第17話 本当の親子

「それでは、代わりますね」


 受話器を受け渡す際数秒間の空白の時間がある。

 その数秒が永遠に続くのではないかと思えるくらい長く感じた。

 微かだが小さな息遣いが聞こえる。

 その瞬間空気感が変わった。

 僕の言葉を待っているように思えた。


「・・・ユイ?」


 囁くように問いかける。

 返事はすぐには帰って来ない。

 でも、きっと答えてくれる。


「お兄、ちゃん」


 久しぶりに聞くその声は僕の感覚の全てに響き渡るような衝撃だった。

 世界が色づいていくような錯覚を覚え胸が締め付けられるように苦しい。

 たどたどしい口調、儚さを感じる声色、柔らかく包んでくれるような温かみのある雰囲気。

 一緒に居た時間は少なく、離れた時間の方が長かったけれど、僕はその数秒にも満たない会話で彼女の全てを思い出した。

 

「面談はもう、大丈夫なのか?どこも悪くないか?」


「うん、ちょっと気分悪くなって。いろんなお薬飲んだり、機械に乗ったりしたから。今は大丈夫」


 実験による弊害。

 引き渡す前は気を付けると言っていたくせに。

 今は怒りを抑え、貴重なユイとの会話に集中するよう切り替える。


「ユイ、話したいことがたくさんあるんだ」


「うん、私も」


 それからは至福の時間だった。

 部屋で一緒に過ごしていた時のようにゆっくりと和やかな雰囲気で話すことができた。

 新薬の実験やその進捗、人体への影響といった彼女にとって面白くのない話題はなるべく避けるよう努めた。

 もっと明るい話。

 帰ってからしたい事といった未来を語り合えるような話題。

 それらは尽きることなく僕らの夢は膨らんでいった。

 瑠香の名前が出てきて、僕が喧嘩したことを伝えるとユイからお説教を受けた。

 どっちが大人なんだかと心の中で笑った。

 また話題は一周して帰ってからしたい事に戻っていった。

 三人でどこか遠くへ旅行に行きたい。

 千草ちゃんと芽久ちゃんとまた遊ぶ。

 今も描いているが、スケッチブックの絵をどんどん描いていきたい。

 

「他には、何かあるのかい?」


「うん、あるけど。その・・・」


 ユイは言葉を濁した。

 あるにはあるが、人には言えない願望もあるのだろう。

 強要はできないと思い断ろうとするがその前にユイが口を開いた。


「お父さんに、会いたいな」


 ユイは焦がれるような声で言う。

 予想外の言葉に僕は何も言えなくなった。

 

「お兄ちゃん?」


 どれくらい黙っていたのか分からないが、ユイは僕を心配して呼び掛けてくれる。


「ユイ、どうしてなんだ?あんなに酷い目に合って、それでも会いたいと思えるなんて」


「確かに、痛かった。苦しかった。限界を感じて、私は逃げ出した。でもね、私知ってるの。お父さんが、夜になると、一人で泣いていたこと。ずっと誰かに謝り続けているの。私の前でも謝って、遊んでくれたこともあった。許す気は、ないけどね」


 許す気はない、それが前提だった。

 その言葉を聞いて少し安堵する。

 再びあの男と暮らすと言い出したらどうしようかと思った。


「きっと、お父さんも苦しかったんだと思う。私の知らない所で、酷い目に会って、苦しんで。ご近所さん見てると、やっぱりそういう雰囲気で分かるの。そうした苦しみを、ぶつけてきたんだと思う。お父さんも、いじめられてたんだよ」


 ふと、壁に掛けてある時計を見ると研究所から許された通話時間をそろそろ迎えようとしていた。


「お父さんを、許すことはできないけど、私は私の成長を、しっかりと見せてあげることが、大切だと思う。一応父親と、娘だから」


 どんな理不尽でも、酷い目にあっても、真っ直ぐに正しく歩もうとする。

 幼さ故の純粋。

 それが非常に危うく感じた。


「だからお兄ちゃん、私、帰ったらお父さんに会いたい・・・いいかな?」


「・・・ダメだ」


 一時の感情で、再び関係を持とうとするなんて僕には到底見過ごすことはできなかった。

 ユイはまだ幼い。

 一度関係を持ってしまうと、それを断ち切ることは難しくなる。

 ましてや相手は暴力の行使さえ厭わなかった男。

 一時の優しさだけで決断するにはあまりに危なかった。


「どうして?また、お兄ちゃんは、私の言うことに反対する。親に会いたい気持ちは、お兄ちゃんにだってあるはずでしょ?」


 まずいと思った。

 この今にも爆発しそうな雰囲気。

 ユイは怒ると理不尽に訴えかけるように相手を責めてくる。

 内容には筋が通っていて、言われた時は例え大人でも言葉に詰まってしまうだろう。


「・・・ユイの為なんだ。分かってくれ」


「嫌。酷いよ、お兄ちゃん。私の為だなんて、そんなこと望んでいないの!」


 ユイの頭の中では僕に対する被害妄想が展開されているのだろう。

 毎回怒った時最後に家を飛び出して行ってしまうように、このままでは電話を一方的に切られてしまう。

 

「ユイ、信じてくれ・・・」


 僕の言葉に、ユイからの返事はなかった。

 数秒後、聞こえてきた声は最初に案内してくれた女性だった。

 お時間になりましたので切らせて頂きます。

 また面談の日時は・・・。

 僕は頭が真っ白になり電話を床に落とした。

 頭を壁にこすりつけ、追い詰められたように目を見開き呼吸が荒くなる。

 やってしまった。

 また喧嘩別れで、今回ばかりは取り返しのつかないことをしてしまった。

 ユイの心の中でお父さんの存在が大きくなっている。

 八谷もまた、ユイのことを思い続けている。

 彼等の決断次第では、僕の付け入る隙はもう無いのかもしれない。

 今回の喧嘩がその火種になってしまうとしたら、やるせない気持ちで押し潰されそうになった。

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