2
静寂に響きわたる着信音。ノクターンの第二番。
佐伯英治はスマホと手帳を持って、そそくさと大講義室を出た。
「もしもし」
応えると、電話の向こうから小さな声がする。まったく困ったもんだ。補講中にかけてくるなんて……。当てる位置を調節しながら階段を降りてゆき、一階から外へ出る。
外に出ると、すぐに階段を降りてピロティに出た。彼が通う大学の五号館は一階がピロティになっていて、そこに多くの学生が集まれるようになっている。数少ない開放的な空間なので、今日のような快晴の日は特に、設置されているテーブル席は競争率が高い。
見ると、今はほとんど埋まっているが、一つだけ空いている場所がある。佐伯はそのテーブルに手帳を置き、自身はベンチに腰を下ろした。
ぱらぱらと手帳をめくりながら、電話の向こうに問いかける。
「……じゃあ、もう実行してくれたってことだね?」
やわらかな風が彼の細い髪を揺らしている。透き通った頬にほんのり赤が染みている。
少しの沈黙。そして、ニッコリ微笑んだ。
「そうか。……ありがとう。これで僕は君の秘密をバラさなくてよくなった。……いやあ、すごくよいことだよ。君も僕も、悪人にならずに済んだのだからね」
風でページがめくれそうになるのを、左手で押さえながら会話を続けた。
――そうか。……ふふふ、なるほどね。それで君はどうしたの? うん……。
それから時折楽しそうに「ははは」と笑う佐伯に、電話の向こうの声はひどく憔悴している風だった。
しばらくして佐伯は手帳にさした万年筆を抜き取り、最後のページに書かれたリストのようなものを一つ線で消した。そして変わらず涼しげな顔で言う。
「……じゃあ、最後にいいかい?」
ぶわっ……と強い風が吹いて、佐伯の声は吸い込まれてゆく。電話の向こうの声は聞こえなかった。
気にすることはなかった。もう初めに伝えてある。聞こえていようがなかろうが、僕のすることはただ一つ――。
「――ということで。わかったね?」
佐伯は優しく尋ねた。あくまでも優しく――ただし拒否権はない。電話の向こうから、かすかにノイズが聞こえる。
――これで、君と僕とはさよならだ。金輪際関わらない。サークルも辞めて。もちろんあの子にも近づくな。絶対にね。もし破ったら、どうなるかわかってるよね?
佐伯は囁くようにそう言って、一息置いた。もう何も聞こえない。
屋根の隙間から見える快晴を見上げ、佐伯は静かに笑った。一つ大仕事を成し遂げたような、そんな爽やかな気分……。
電話の向こうからは、すすり泣くような声が聞こえている。うるさいなあ。もう消えてくれ。
ピッと無機質な音がして、世界は平和になった。電話を切った佐伯は、軽く息を吐いて手帳を閉じた。
……さあ、行こう。
十分ほど経って、佐伯は講義室に戻ってきた。板書を見ると、まだ次の話題には進んでいないようである。
スマホの画面には『宮沢ひまり』と表示されている。
『五限のあと、時間ありますか?』
文化祭に向けて一年生のメンバーで自主練習をするのに、何人か先輩に見てほしいということらしい。
『大丈夫だよ。せっかくだから、石崎くんも呼び止めておくといいよ』
返信すると、まもなく既読がついた。
『ありがとうございます!』
そうして共に送られてきたパンダのスタンプは、どこかひまりに似ていると思う。佐伯は嬉しくなって、同じスタンプをダウンロードして送った。
スマホを机の中にしまい、遅れた分の板書をとる。専門分野外でおもしろくはない授業だけれど、今日はなんだか気分がいい。佐伯はどこか澄み渡った、すがすがしい気持ちで顔を上げた。
――これで、準備は整った。
カーテンの隙間から、外を歩いているひまりが目についた。周りには何人かのサークルメンバーがいる。彼らは佐伯に気がつくと、小さく頭を下げた。佐伯は手を振った。
彼らはまた歩いていく。五号館の隣にあるサークル棟に行くらしい。今日は三限も四限も補講で参加できないから、少し顔を出してやろう。きれいになったあの子たちを見てやろう……。
去っていく彼らの後姿に、佐伯は底知れぬ満足感を覚えていた。つい最近まであの中にいた青年は、もうどこにも見当たらない。
佐伯の第一の目的は、果たされたのだ。
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