第19話 本当に立派になっていました・・・

白く厖大な建物の中に入っていく。

 片手には手紙を、もう片方にはユイの手を握り受付カウンターへと向かった。

 事前に連絡したので面談できることは確実だったが、なんとなく身構えてしまう。

 受付の女性は以前の様に門前払いすることはなく手続き後奥へ通してくれた。

 エレベーターを使用して上階に上がりリノリウムの続く廊下を進んでいく。

 そして石田瑠香と記載された部屋プレートと白く横幅の大きい引き戸の前で立ち止まる。

 ノックしようとした手が震えここまできて進むのを躊躇ってしまう。

 その時片手がギュッと握られる。

 眼下の少女を見ると安心させるよう僕に微笑みかけていた。

 よし。

 一回深く深呼吸をした後ドアを三回ノックした。

 

「はーい!どうぞー!」


 溌剌とした返事が聞こえ僕は取っ手に手を掛ける。

 ドアを開けると緩やかな風が吹き込んできた。

 カーテンがパタパタ煽られ、ベッドで居座っている瑠香のサラサラで長い黒髪も同じように靡いていた。

 瑠香は僕達を見つめ顔を綻ばせた。


「お久しぶりです・・・やっぱり、二人一緒に並んでいる姿が一番しっくりきますね」


 その花々が咲き誇ったように表情全体が華やかになる笑顔。

 目鼻立ちがはっきりとしており細い、体躯は溢れ出る明るさの裏に儚さすら感じてしまう。

 闘病生活のせいか何処と無く体は痩せ、やつれているように見えた。

 石田瑠香。

 彼女と再会するのは実に半年ぶりだった。

 それでも僕は一日たりとも彼女の事を忘れた事は無い。

 彼女を思い続け、また三人で笑って再開できる日を切望してきた。

 なのに何故だろう、君の顔を見た瞬間、僕の言いたかったこと、道中で考えた数々の言葉なんてこれっぽっちも思い出せなくなった。

 言葉なんてどこに行っても場当たりで、結局君の側に居られたらそれだけで充分だったんだ。


「ごめん、色々あって遠回りしたけど。ようやく君に会えた。久しぶり、瑠香」


「ユイも、勝手に違う所へ行っちゃって、ごめんなさい・・・でも、ずっと会いたかった」


 瑠香は首を横に振った。

 そして両手を大きく広げて僕達に笑いかけた。


「今、動けないんです。だから、待ってます」


 ユイは一番に走り出し僕も後に続いた。

 僕は立ったまま瑠香の顔を胸に抱き寄せた。

 サラサラの髪と瑠香の匂いでくすぐったい気持ちになる。

 ユイはベッドに乗り上げ抱き着いていた。

 瑠香は僕の背中に手を回しやがて泣き始めた。

 一番辛いのは瑠香なんだ。

 日々の苦しい闘病生活、得体の知れない死との恐怖、心の拠り所がなく、一人部屋で居座ることしかできない毎日。

 僕には想像もできず、何かをしてあげようと思ってもかえって気を遣わせてしまい彼女を疲れさせてしまうかもしれない。

 だから今この瞬間だけは、彼女の悲しみを少しでも受け止めてあげたい。

 一人じゃない、傍にいるって伝えたい。

 彼女の小さな頭を泣き止むまで撫で続けた。

 数分経ちようやく彼女は頭を上げた。

 互いの視線が合い距離の近さに驚き静止してしまう。


「ごめんなさい、ようやく落ち着きました」


 瑠香は照れ隠しの様に肩をすかせて見せた。

 僕とユイは部屋の椅子に座った。

 

「そういえば、瑠香。これ覚えてる?」


 僕はその場で脱ぎ足を伸ばした。

 履かれた靴下は五本指ソックスでそれぞれのポケットに顔が描かれていた。

 ユイも真似して同じ靴下を見せた。


「それ、夏に圭太さんと買った・・・」


「そう、よく覚えてるね」


「忘れるわけないです。私にとって、本当に特別な日でしたから」


 これを買った頃は三人でお揃いの靴下を履いて出掛けたいと語っていた。

 あの時は簡単に考えていたけれど、今となればそれは奇跡的な夢にも等しかった。


「三人で一緒に歩く約束、僕は叶うって信じているから」


「私も、早くお出掛けしたいね、お姉ちゃん」


 僕達が笑いかけると瑠香は困ったように笑う。


「もう、また泣いちゃいますよ?・・・じゃあ、早く治さなきゃね」


 そう言って瑠香は布団に顔を埋める。

 明るい未来の話をすれば、これからの日々が楽しみで仕方なくなる。

 そしてその方向を向けば理想に近づいていけるって信じている。

 それからは一週間に二回程ユイと瑠香の部屋に通っていた。

 訪れるたび彼女は明るく歓迎してくれた。

 僕はあえて病気に関する話題を掘り下げなかった。

 彼女の日に日に疲弊していく様子は一目瞭然だった。

 病気はもううんざりだろう。

 だからこれからのこと、退院したら、もし病気が治ったらしたい事。

 そんな可能性のある未来の話に花を咲かせ僕達は長い時間語り合った。


「お兄ちゃん、今日の夕食はなににするの?」


「んー今日はね、オムライスだよ」


「やった、オムライス、好きなんだ」


「知ってるよ」


 僕は得意顔になる。

 出会ってから間もない頃、ユイが作ってくれたオムライスを思い出す。

 小学生にしてあの家庭的な味を作り出すのは驚いたものだ。

 ユイが好きな食べ物はオムライスやカレーといったシンプルでそれでも愛情で詰まっていそうな料理だ。

 僕の作ってくれるものならなんでもおいしそうに食べてくれるので好きなものは分かっても嫌いな食べ物はよく分からないが。

 ユイが作る時は僕の好みを的確に理解しており、胃袋を完全に掴まれていた。

 あの日から、ユイが帰ってきてから僕の生活はまた輝きを取り戻していった。

 一人だと億劫になり作らなかった夕飯も待ってくれる人がいれば作りたくなる。

 食事も、リビングでのんびりする時も、眠りにつく時も、そこには笑顔があった。

 ただ幸せな時間が流れ、空っぽだった部屋は温もりで満たされていく。

 週末やお休みに入ると瑠香のお見舞いに二人で行く。

 ユイの友達は次第に増えていき夕方まで遊びに明け暮れることもよくあった。

 毎日書いているスケッチブックは未だに中身を見せてくれないが、絵の実力は相当上がっているに違いない。

 夏には地元の花火大会を二人で行き、秋は紅葉通りを手を繋いで歩き、冬にはクリスマスを迎えプレゼントであげた画材ははしゃいで喜んでもらえた。

 春には桜が咲き誇る河原でお花見をし、梅雨になれば駅前のロータリーを歩く度二人が出会った頃を思い出す。

 そうした春夏秋冬を巡り、ユイが小学六年生になった秋頃だった。

 夕飯支度をしている途中僕の携帯が震えた。

 画面を見ると瑠香と表示されていた。


「もしもし、どうしたの?」


「・・・圭太さん、私、私ね」


 電話に出ると瑠香が落ち着かない様子で話し始めた。 

 早い息遣いに緊張した様子が伝わってくる。


「瑠香、大丈夫!?何かあったの!?」


 瑠香の病気が急変したのかもしれない。

 気が気でなく家を飛び出す準備をしようとした時瑠香の言葉が遮った。


「私、病気が治るかもしれない・・・」


 声を震わせながら瑠香は言った。

 言われた瞬間、意味を理解するのに数秒掛かり反応することができない。


「どこかの研究所の方から連絡があったみたいで、新薬開発の際の臨床試験の依頼が来たんです。薬の効果と安全性を確かめる試験らしいんですけど、これって以前ユイちゃんが協力した例の薬の件ですよね?」


 直後、息が詰まりそうなほどの喜びに駆られた。

 あの時の薬が、本当に・・・!


「あぁ・・・そうだ。ユイの時間は無駄じゃなかった。よかった・・・間に合ってくれて、信じてよかった・・・」


 ずっとこんな朗報を待っていた。

 何も進展している様子がなく、あの時ユイが研究を手伝いたいと言い行かせたことは間違いだったのではないかと少し疑ってしまっていた。

 それでもどこか希望的な願いとして胸の中に秘めており、数年越しにようやく光が差したのだ。

 

「私、頑張りますから。絶対病気を治して、圭太さんとユイちゃんに自分の足で会いに行きますから・・・待っていてくださいね?」


「待ってる・・・その日はまたクッキーを作ってくれるかな?」


「懐かしいですね・・・何枚でも作りますよ!毎日、あなたの為に作ります」


 そうして瑠香の挑戦が始まった。

 研究センターに移され僕達は日々待ち続けることしかできなかった。

 その間にも時間は過ぎていき、新しい春を迎え桜が少しずつ散っていく頃。

 ユイは中学生になった。

 入学式の日、紺色のセーラー服に身を包み胸元にある白いスカーフが特徴的だった。

 まだ少しブカブカで制服に着られている感じはあったが、いつもよりも大人っぽく見えた。

 ユイの成長をしみじみと感じる。

 そうか、もう中学生か・・・。

 小学生の頃のユイにはもう会えない、時間は流れ成長と共に僕の元を離れていくのかと思うととても切ない気持ちになった。


「お兄ちゃん、似合ってる?」


「うん、すごくかわいい。きっと男子にモテモテだな」


「お兄ちゃんがいるから、モテなくてもいい」


「はは、変なの」


 腕時計に目を落とすとそろそろ出発時の時刻だった。

 僕が腰を上げるとユイも察して緑色の手提げ鞄を持って玄関へと向かった。

 学校で支給された白いスニーカーを履き準備万端という様子で僕を待っていた。

 僕もスーツのジャケットを羽織りネクタイを整える。

 ユイの新たな出発だ。

 

「よし、行くか」


 僕とユイは車に乗り込み、運転してアパートの敷地を出た。

 中学校はここから近く、小学校に通うよりも八百メートル程短くなる。

 すぐに中学校の正門前が見えるが一旦通り過ぎ駅前の方向へと車を走らせる。

 ある男と待ち合わせをしているためだった。

 駅庇下の自動扉の近くで大柄なスーツを着た男が見えた。

 息苦しそうに顔を歪めている。

 男の立っている近くの道路脇に車を停める。

 僕達の姿を確認するなり少し笑いかけて近づいてくる。

 後ろの扉が開かれ大柄な男は苦しそうに後部座席に乗り込んだ。


「すみません、逸木さん。お手数お掛けします」


「いえ、今日はユイにとって特別な日ですから。お気になさらず」


 大柄な男はハンカチを取り出し脂の乗った黒肌から出る汗を拭く。

 彼一人が乗るだけで車内の湿度が大幅に上がった気がする。


「お父、さん。久しぶり」


「ユイ・・・ごめんな、小学校の卒業式は行けなくて」


「ううん、いいの。今日会えて、嬉しい」


「あぁ・・・お父さんも嬉しいよ」


 僕は車をゆっくりと発進させる。

 八谷信二。

 ユイの元父親だ。

 こうして二人を見ると離れて暮らしているのが不思議なくらい仲睦まじかった。

 ユイが帰ってから、僕は再びユイと八谷さんの関係や今後の距離感を考えた。

 お互い会いたがっており、しかし過去の凄惨な出来事もある為僕は会うこと自体反対だった。

 それでもユイの思いを少しでも汲んであげたいと思い一度僕は八谷さんと会ってみることにした。

 八谷さんはこちらへ出向いてくれ、駅前近くのファミリーレストランで集合した。

 店の中で僕は待ち、数分後大柄な男が僕の座る席に近づいてきた。

 律儀にもスーツを着用し、僕の前で立ち止まり申し訳なさそうな顔で頭を下げた。

 

「この度は、お時間作って頂きありがとうございます!ユイが、いつもお世話になっております!」


 僕はすぐに頭を上げるよう慌てたが中々姿勢を崩そうとしなかった。

 ようやく対面して座り、僕はブラックコーヒー、八谷さんはお冷を頂いた。

 その物腰が柔らかそうな様子は僕を庭先に叩きだし唾を吐きかけた男と同一人物とは到底思えなかった。


「ユイは、元気にしていますか?」


「えぇ、学校に通っていて、最近ではすっかり馴染んで友達とよく遊んでいますよ」


「そうですか、よかった・・・」


 一見本当にユイを案じているように思える。

 しかし前回のイメージが強くどうしても演技のように思えてしまう。


「・・・八谷さん、こう言っては何ですが、何で今更になってユイと会いたくなったんですか?私はあなたがユイに対して行った家庭内暴力を未だに許せません。養子の手続きをするときもあなたは何の躊躇いもありませんでした」


 ユイは当時表情が無く、感覚が麻痺しているようだった。

 そんな状況に自分の子供を追い込んだこの男の神経を疑うし、今更になって会いたがる二人の気持ちも僕は一切理解できなかった。


「あなたはユイを捨てたんです。散々傷つけて家から逃げ出すまで追い込んで。そんなあなたが、どの面下げてユイに会いたいなんて言ってるんですか?」


 問いただし、真意を明らかにしたい。

 ユイを再び引き込もうという気なら徹底的に抗戦しなくてはならない。

 八谷はお冷を口に含み、コップを机にそっと置いた後静かに話し始めた。


「大変申し訳ありません。そう思われても、仕方がありません・・・私は確かに、取り返しのつかないことをしました。妻と離婚してから、私は自暴自棄に陥りました。お酒に入り浸り、ギャンブルに明け暮れ多くの負債を抱え、遂には職すら失ってしまいました。自らの失態に苛立ち、ユイに当たり、傷つけ、出ていった日には私は全てを失いました。当然の結果です・・・当時の私は、失い続けた方が楽になるとすら考えておりました」


 八谷は机に俯いていたが顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見てきた。


「しかし、ユイをあなたに養子に出したその日の夜、私は得体の知れない恐怖に襲われたんです。それが寂しい、もっとこうしていればという後悔の気持ちだと後から理解しました」


 僕もコーヒーカップを持ち一口漱いだ。

 八谷の言う得体の知れない恐怖という感情は少し共感できた。

 ユイがいなくなった部屋に帰った時、どこか取り残されたような空虚さに襲われたことを今でも覚えている。


「ユイに会いたい、でも自分がまたいつユイを傷つけてしまうか分からない。初めてあなたと会った時、逸木さんは私に子供を育てる資格はないと言いました。仰る通りです。それでも、やっぱりユイの事が忘れられないんです。自分にはユイを幸せにできない。元気でいてほしいと願うことしかできません。だからせめて、ユイの成長した姿を少しだけでもいいんです。見てみたい、一年に一回でも、会わせて頂くことはできませんか?」


 僕は机上で腕を組む。

 八谷が嘘をついているようには思えない。

 父親としての後悔があり、自分がユイと暮らすことはできないと自覚はある。

 その上で娘の成長を見たい一心でここまで赴き頭を下げている。

 

「少し、考えさせて頂けませんか?ご返事はまた連絡します」


 その場で答えを出すことはできなかった。

 ユイにとって幸いの選択。

 一週間程考え抜いた末、一年間に一回は会うことを許可することにした。

 ただし、僕の立ち合いの元ということも条件に含めた。

 ユイと離れる寂しさを知ってしまったからなのか、以前より相当角が取れ優しい父親へと変貌していた。

 元々抱いている気持ちは純粋に愛情だったのかもしれないが、彼の周囲の環境にある何かが変えてしまったのだろう。

 ありきたりな話ではあるが、こんな歪んだ世界でなければ彼らは今でも一緒に居られたのかもしれない。


「一年二組、入学する者。相沢裕也」


 ステージ横の演台から白スーツを着た女性が一人一人の呼名を始める。


「はいっ!」


 通る声が体育館中に響き渡る。

 返事をした男の子は椅子から立ち上がった。

 一年二組はユイのクラスだ。

 

「逸木ユイ」


「は・・・い」


 わずかに声が聞き取れたが、相当緊張してあがっていた。

 無理もない、内気で人前に出るのが苦手な子なんだから。

 呼名はその後も続き個性豊かな返事が聞こえてきた。

 その後はホームルームでクラスメイト同士ちょっとした交流をしている。

 僕と八谷さんは正門の前でユイを待っていた。

 石柱に学校名のプレートとその横に入学式と綺麗な文字で書かれた大きな看板が立てかけてある。

 

「ユイ、本当に立派になっていました・・・全て逸木さんのおかげです。本当にありがとうございます」


 八谷さんは涙ぐんでいた。

 我が子の成長が嬉しくて堪らない様子だ。

 

「そんな、ユイ自身真っ直ぐに成長してくれて、困難に当たっても今まで乗り越えてきたんです。本当に強くて心優しい子ですよ」


 僕は最初からユイを育ててきたわけではないが、それでも今日という日を誇らしく思った。

 直後、生徒玄関から人ぞろぞろと出てきた。

 ホームルームが終わったのだろう。

 お父さんお母さんと一緒に出てくる子、家族の元へ向かう子と様々で、僕はユイの姿を探した。

 ユイは芽久ちゃんと千草ちゃんと一緒に歩いてきた。

 芽久ちゃんは長い黒髪をカットしており首筋辺りで切り揃えられていた。

 まるでお人形さんのように左右対称で纏まっていた。

 千草ちゃんは相変わらず茶髪のショートカットがよく似合っている。


「あ!こんにちわ!お兄さん!」


「お久しぶりです」


 僕に気付くなり二人は挨拶してくれた。

 八谷さんは気まずそうな様子で僕達から距離を取った。

 自分の存在を追及されるとユイに気を遣わせてしまうと思ったからだろう。


「こんにちわ。皆よく似合ってるね」


 芽久ちゃんは満足そうに笑い、千草ちゃんは照れた様子で下に俯いた。


「じゃあみんな、一緒に写真撮ろうか?」


 三人は元気よく返事をし正門にある入学式の看板を挟んで並んだ。

 僕はスマートフォンをカメラモードにしてみんなに向ける。

 芽久ちゃんはすぐにこちらを見たがユイと千草ちゃんは恥ずかしそうにしていた。

 

「おーい、ユイ、千草ちゃん?カメラの方向いてー・・・うん、いい笑顔だね。行くよー、三、二、一」


 パシャリとシャッターを切る。

 写真を表示しみんなに見せると満足そうな様子で笑い合っていた。

 きっとこの三人は一生ものの友達になるんだろうなと嬉しく思った。


「お兄さん、私お母さんの所に行きますね!ありがとうございました!」


「ありがとうございました」


 そう言って二人はそれぞれの場所へと戻っていった。

 走り去ったのを見計らって僕は八谷さんを見る。


「さぁ、八谷さん。ユイと並んで」


 驚いた様子で僕を見る。

 鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとしていた。


「お父さん、早く」


 ユイに手を引かれ二人は並ぶ。

 僕は再びカメラを向ける。

 八谷さんの表情が硬いことを察したのかユイは笑いかけていた。

 二人はカメラを見て、僕はまたカウントをしてシャッターを切る。

 ユイのくすぐったそうな笑顔、八谷さんの安堵したような表情。

 

「また、送りますから」


「すみません、ありがとうございます・・・」


 八谷さんはまた涙ぐむ。

 眉間を手で押さえ、それでも堪えきれなかった泣き声がわずかに漏れていた。

 落ち着くまでそっとしてあげたい気持ちは山々だったが、周りの視線が集まってきてなにより写真スポットをしばらく独占していたのでそろそろまずいと思った。


「・・・使って下さい、八谷さん」


 僕はハンカチを手渡し八谷さんは目頭を押さえる。

 行きましょうと促した時八谷さんが僕の腕を掴んだ。


「逸木さんが、まだ撮っていませんよ」


「・・・いえ私は」


 断りの言葉を言いかけた時、正門に立っているユイと視線が合った。

 不安そうにこちらを見ている。


「ユイはあなたを待っています」


「・・・すみません、お願いします」


 僕はスマートフォンを八谷さんに手渡しユイの元へと行く。

 パッと表情が華やかになるユイを見て僕も思わず笑った。


「それでは、撮ります」


 撮られた写真を見た時は信じられなかった。

 普段自分の笑顔と対面することはないが、こんなに幸せに満ちた表情をする自分を初めて見た。

 思えば自分の映った写真を見るのは何年ぶりだろう。

 忘れたくない瞬間を形に残してくれる。

 写真とはなんて素晴らしい媒体なんだろう。


「お兄ちゃん、ありがと」


「こちらこそ。中学校入学おめでとう。ユイ」


 お互い朗らかに笑い合い、周りの喧騒は聞こえなくなる。

 それくらい僕らの視界には相手の顔しか見えていなかった。

 君は僕の知らない間に大人になっていって、いつか僕の元を離れる瞬間が来るのかもしれない。

 だからこそ今日というこの瞬間は特別で、写真の様に確かな形に残らなくても一生忘れてはいけないと思った。

 



 入学式から一か月が経ちそうな頃。

 その日は日曜日で僕とユイは部屋の中で過ごしていた。

 二人で何をするわけでもなく、ただ僕達は互いの存在を感じていた。

 ユイは窓際でいつものスケッチブックにまた何かを描き込んでいて、僕は文庫本をすぐ近くで読んでいた。

 その時、インターホンの音が部屋に響き来訪を知らせた。

 誰が来たんだろう?

 心当たりの無い来訪者の正体を確かめる為僕は玄関へと向かう。

 プッシュプルハンドルに手を掛けドアを静かに開ける。


「はい、どちら様・・・」


 姿を確かめた時、僕の時間は止まった。

 信じられない、でも確かに目の前にいる。

 どうしてここにと疑問は浮かんだが理由を求めること自体間違っていると思いすぐに頭から消した。

 病気を治して自分の足で会いに行く。

 彼女は最後の電話でそう言っていたのだから。


「おかえり、瑠香」


 掠れた声が出てくる。

 視界が霞んで彼女を上手く捉えられない。

 もっと話したいことが沢山あるのに、涙が邪魔して感情をコントロールできない。

 ただ、奇跡が起こった、信じたことは間違いではなかった。

 それだけが確かで、今は十分だと思った。


「ただいま、圭太さん!」


 陽気で溌剌とした声が、また僕の世界を明るくしてくれた。

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