幸せを描く少女
emo
第1話 雨曝しの少女
幸せの兆しはいつだったんだろう。
生きている間は通り過ぎるような日常を過ごしているのに、終わった途端にあの時は幸せだったなと後悔の念に駆られてしまう。
いや、実際に僕は幸せだった。
ただそれに気付くことができなかっただけだ。
失うべきではなかった。
人の欲望には際限がない。
今が手に入れば次を求めようとする。
そうして失った時には取り返しのつかない状況に陥っている。
だからこそ僕はこう思うことにする。
今この瞬間が幸せだと。
そして、今ある幸せを決して見失ってはいけない。
部屋の窓辺で黄色いスケッチブックに絵を描く少女の幻を見て、僕はそう思った。
深夜の駅前。
僕は終電を降車し広場を歩いていた。
その日は梅雨入りが発表され酷い降雨で殴りつけてくるような雨が世界に降り注いでいた。
ロータリー沿いのタイル道を街灯を頼りに進んでいく。
街灯の光が水たまりに反射してその上を歩く様は星の上でも歩いているような気分になれた。
順調に歩を進めているのも束の間、僕はその場に立ち止まった。
誰かが、僕を見ている。
視線の気配を感じ取りその正体の方向を向く。
街灯を二つ挟んだ先のベンチに誰かが座っていた。
僕は慎重に近づいていく。
徐々に姿が明らかになっていき全貌が見えた時呆然とした。
小学生位の少女が雨曝しの状態でベンチに座っていたからだ。
全体的に線が細く、長いまつげにぱっちりとした目が特徴的だった。
水分を含み重くなった髪は顔に張り付き横髪は鎖骨のあたりまえ伸びていた。
白色のふんわりとしたブラウスと青いスカートを着こみ肌寒そうにしている。
少女は真っ直ぐに僕を見つめてくる。
その目にはなんとなく、光がないように見えた。
わずかに震えた唇をゆっくりと開いていく。
「お兄ちゃんが、私の家族になってくれるの?」
激しい豪雨の音にも関わらず少女の声ははっきりと聞き取ることができた。
とても透き通っていてあらゆる障害に干渉されないかのように僕の耳に真っ直ぐと入ってくる。
それでも少女の言葉の意味を僕は理解することができなかった。
だからといってこんな時間に雨曝しの少女を放っておくわけにもいかない。
僕は彼女の上に傘を翳す。
「どうしたの?誰かを待っているの?」
少女は表情を変えず静かに首を横に振った。
「ううん、私一人だよ。行く所がなくてずっと座っているの」
「そっか・・・」
参ったな・・・こういう時どうしたらいいんだろう。
こんなにびしょ濡れになって、雨も降り止む様子はない。
「行こう。このままだと風邪ひいちゃうよ?」
「うん。お兄ちゃん」
少女は口を綻ばせ小さく笑う。
僕の傘に入ってついてきてくれた。
降り止む気配のない雨の道を二人で並んで歩いて行った。
駅から少し歩いて僕の住んでいるアパートが見えてきた。
入り組んだ路地の中にあり車の出入りは不憫な立地だが電車通勤の僕にとっては駅から近く十分な配置だった。
陸屋根の白く塗られたメゾネットアパート。
外溝にはシモツケとサニフォスターが植えられガーデンアップライトで照らされたその存在感はアパートの顔になっていた。
玄関ドアを開錠し中に入る。
僕が上がり框を超えた時少女はずっと土間で立ち止まっていた。
びしょ濡れの姿だから濡らすのが申し訳ないと気を遣ってくれたのかもしれない。
「気にしなくていいよ。どうぞ、入って」
「お邪魔します・・・」
少女は遠慮気に中に上がった。
緊張しているのだろう、動作が硬かった。
階段を上がった先には生活スペースが広がっており、LDKには木目調のクッションフロアとローテーブル、横長のソファに正面にはテレビ台と型落ちの液晶テレビを置いてある。
あまり物欲は無い為最低限の物だけを配置し後は何の個性もない空っぽの部屋だ。
僕は少女にタオルを渡しお風呂を軽く水洗いする。
「お風呂入っていいよ。深夜で隣の人も寝ているから浴槽にお湯は入れられないけど、シャワーだけでも浴びてね。あと服は洗濯機に入れてくれれば洗っておくからね。後はそうだな・・・着替えは大きいけど、僕の服でもいいかな?」
少女はコクリと頷く。
僕は笑い返し、少女は洗面所の方向へと向かった。
ジャケットをハンガーにかけ安心した瞬間空腹感に襲われる。
お腹空いたな・・・。
終電ギリギリまで残業をしお昼から何も口にしていない。
おまけにこの雨で体温は下がり、何か温かいものを食べたいと思った。
僕は収納スライド戸からシチューの素を見つけこれにするかと準備を始める。
まな板の上にじゃがいもとニンジンと鶏肉を置く。
包丁でそれらを慎重に切っていきマイペースで料理を進めていく。
部屋の中には僕の切る包丁の音と浴室から聞こえるシャワーの流水音だけが響いていた。
こうした無心でいられる静寂な時間は日々の喧騒の中から解放され心に余裕を持たせてくれる。
よく僕はこういった時間に現在の自分を客観的に見つめ直している。
一メートル離れて自分を見ている感覚だ。
そこで気分次第の自己評価を下す。
当時は目先の事で精一杯で自分の心情なんて考える暇はないが、後から振り返ると気づく点が多々あり意外と面白い。
例えば今日の出来事を順に振り返るとする。
朝起きて会社に行くと本部の人間が数人訪問しており、部署に対して理不尽な言葉で罵りそれぞれの人格を否定される。
そこで自分が言い返しても返り討ちに会うのは目に見えているし、一矢報いたとしても立場上ただでは済まないから感情を押し殺して謝り続ける。
部署内では一丸となって耐え続けているが、きっと報われる日なんて来ない。
企業は人。
トップダウンで方針を決める会社は同じような人間を量産し、イエスマンだけをかき集める。
だからこそ罵る人間、罵られる人間と区分を分けその社風が変わることがないことは今までの経験上分かり切っている。
月末は仕事がパンクしそうになる位程舞い込んできて終電ギリギリまで残業。
大体毎日の繰り返しだった。
唯一いつもと違ったことといえば、さっきの少女と雨の中出会ったことくらいかな。
少女を見た時強く衝撃を受けた。
うまく説明はできないが、何が何でも救わなくてはという気持ちが強く働いたのだ。
初めて会う少女にあそこまで突き動かされるなんて、不思議な感情だった。
その時後ろからガラガラと引戸が開く音がした。
音の方向を向くとお風呂上がりの少女がいた。
水気を含み毛先がカールしたセミロングの黒髪に頬がほんのり赤く染まっていた。
ぶかぶかのジャージを着て手は隠れ足元は裾をめくっているものの歩きづらそうに移動していた。
「さっぱりしたかな?今シチュー作ってるからもう少し待ってね」
僕は鍋を煮込みながら話す。
しかし少女はまた立ち止まってどうしようかと挙動不審の状態だったのでローテーブルとソファのある部屋で待っていてもらう。
「そういえば、君名前はなんて言うのかな?」
僕はシチューを混ぜながら話しかける。
少女の顔は見えないが、返答の返ってこないあたりまだまだ緊張しているのだろう。
「ユイ、です」
少女のか細い声が聞こえてきた。
ユイ、なんとなく繊細なイメージがして彼女の雰囲気にぴったりの名前だと思った。
「ユイか。かわいい名前だね」
僕はシチューを深皿に入れスプーンと水の入ったコップを合わせてローテーブルに持っていく。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「・・・いただきます」
彼女は恐る恐るスプーンをシチューに近づけていく。
シチューを口に含んだ時一瞬目が見開き驚いた様子を見せた。
「おいしい」
「ほんとに?ありがとね」
嘘の欠片も感じさせない口からぽろっと出たかのようなユイの言葉は純粋に嬉しかった。
僕とユイは無言でシチューを啜っていく。
色々話しかけお互いの心の距離を縮め、安心させるべきなんだろうけど今のユイは不安定で儚そうに感じたのでそっとして置いた方がいいと思った。
この雨の中深夜一人で外に座り込んでいたのだ。
きっと何か理由があるのだろう。
「ごちそうさまでした」
「うん、ありがとう」
空腹が満たされ、すぐに眠気が襲ってくる。
人間の欲求というものは次から次へと忙しいものだな。
「今日はもう寝ようか?」
ユイも眠たそうに首を縦に振った。
寝室のベッドをユイに使ってもらい、僕はリビングのソファで眠ることにした。
「おやすみ。ユイ」
「うん、お兄ちゃん」
挨拶の後ユイはすぐに静かな寝息を立て眠りに入った。
よっぽど疲れていたのだろう。
僕もソファで横になり、すぐに暗闇の世界に誘れた。
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