐樹は佐伯を信用していたのだし、ある程度は漏らしてしまうものだろう。しかしそれも初めから仕掛けられていたことだとしたら――入学したばかりの十八の少年には、防ぎようもなかったことかもしれない。
秘密などと言っても、大したことではなかった。祐樹が彼女――ひまりとの約束をドタキャンして大学の友達とゲームイベントに行ったとか、そこで会った美女コスプレーヤーとツーショットを撮ったとか、そのあと数人で食事に行ったりとか……その程度だ。しかし、祐樹には負い目があった。
ひまりは非常に気立ての良い彼女だった。祐樹に嘘をついたことがないのはもちろん、不安にさせたことも一度もない。きっとこの件を知っても笑って許してくれるのだろう。――だが、祐樹が耐えられない。身勝手な話だとはわかっているが、どうしてもひまりに知られるわけにはいかなかった。自分が苦しみたくないから……。
佐伯は「秘密」について詳しくは語らなかった。しかし、祐樹はすっかりこのことだと信じ込んでいた。それで彼は佐伯の話を了承し、取引現場であるカフェへと向かったのだった。
最寄り駅の近くにあるカフェに着くと、佐伯は紅茶を飲んで待っていた。促されて向かいのソファに座る。やがて祐樹が頼んだコーヒーが届くと、佐伯はバッグの中からあるものを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これ、ボイスレコーダー」
「……え?」
「今まで君と会って話したときのね。ああ、今は録音していないから安心して」
佐伯は微笑んでいた。そして次はスマホを取り出し、画面を向けた。
「で、これは写真。君が例のコスプレイヤーと仲良く話してるところだね。この背景……ホテルかな?」
「え、どうして……」
佐伯は表情を変えず続けた。
「君はもう少し周りに気を付けた方がいい。それと、友達は選ぶことだね」
わけがわからなかった。目の前の男は本当にあの佐伯なのか。優しくて親切で、尊敬していた先輩……。
祐樹は写真を凝視した。ただの偶然にすぎない。それが事実でも、そう見えてしまう証拠を彼は持っている……。
そして佐伯は画面をスワイプした。次の写真が現れる。――画面を見て、祐樹は絶句した。そこに写っていたのは、どこかの部屋で眠るひまりと……
「どう? 驚いた? 君ってば、てっきり僕を信用してくれていると思ってたのに、結構嘘を言ってたんだね。ひまりちゃんが全部教えてくれたよ」
「え……?」
「気立ての良い彼女って言ってたっけ? 嘘だよ。ひまりちゃんはもう君に気なんてない。そりゃそうだ。あんなに束縛するくせに、自分はこうして遊び呆けているんだから」
「いや、その写真は誤解で……」
「知ってるよ。でもひまりちゃんはそうは思わなかったみたいだ」
「見せたんですか⁉」
「不可抗力だよ」
信じられない。佐伯さんに裏切られたこともまだ受け入れられないというのに……。
「それでね、彼女言ってたんだけど。もう君とは別れたいって。でも言いだせないし、この写真のことも僕に迷惑がかかるから言えないって。だからさ、坂本くん。君、彼女を振ってよ」
「……え?」
「わからない? 彼女は君と別れたいんだ。でも自分からは言いだせない。今君が彼女にしてやれることは、君から別れを切り出すことくらいじゃない?」
佐伯は笑っていた。まるで自分が正義であると言わんばかりに。
――もう終わりだ。俺の負けだ。何も考えられない。考えたくない……。
「…………はい」
まもなく、祐樹はそう返事をしていた。うつむいてかかった前髪の向こうで、佐伯がにやりと笑うのが見えた。彼の言葉には重みがあった。彼の発する全ての言葉が絶対的な意味を持つ気がしていた。祐樹に拒否権はなかったのだ。
帰り際、佐伯は振り返って言った。
「ああ、秘密をばらすって言うのは、ひまりちゃんにじゃないよ。彼女はもう充分知っているからね。サークルのみんなにだ。彼らは噂好きだからなあ……広まったらもうここには居られないだろうし、確か君と同じ学科の子も結構いたよね。授業もきついだろうなあ」
そう言ってにこにこしている佐伯は、夕陽があたってゾッとするほど美しかった。
祐樹は黙って頭を下げて、佐伯の元を離れた。今日はひまりの誕生日プレゼントを探しに行く予定だった。でももう会うことすら許されない。冷静に考えたらわかったかもしれない。でも彼には平常心などとうになくなっていたのだ。
次の日、祐樹は佐伯の約束を守り、ひまりに別れの連絡を入れた。ひまりは相変わらず優しかった。全て知っているとは思えないほどに。浮気をしたと思っている相手に向かって「悪くないよ」など、たとえ気づいていないふりでも言えるだろうか。――この画面の向こうにいるのは本当にひまりだろうか。いや……ひまりなのは確かだろう。しかし、ひまりが一人でいるとは限らない。隣には佐伯がいるのではないか。そして二人で画面を覗き、自分の様子を窺っているのではないか――。
祐樹はたまらなくなって、最後の文章を打ち込んだ。隣に佐伯がいるのなら、否定しても状況が悪くなるだけだ。どうせもう会えない。それならせめて、自分と別れて良かったと、そうひまりが割り切れる終わりにしてやりたい。
――本当は気づくべきだったのだ。ひまりと佐伯のあの写真は偽物で、全て虚言だったということに。しかし、祐樹は洗脳されていた。初めて佐伯に身の上話をしたとき――いや……もっと前、ひまりとサークルの体験に来たときから、ずっと。
送信を押すと、すぐに既読が付いた。返事が返ってくる前にすかさずブロックをする。
これでもうさよならだ。楽しかったなあ……二人で色んな所に行った。この辺りで行ったことがないのはスカイツリーくらいか。ひまりの誕生日に行こうと思っていたのになあ。
自室のベッドの上で手をかざすと、薬指のシルバーの指輪が無情に光った。もうしばらくは外せそうにない。今さっき自分が送った文字列を、意味もなく反芻していた。全て嘘である、その言葉たちを……。
――浮気したこと、反省しています。ごめんなさい。
自分はいったい、どこで間違ったのだろうか。
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