第2話 家族になろう
「私達、別れましょう」
目の前にいる女性は申し訳なさそうにそう告げる。
高架橋の下にある河川から風が吹き、靡く前髪が片目を覆っていた。
「あなたが悪いわけじゃないの。そして私が悪いわけでもない。単純に私達は合わなかったのよ」
彼女の言っている事は最もだった。
そう思う兆しはいくらでもあった。
ただお互いがその事をはっきりと告げず今日まで時間を引き延ばしていたに過ぎない。
「賢明な判断だと思うよ。何もしなくても近い将来こうなっていたと思う。傷が浅い内に離れた方がよっぽどいい」
僕はなるべく冷たい言い方にならないよう落ち着いた口調を意識して言う。
痴話喧嘩という泥仕合はなるべく避けたい。
「あなたは優しかった。でも同時に冷たくもあったわ。全て自分一人で抱え込んで、私には一つも頼ってくれない。あなたは私を庇ったつもりでも私にとっては信頼してもらえない悔しさがあった」
自分一人が傷ついて事が穏便に済むなら安いものだと。
それは僕の性分だった。
同時に人に頼るやり方が分からないままここまで来てしまった。
共同生活を送る上で大きな仇となり、恋愛に関して上手くいくはずがなかった。
「ごめん。決して信頼していなかったわけじゃないんだ。僕は君に不満は一つもないけど・・・」
「そういう所よ」
彼女は僕の言葉に被せるように言い放った。
失望したと言わんばかりの表情をする。
「あなたのそういう所が、私は無理なのよ」
僕は何も言えない。
そして沈黙は彼女の勘に障ったようだった。
「今だって何も言い返さないことで穏便に済まそうとしている。前言撤回よ。あなたは優しくなんてない。その性格は優しさなんかじゃない。ただの独りよがりに過ぎないわ」
彼女はまだ言いたそうだったが口を閉じ、僕に背中を向ける。
「酷いこと言ってごめんなさい。もう二度と会わないことを願うわ。さようなら」
そうして彼女の背中は遠くなっていく。
姿が見えなくなるまで僕はその場で立ち尽くしていた。
生きていく度何回も人格を否定され、その都度行き場のない感情が僕の胸を締め付ける。
それでもこの性格が改善することはなかった。
長年積み上げてきた心情の塊は簡単には変わってくれない。
それが尚更腹立たしい。
いつしか僕は人間関係に憶病になり、その後彼女なんてできるはずもなかった。
瞼にわずかな光が差す。
頭のスイッチが押され起動したようにおぼろげな記憶が回想する。
そうか、ソファで寝たのか。
打てるわけもない寝返りに失敗したのか体の節々が痛む。
ゆっくりと上半身を上げソファに座る形になる。
その時すぐソファの下に少女が正座して僕を見つめていた。
「うわっ!」
僕は驚きソファから転げ落ちる。
倒れた体をすぐに起こし視線を少女に戻す。
「そうか、思い出してきた」
昨日起こった少女との一連の出来事を思い出す。
少女は訝しげな眼で僕を真っ直ぐに見てくる。
「ごめんごめん、おはよう。ユイ」
「おはよう、ございます」
ユイは小さな声で挨拶をし軽く頭を下げてくれる。
僕はキッチンで朝ごはんを作るべくトーストを二枚オーブンに入れる。
レタス、トマト、キュウリを切ってサラダを作り、ボウル皿に入れイタリアンドレッシングと合わせて持っていく。
飲み物は僕はブラックコーヒーでユイは野菜ジュースを注いだ。
一通りローテーブルに置くとトーストにバターを塗りユイに手渡す。
「ごめんね、簡単なものばかりで。あまり料理は凝らないからさ」
ユイは首を横に振る。
頭の上にプロペラのように張った寝癖が左右に揺れ可愛らしくて思わず微笑んでしまう。
後で直してあげないとな。
「じゃあ食べようか。いただきます」
僕がトーストをかじるとユイもフォークをもってサラダを口に運んでいった。
次にコーヒー、そしてトーストと食事を勧めている内ユイが口を開いた。
「お兄ちゃんは、料理が上手だね」
「そうかな?誰でも作れそうなものばかりだと思うけど・・・」
「ううん、すごくおいしい。毎日こんな料理が食べられたら幸せ」
ボウル皿に乱雑に入れられたサラダを食べながらユイは言う。
まさか冗談だろうと思ったが冗談を言っているようには見えなかった。
もしかしたら、彼女の家はこんな味気ない料理に劣るくらいの食事しか出されないのだろうか。
劣悪な家庭環境。
それが深夜駅前に座り込んでいた理由と何か関係があるのかもしれない。
「嬉しいよ、ありがとね」
心が揺らぐ。
もし僕の察しが的を得ているとすれば、今から僕がする行いは正しいと言えるのだろうか。
疑問を残したまま朝食を終え、使い終わった食器を一旦水につけておく。
ユイは洗面所で顔を洗い、新しい歯ブラシを出して歯を磨いていた。
その後僕がドライヤーを持ってきて髪をとかす。
寝癖を鏡で確認したのかユイは恥ずかしそうに目を逸らしていた。
指先で撫でる度自分とは違うサラサラな髪質に驚かされた。
「これで寝癖はなくなったね。かわいいよ」
寝癖という一言余計だったのかユイはイラっとした様子で洗面所を出ていった。
その後ユイが昨日着ていた服を渡し着替えてもらった。
僕も出かける準備を始め、スキニージーンズにダウンシャツを着る。
色は全て黒で統一され我ながら少女と並んで歩くには怪しい格好だなと思った。
ユイも出発の準備は大丈夫そうだ。
「とりあえず、警察に行こう。忘れ物はないかな?」
するとユイが近づいてきて僕の足にしがみついてきた。
僕の顔を見上げ哀願しているように見えた。
「お兄ちゃん、私、帰りたくない」
絞り出すような声だった。
訴えるように回された両手が強く締め付けられていく。
僕は彼女の頭をゆっくりと撫でる。
「ユイ、携帯あるかな?」
ユイは子供用のスマートフォンをポケットから取り出し迷わず僕に手渡してくれた。
連絡先欄を見ると自宅が設定されていた。
固定電話の番号と住所が登録されている。
このままユイを警察に届けるのは簡単だ。
でも、昨日と今日の様子を見て家庭環境が少し引っかかる点があった。
僕自身の目で現状を確かめ、場合によっては然るべき機関に届け出ようと思った。
登録された固定電話に連絡してみる。
呼び出し音が鳴り続き出る様子はなかったので断念する。
仕方がない、ユイの自宅に直接出向こう。
自宅の住所をマップアプリで検索し確認する。
「え?」
目的地は百キロメートル以上離れた場所にあった。
見渡す限り自然にあふれた道を車で駆け抜けていく。
昨日の雨で濡れているツユクサに覆われた植物の中に紫陽花が道沿いに咲いている。
太陽の光は雫に反射し光の世界を作り出していた。
僕とユイは黒の軽自動車で二時間近く移動しもう少しで現地に着くところだった。
ユイはよくこの距離を電車で移動してきたものだ。
小学生とは考えられないくらいの行動力だ。
テレビで見たことがあるような田んぼで挟まれた土道を走っていき脱輪しないように気を配る。
田舎道は危険がいっぱいだ。
やがてナビが案内する目的地に着き平屋の木造住宅の前に駐車する。
その家の風貌を見て驚きを禁じ得なかった。
外構の草や植物は手入れが施されておらず乱雑に生え散らかし、木の板で張られた外壁は経年によってささくれが複数発生している。
瓦は所々ひび割れており今にも滑り落ちてきそうで漆喰もボロボロに剥げていた。
他にも網戸の破れと脱落、ガラスの割れ、開かれた玄関引戸から見える溜まり上げたごみ袋など問題を上げればきりがない。
本当に人が住んでいるのか?
「ユイ、この家で間違いないか?」
コクリと首を縦に振る。
信じられないな。
僕とユイは車を降り玄関に向かう。
インターホンもチャイムもなかったので開かれたドアから呼んでみる。
「御免下さーい!ユイさんの件でお伺いしましたー!」
数秒待ったが返事はなかった。
生活音や動作音の一つも聞こえない。
出かけているのだろうか?
だとしたらなんて物騒なんだろう。
一応家の周りを回ってみることにした。
庭に伸びた植栽は鋭利で凶器なものに変貌しており避けて通るのも大変だった。
ふと和室の掃き出し窓が目に付く。
完全に窓が開いていたからだ。
近づいて見ると部屋の周りには空の缶ビールとおつまみ類の袋が散らかっており鼻に刺すような異臭が部屋を覆っていた。
そこでさらに目を疑う。
大柄な男が畳の上に横たわり倒れていた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて土足のまま部屋に上がり男に近づく。
すぐに安否確認を行った。
脈は、ちゃんと動いている。
鼻と口に手のひらを当て呼吸を確認し、息はあった。
だとすると、ただ単に眠っているだけだったのか。
「うー・・・うるせーなー、頭に響くだろうが」
男は目を覚まし片手でソフトモヒカンの頭を叩く。
所々染みのついた白いタンクトップに土木作業着が使っていそうなズボンを履いている。
顔は強面で威嚇しているようなギョロ目は合わせるだけでも恐怖を覚えた。
気だるそうに体を起こし僕を見るなり怪訝そうな顔をした。
「お前・・・誰だ?」
「すみません、失礼しました。昨日ユイさんを保護しまして、今回お伺いしました」
「ユイ?あぁ・・・」
男は窓越しにいるユイを見るなりめんどくさそうに舌打ちをした。
「お前、何でここにいるんだ?」
威圧感のある声が響き僕は思わず怯んでしまう。
「俺が嫌で出ていったんだろ?。ここにもうお前の場所はない。とっとと失せろ」
ユイは動く様子を一切見せず無表情でただ男を見ていた。
「失せろって言ってんだろうが!」
その時近くに置いてあった缶を手に取りユイに向かって激しく投げつけた。
幸い窓越しの為ユイの顔には当たらずガラスに跳ね返るだけだったが、ユイは驚いた様子で倒れ込みそのまま立ち上がろうとしなかった。
ユイの指先が震えているのを僕は見逃さなかった。
僕は男に近づき怒りをあらわにする。
「なんだ?文句あんのか?」
「あなたのような人に、子供を育てる資格はありません」
「あ?」
許せない。
強い憎悪が込み上げてくる。
この場でこいつを殺してしまいたいと思った。
でも、ユイの前でそんな野蛮な事できない。
僕は自分の気持ちを押し殺す。
「なんでこんな酷いことができるんですか?自分の子供でしょう。むごいとは思わないんですか?」
「全く思わないね」
男は面倒臭そうな様子で返してくる。
「むしろかわいそうなのは俺の方さ。欲しくもない子供と毎日毎日面を合わせて。うっとおしいんだよ。そいつの目を見る度バカにされているような気がしてむかつくしよ」
ユイを一瞥するなり口を歪ませ笑った。
「いっそお前なんて生まれてこなかったらよかったんだ。望まれてできたわけじゃないんだしよ」
「あなたは!」
僕は男の顔を思いっきり殴った。
鼻と口の間に当たり食い込んだ音がする。
それでも身長差が十センチ以上ある大男は少し怯むだけですぐに僕を睨み返してきた。
「何すんだてめぇ!」
男は殴り返してきて顔の鼻先に当たる。
体は呆気なく家の外に放り出され地面に叩きつけられた。
目を開けた時男が見下ろし唾を吐いてきた。
「なら、てめぇがそいつの親になれや。俺に親の資格がないってんならお前でやってみろってんだ」
僕は体をゆっくりと起こす。
男には目もくれず、ユイの手を握った。
「行こう、ユイ」
逃げるように男の元から離れた。
もうこの場所に用はない。
ユイの家庭環境を理解するには十分過ぎた。
あの男とユイは、一緒に居てはいけない。
「お兄ちゃん、さっきのって」
「うん」
僕はユイの手を強く握る。
それは彼女と初めて出会った時に言われた問いの答えだった。
「家族になろう、ユイ」
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