君を感じて
「ちょっと!!あんた達、止めなさいよ!」
廊下をツカツカと歩む音、扉がガラッと強く開けられる音、そしてそこから響く少女の発した音。三つの音が地続きとなって、教室の中にいた生徒達の視線を引き寄せた。
視線の先の少女、怒声の主はその視線を意にも介さず堂々たる歩みで廊下とは反対側の教室の隅っこ、掃除用具入れのある角に進んでいく。
そこには一人の女の子と、その女の子を取り囲むように三人の男子がいた。比較的体格の良い男子たちによってその女の子の様子は外側からは窺えなかったが、男子たちがからかうように飛ばす声の中にはすすり泣きのような音が時々紛れていた。
廊下側からの声が鼓膜を揺らすのと同時に、男子たちは肩をビクッと震わせ、そして他のクラスメイト同様に声の主を見る。一瞬顔に恐怖か不安の色をにじませるも、虚勢か一対三故の余裕か、その後すぐに顔にニヤニヤという笑みを張り付けた。
そして、
「やーいやーい。また暴君様の御登場だー!」
「男女がヒーロー面してやってきたぞー!」
「メスゴリラが人間を襲うぞー!早く誰か調教員を連れてこーい!」
近づく少女に口々に悪口を言い始めた。その騒がしさ、喧しさは一種猿か犬か、とにかくよく吠える野性動物のようですらあった。
少女はその言葉の数々に一瞬だけ眉をピクリとさせるも、無言のまま、ただ足を速めて近づいた。その様子に男子たちはおののき、落ち着きなく動かしていた口を閉じ、そして取り囲んでいた女の子から一歩引き下がる。その結果出来たスペースに少女は割りこみ、女の子を庇うようにして立ちながら男子たちの方に顔を向け、言葉を放つ。
「あんた達、六年生にもなって男子三人で一人の女の子を寄ってたかっていじめて・・・。恥ずかしくないわけ?」
「うるせー。俺ら別にいじめてねーし」
「そうだそうだ。ただ楽しくお話ししようとしただけじゃんかよ」
「お前が口出すようなことじゃねーんだよ。引っ込んでろよ」
「一言言う度にいちいちピーキャーピーキャーうるさいわね。話してたって言うんなら、どうしてこの子は今泣いているのよ?」
「そんなん俺ら知らねーし」
「そうだそうだ。勝手に泣き出しちまったんだよ」
「俺ら泣き止ませようとしてたんだぜ。でも全然泣き止んでくれなくてさ」
「言い訳がましいわね!さっさと認めて反省して謝んなさいよ。・・そうしないなら、素直に口が利けるようになるまで痛め付けるわよ」
その言葉と同時に、少女は左拳を繰り出した。その拳は三人の真ん中にいた男子の鼻先で止まった。彼らの視線はさっきまでそこには無かったはずの少女の中指の背に吸い寄せられる。小学生の動体視力では捕らえられないスピードで放たれたジャブは幼少期からの男兄弟との喧嘩の賜物か、あるいは元持つ才能故か。いずれにせよその一撃は並の小学生の喧嘩で使われるソレとはいささか以上に異なっていた。
「まあ、その時には口利けなくなってるかもだけど」
付け足したような言葉は軽く、けれど聞いた誰もが怯んでしまう迫力を持っていた。むしろその口調の軽さが、少女がためらわずに拳を振るうことを強調していたとさえ思えた。
言葉と力、そして大義。
三つの要素において大幅に負けていた男子たちは冷や汗を少々かきながらも、それでもなんとか必死こいて余裕を取り繕い、そして
「この暴力女めっ!」
「覚えとけよなっ!」
「暴力至上主義者!」
三者三様、それぞれに捨て台詞を吐きながら廊下の方へと走って行った。最後まで噛ませ犬臭いというか、幼さが拭えていない。その様子が可愛いと思われるのは無理がある程度には、彼らは成長しすぎていたと言える。
「ちょっ、待ちなさいっ!」
呼び止めるために少女は叫んだ。まだ彼らは泣く女の子に謝っていなかったからだ。しかし、その声を男子たちはゲハハと笑いながらその声を無視した。
少女はその様子を見て溜め息をつき、頭を左右に振る。やれやれという感じを身体全体で表していた。男子という生き物はどうしてああも幼稚なままなのだろうか、という疑問の声が教室内の女子中に無音のまま駆け巡った。
「大丈夫だった、ゆりあ?」
女の子の方を振り返りながら少女は声をかける。ゆりあと呼ばれた女の子は潤んだ瞳を手でこすりながら、首をコクコクと縦に動かした。それから少女に寄りかかるようにして抱きつく。
「ありがとう、ゆりちゃん」
ゆりちゃんと呼ばれた少女の胸に包まれながら、そう呟いたゆりあの声は震えていた。
「ごめん、助かったよ百合子」
「あいつら、私たちが何言っても聞かないし」
「ごめんねゆりあちゃん。力になってあげられなくて」
ゆりあを抱き止めながら、背中をさすってあげているゆりちゃん、百合子に、状況の全容を知っているクラスメイト三人が寄ってきて申し訳なさそうに言った。
「いいよ。あいつらなまじ図体がでかいから怖い気持ちは私も少し分かるもん。結局悪いのはあいつらなんだから、私に謝んなくても大丈夫」
「私も・・すぐに・・泣いちゃうから。・・・それで・・・あの子たちも調子に乗っちゃって・・・」
百合子はフンと鼻を鳴らしながらそう返し、少し落ち着いて百合子の胸から離れたゆりあもまた、たどたどしい口調で言葉を返した。その後ニ、三言会話のキャッチボールを交わしてからもう一度「ごめんね」と告げて、三人は離れていった。残されたあとわずかな時間は、三人で過ごすようだった。
いつの間にか百合子とゆりあに向けていた視線のほとんどは無くなっていて、教室内の空気は弛緩していた。
友達との会話にヒソヒソと興じる者。
グラウンドで遊ぶ下級生をぼんやり見つめる者。
読書に夢中になっている者。
思い思いに時間を過ごすその空気はいつも通りのモノだった。
「あいつら、あとニヶ月ちょっとで中学生になるとは思えないわね、本当」
「ゆりちゃん、そんなに怒らないで。私はもう大丈夫だから」
怒りのツノを引っ込ませる気配なくプンスカとする百合子を落ち着いてきたゆりあがたしなめる。百合子は渋々怒りの矛をさげ、席についてから今朝のテレビで流れた芸能ニュースや、昨日の夜ドラの話をする。その顔には年相応に無邪気な笑顔があった。
まるで長年連れ添ってきた夫婦のような光景もまた、いつも通りのモノだった。
男子たちが女子―主に泣き虫なゆりあ―をからかい、その状況を聞いた百合子が駆け付け、男子たちを追い払う。その後泣き止んだゆりあが怒り続ける百合子を宥める。
これがこの小学校の日常。
つつがなく流れ行く毎日の一部。
平凡で騒がしく、剣呑な空気を孕みながらも着地点を持つ変わらない光景。
ただ、
その繰り返すような日常にもまた、
別れと出会いの春が訪れようとしていた。
半年前よりも確実に早く沈むようになった夕日が、世界の大部分を橙色に染め行く。雲に隠れることもなく、儚げな太陽は月とのバトンタッチに向けてその足を速めていた。電灯から長く延びる黒い影、首筋をなめながら吹き抜ける冷風、肌寒さと、胸に残るそれとは異なる種類の寒さ。
その全てを、この季節の夕暮れは演出していた。
そうして整えられた舞台に百合子とゆりあはいた。
「こんなことしてるって知ったら、ママ達悲しむのかな?」
「悲しむかは分かんないけど、驚くと思うよ。でも、私たちはとりあえず、今幸せ」
不安そうに呟く女の子に少女はそう言いながら微笑み、そして重ねるように顔を近づけた。女の子は躊躇うような様子を見せながら、しかし目をきゅっと瞑ってそれを受け入れた。
柔らかい感触が触れあい、そこから熱が生まれる。人を舞い上がらせるような、理性を吹き飛ばすような、幸せの上限を引き上げるような、そんな強烈な勢いが百合子とゆりあを襲う。何十回と繰り返してなお、その刺激は鮮烈だった。
それはキスと言うには拙く、またお子さま向けのモノではあった。
絡ませ合うわけでも、押し倒すほどに強く求め合うわけでもない、触れるだけの遠慮がちなキス。近づけあう度に呼吸を止め、離れた後にはしたなく息を乱した。
不器用で、幼稚で、子供っぽいキス。
それでも小学校六年生の二人にとってこの行為は背徳的で、頭をクラクラさせるには十分なものだった。
これだけはクラスメイトも親も知らない、小学校の外での二人だけの日常。
始めたのは二週間前。
きっかけは女の子と少女、それぞれの告白。
以来、二人は毎日のように学校からも家からも離れた場所にある公園の茂みの中で、こうして唇を重ねていた。
「そろそろ行かなくちゃ、もう日が沈みきっちゃう」
少女は木の近くに倒してあったランドセルを拾いながら言う。夕陽が沈む前にここを出なければ、家に帰るのは月が出てからだ。暗くなった世界は小学生のモノではない。早く家に帰らなければ、親からも色々と言われてしまう。
「待って!」
それら諸々を理解した上で、女の子は離れそうになったその手を掴んだ。指先に血が集うのを自覚し、熱くなった顔で地面と向き合う。それでも掠れるような声で、ねだる
「最後にもう一回だけ・・・しよ?」
わずかに震えた声。控えめに少女を見上げるその目は濡れていた。
潤んだ瞳で上目使い、二つの要素で掛け算された女の子の魅力は飛躍的に高まり、気づけば少女は三度目の口付けを交わしていた。
いつもより長く、そしてわずかに強くお互いの熱を押し付けあう。少し強張った背中を優しく撫でられ、女の子は目を閉じてしばしその心地よさに溺れる。
十秒にも満たない程の時間が流れた後、二人は顔を離した。顔を横にそむけて明後日の方向を見る。二人の顔は、夕日によって赤く染められた。
「・・・あんまり可愛いことしないでよ、ゆりちゃん。私だって、我慢してるんだから」
ゆりあが口に手を当てながら呟いた。手先が朱色に染まっているのは、夕日と寒さと、もうひとつの理由によるものだった。
「ごめん、でも・・したかった・・・から」
百合子はまた俯き、聞き取れるか怪しい程度の小さな声で話す。その様子、様相は教室で毅然とゆりあを守る百合子とはかけ離れたモノだった。
堂々としていて、力強くて、男子にも物怖じしない少女もまた、好きな子の前では可愛らしい女の子になる。
その相手が自分であるという事実に、ゆりあは全身を貫かれるような喜びを覚えた。強き少女と可愛い女の子。そのギャップに愛情が溢れてくる。トキメキが胸の中で暴れて、全身が衝動に駆られて行動しようとしていた。
目の前のいじらしい少女を抱き締めたい。
離さないように、離れないように、強く強く。
しかし、何とかというところで自制した。この一線を越えると戻ってこれないという警報が、ゆりあの中で鳴り響いていた。
「またそうやって可愛いことを・・・。ほら、早く行こう」
急かしながら先を歩くと「待ってよー」慌ててランドセルを拾った百合子がテテテと駆けてきて隣に並ぶ。エヘエヘと幸せそうに笑う顔に愛しさがまた込み上げてきて、ゆりあは自分の中のバランスが少し崩れたのを自覚した。
並んで歩くその手を軽く握る。フニフニと柔らかさと丸みを帯びた気持ちのいい感触。双方向に伝わる熱が心と脳を溶かしていった。
幸せだと、そう思える。好きな人がいて、その人も自分の事を好きでいてくれて、その単純な思い合いが幸福の意味を教えてくれる。
軽く握った手はいつの間にかぎゅっと強く結ばれていて、かきすぎた手汗をお互いの手で共有した。不思議と不快感を覚えず、むしろまた幸福を知る。
風が吹き、冷気が彼女たちの間を通り抜けた。一月末の空気はひんやりとしていて、結ばれた二人の手と、そこから溢れる熱を奪っていく。鳥肌が立つような、身体が芯から冷えていくような、そんな寒さが二人と世界を覆っていた。
けれども今は、今だけは、二人の女の子が放つ熱は静まらないのだった。
「少し・・・寒いね」
「暗くなるの、随分早くなっちっゃたからね」
「・・もっと早く言っておけば、伝えておけば、もっとずっと一緒にいれたのかな・・・」
「・・分かんないよ。でもそんなこと考えるよりも、二人の時間を大切にしよ」
「ゆりあ・・・。そうだね、うん!三月までに二人の思い出、一杯作ろう」
「うん、もっと一杯キスしたいし、もっと一杯手握ってたい。もっとゆりちゃんの熱を・・・ゆりちゃんを感じていたい」
「恥ずかしいこと言わないでよ・・。教室のゆりあと全然違う」
「ゆりちゃんだって全然違う。いつもは格好よくて、何て言うか・・凛々しいのに、私の前じゃこんなに可愛いなんて。可愛いゆりちゃんは、私だけが知っているもんね」
「止めてよ。可愛いって・・その・・嬉しいけど、恥ずかしいんだから・・・」
「ほら、また顔真っ赤。こういうところが可愛いんだよ、もう」
じゃれるように話しながら、二人は公園から家までの道を歩いていく。結ばれた手と手が二人の距離の近さを示していた。もう傾ききった夕焼けが最後の仕事を果たして、赤い照明が二人にだけ当てられていた。打って変わって月と街灯が照らす世界で、延びる影は切り絵のように繋がっていて、白と黒、光と闇が二人を型どっていた。
そんな道を歩き続け、家につくまでもう五分しないところでゆりあは呟くように切り出した。
「・・・ねぇ、ゆりちゃん。ゆりちゃんはさ、その・・怒ってる?」
「・・何に対して?」
「私が・・ゆりちゃんと別の中学に行っちゃうこと。近くの公立じゃなくて、私立の女子高に通うこと」
「・・怒ってない、って言ったら嘘になる。本当は同じ学校に通いたいし、毎日一緒に登校したい」
「やっぱりそう・・なんだ」
「当たり前でしょ!好きな人とは、ずっと一緒にいたいよ。ゆりあの隣には、私だけが立ってたい・・」
「・・・・・・ごめんね」
「謝らないでよ!ゆりあは悪くないんだし、それに・・・」
「それに?」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「それに・・・多分こんなことでもなかったら・・私は素直になれなかった。気持ちを・・伝えられなかった」
「・・・・・・・・・・・・」
「隣にゆりあがいないかもって、私以外の子がいつかはゆりあを守るのかもって、そう思って、そう考えて、不安になって、心配して、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「怖かったの、私ずっと。ゆりあが私の元から離れていくのが。でもそんなこと・・こんなこと言えるわけないから黙ってた・・。でもそしたら、ゆりあに私立行くって言われて・・」
「・・・・・・・・・・・・」
「だから言えた。私は、ゆりあを失いたくなかった。ゆりあが私の元から離れていくって分かったから、それが遠い未来の話じゃないって分かったから・・・言えた」
「ゆり・・・ちゃん」
「ハハハ、ごめんね、わがままで。でもやっぱり、私はゆりあのこと・・好きなんだ。大好きなんだ」
「それは私もそうだよ!」
「!?」
「ゆりちゃんばっかり言いたいこといってズルいよ!私にも色々言わせてよ!」
「ゆりあ・・」
「大好きもありがとうもごめんねも全部私の台詞だよ!それなのに・・・何でゆりちゃんばっかり・・」
ゆりあは自分の心が暴走したのを感じていた。顔に血液が流れ、カーッと熱くなっていく。手がつけられないじゃじゃ馬のように暴れていたのは、百合子の言葉が原因だった。
端的に言って気にくわなかったのだ。百合子の言葉が、態度が、表情が、まるでゆりあの百合子への気持ちを否定するように思えたのだった。
好き。
それは確かに、ゆりあの中から溢れてくる感情だった。
「ゆりちゃん!」
「はい?」
「キスしよう!」
「はい?!」
「ゆりちゃんは勘違いしてるよ。私はゆりちゃんに付き合って色々やってるわけじゃない。私がやりたいからやってるの。大体最初にも言ったでしょ、「私もゆりちゃんが好きだ」って。それでも疑ってるんでしょ」
「疑ってるわけじゃ・・。心配になっちゃうだけで」
「でもやっぱり心配になってる。だから、キスしよう。私の気持ちをゆりちゃんに伝えたいの。
「えっ、いや、でも、もう後ちょっとでお家着くよ。それに、ここなら学校の皆にも見られちゃうかも」
「関係ないよ。私は見られることより、ゆりちゃんに信じてもらえないことの方が怖い。ずっとずっと怖いよ」
「でも・・やっばり」
「もう、まどろっこしい!」
ゆりあはそう言い放ってから百合子の唇に自身の唇を押し付けた。稲妻が駆け抜けたような衝撃が身体に流れて、手先が少しビリビリする。百合子もまた、同じ快感に身体を包まれる。二人の幸せが世界に放出され、冬空の中に熱が混じる。
いつもより短い、けれど濃厚な口付けを終えて、顔を離した。月が見つめあう二人の影を実物以上に長く伸ばして、大きくなった二人が道に写る。
「・・これで・・・信じてくれる?」
「・・・・・・・・・うん、信じる。信じるよ。だって私は、ゆりあとのキス、気持ちいいって・・・そう思うから」
手を繋ぐ。指と指が絡まるように、恋人繋ぎをした。さっきまで口で味わっていた熱を手の平で感じる。その手にお互い、少し力を込めた。
離れぬように、離さぬように、
二人は寒空の下を、連れ添って歩くのだった。
「私の隣は・・空けておくね」
「うん、待ってて。必ず迎えに行くから」
少女は誓う。
終わりある現実で、
限りある世界で、
果てある未来で、
その幼き宣誓は、それでもなお、
確かに「永遠」を含んでいたのだった。
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