第9話
悠が言いかけたところで、手に持っていたスマホがメロディを鳴らす。
これは、メッセージアプリで凍火から受信があったのを知らせる専用メロディ。
凍火はいつの間にか手に持っていたスマホを猛烈な勢いで操作している。
視線は悠のほうに固定しているのに。手元のスマホには一瞥もくれていないのに。
(やばい)
悠もすぐにスマホを確認した。
アプリには案の定、凍火から『誰』やら『どうして』といったメッセージが届いている。どんな速度で入力すればそうなるのか、どんどんくる。一秒ごとにくる。
中でも血の気が引いたのは、『在真くんの上着』『うらやま』なるメッセージだった。
(見誤った……っ!)
嘆く暇もなく、周囲一体にある変化が巻き起こった。
その変化とは――冷気。
「在真くん。ねえ、在真くん」
凍火は悠に呼びかけながら、なおも高速で指を動かす。
彼女のスママホはスキル・クラフトが起動しており、異能力も発動していた。
「うっ……」
後ろのサクリファイスが急激な温度変化に身を震わせる。
悠とて縮こまりたいほどの寒さだったが、目の前の幼なじみがそれを許さない。
とりあえず近寄ろうとするのだが、玄関から一歩も踏み出すことができなかった。
「ぐっ……」
見れば――靴の底部分だけが凍結し、床と一体化している。
靴だけでなく、壁や天井などが部分的に凍結していき、さらなる冷気を発生させた。
(俺の異能力が『改竄』なら、凍火の異能力は『凍結』――っ)
狙った箇所を部分的に凍結させることができる彼女の異能力は、一言で言って脅威だ。
悠は底が凍ってしまった靴を脱ぎ捨て、冷たい床を歩く。
「在真くん。あのね。今日はカレーなんだよ。在真くんの好きなカレーなの。インドのカレー。タンドリーチキンの。この前お店でも食べたよね。一緒のテーブルで食べたよね。そのときはそんな子いなかったよね。ねえどうして。凍火じゃダメ?」
凍火はうわ言のようにつぶやきながら、悠を見つめていた。
その間も、スマホを動かす指は止まらない。室内の凍結箇所はさらに増えていく。
「凍火。俺は――」
「ダメ。とにかくダメ。ダメだからダメ。年下がダメ。年下だけはダメ。在真くんに年下は。ダメなの在真くん。ちっちゃい子だから。ダメだよどうしよう。どうしちゃおう」
悠が凍火の目の前まで近づいたところで、彼女の視線が動いた。
悠ではなく、その背後にいるサクリファイスに。
「そうだ。あのときみたいに氷漬けに――」
「聞けってば、凍火」
「ふぁ」
狂気的な言葉が紡がれようとした寸前――悠は凍火を抱きしめた。
咄嗟の抱擁に驚き、凍火がスマホを取りこぼす。
笑みを失っていた無表情には、羞恥を示す赤色が塗られていた。
「俺はおまえを裏切らない。今日は客を連れてきただけだ。ごはん、作ってくれたんだろ? ありがとう。みんなで食べよう。二人と、お客一人の三人で」
「ま。またっ。またまたっ。そんなことっ。言って」
「凍火」
「はい」
「俺は、おまえが一緒にいてくれるから生きていける」
抱きしめたまま、耳元で囁く。
瞬間――凍火の顔はとろとろに蕩け、口元はふにゃふにゃになった。
「あ、あ、あぁ~……在真くん好き……」
「うん」
全身から力が抜けてしまったようで、こうなると悠が支えずには歩くこともできない。
悠は凍火の腰に手を回しながら、ゆっくりとリビングへと誘導する。
数歩進んでから振り返り、玄関に立ち尽くしているサクリファイスを見た。
「あー……いや」
なんと説明すればいいものか。
いや、後回しにしよう。悠は考えることを放棄した。
「深くは訊かないでくれ。床凍ってるから、スリッパ履いて滑らないようにな」
スリッパがわからないようで一苦労あったが、どうにかサクリファイスも凍ることなく家の中に入ることができた。
◆ ◆ ◆
「さっきはごめんなんさい。お客さんなんて珍しいから、取り乱しちゃって」
三人がリビングのテーブルにつき、凍火はサクリファイスに先の非礼を詫びた。
食卓には凍火が用意してくれた夕飯――タンドリーチキン入りのインドカレーが三皿並べられている。彼女のサクリファイスに対する敵意はどうにかなくなったようだ。
「それで、なんでしたっけ。お客さんちゃんでしたっけ」
「……名前はサクリファイスなのです」
「そうでした。ごめんなさい。お客さんのサクリファイスちゃん。うんうん。サクリファイスちゃんはお客さん」
しきりに『お客さん』という部分を強調する凍火。彼女の中にはサクリファイスが『お客さん』でなければならないなにかがあるらしい。
悠自身、察しはついている……というか。
(俺が見知らぬ女性――特に年下と一緒にいたりすると、情緒不安定になるんだよな)
とは、さすがにこの場では説明できない。
サクリファイスにとっては、家に招かれたと思ったら初対面の相手にいきなり謎の能力で氷漬けにされそうになった、という恐ろしい出来事に遭遇したことになる。しかも、直前まで異世界侵略を標榜する者たちに追われ心身共に疲弊していた状況で、だ。
警戒は当然のように生まれ、最初は一歩引いている風だったのだが――
「辛い! し、舌が痺れ……あっ! でもおいしい! これ、すごくおいしいのです!」
出された食事を口にした途端、警戒心は崩れ去ってしまった。
カレーは初めて食べるのか、その強烈な辛さ――悠の好みに合わせて相当な辛口になっていた――に驚きつつも、スプーンを止めない。
「でへへ。なんだか嬉しいですね、在真くん。まるで、そう……む、娘ができたみたいな? ど、どう思いますか!?」
「……うっとりしてるところ悪いが、凍火。真面目な話をさせてくれ」
悠は凍火に事の次第を話した。
異世界、魔術師、生贄、〈覇界〉、悠が知り得た情報のすべてを。
事情を理解していくにつれ、締まりのなかった凍火の表情も引き締められていく。
「在真くんが……なにか、大きな運命に巻き込まれようとしています……!」
大げさすぎとも思ったが、世界の命運がかかっている以上的外れとも言えない。
「でも在真くん、異世界って……もしかして」
「そうだな。サクリファイス。訊きたいことは山ほどあるが、まず一つ確認させてくれ」
「はい」
「異世界転生――という言葉に聞き覚えはあるか?」
悠の質問に、凍火は切なげに目を伏せる。
それは、本当なら真っ先にしたかった質問だった。
「異世界……転生、なのです? 転生というと、魂の生まれ変わりのことなのですか?」
「心当たりがあるのか?」
「死した魂は新たな肉体を得て生を繰り返す。いわゆる『生まれ変わり』という考え方なのです。とはいえ一部で信じられているだけで、あまり一般的とは言えないのですが……」
「そういう考え方はこっちの世界にもある。まどろっこしいのは抜きだ。単刀直入に訊くぞ。俺たちの世界から異世界――そっちの世界に転生した奴はいるか?」
突拍子もない質問を、しかし悠は大真面目に投げた。
その強張った表情と口調は、質問というよりむしろ詰問。
問われたサクリファイスは戸惑いを見せ、言葉を詰まらせる。
「そ、そんなの聞いたことがないのです。仮にいたとしても、記憶がないのでは……」
「いいや、記憶はあるはずだ。あのエフェクトのとおりなら、必ず」
「エフェクト……?」
「あいつの異能力は確かに完成していた。だから――」
「在真くん、在真くん」
続く言葉を紡ごうとして、しかし凍火に遮られる。
「怖い顔してます」
簡潔な一言が、悠の感情を抑えつけた。
……一呼吸置き、無理やり気持ちを落ち着かせる。
「悪い。性急すぎた。忘れてくれ」
悠はバツが悪そうに席を立ち、空になった食器を片付け始める。
事情を知らないサクリファイスは、その姿を目で追うことしかできない。
凍火は一人、明るい笑顔でパンっと手を叩いた。
「そうだ、サクリファイスちゃん! 疲れてますよね? よければお風呂をどうぞ」
「お風呂? ここで湯浴みできるのですか?」
「はいっ。シャワーもシャンプーも自由に使っていいですよ」
「シャワー? シャンプー?」
「あ、異世界にはシャワーやシャンプーないのかな。じゃあ、一緒に入りましょう」
サクリファイスの手を引き、バスルームへ案内する凍火。
一方、悠は流し台の水に手をやり、懸命に自分の中の熱を冷まそうとした。
過去の不甲斐ない自分に対する、憤りの熱を。
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