雲の多い夜

清水優輝

.

 塾の帰り、送迎バスから降りて家に入る前に空を見上げる。22時を過ぎた夜空は立派な三角形の脇にふたご座を描いている。それくらいしか星座は分からなかった。明るい星から、目を凝らしてやっと見える小さな星まで、自分の視力の限りすべてを見た。名前の知らない星々を見るのが日々の癒しだ。

 今日もマフラーに顔をうずめて空を見る。その日はあいにく天気が悪く、空はびっしりと重たい雲に覆われていた。気持ち悪く明るい。

 こんな日もある、と私は玄関に手をかける。

 キンッと頭の奥の方で甲高い音が鳴った。


「そこかしこに目に見えない手に触れられない星の粒子が飛んでいる。雲で隠れていても、あなたは星をそばに感じるはずよ」


 さらさらと長い髪の毛が風に流れる。懐かしい声色。爪が淡く光る。肩が白く薄い。透けて、背景が見えてしまいそう。蝋燭の炎のような青を体の輪郭にまとい、女性は私を呼び止めた。

 私は彼女を知っている気がする。目の前の玄関や、自宅が消え失せて、私は彼女と二人きり、雲の多い夜に取り残されてしまった。女性は誰にも似ていない。卵のような頬に手を添えたくなる。夜を閉じ込めたような美しい瞳に見つめられ、魅入られる。


 何百と、何千と私はあなたの周りを廻り続ける。花が枯れても、種子は芽吹き、また花を咲かす。何度も繰り返される生の営みを私は見続けている。あなたはいつか、母親から生まれる。そしてかつて病で死んだ。忘れてしまっても私は知っている。飢えの苦しみも、愛する人と出会った喜びも、すべてを見てきた。雲が多くて星が見えないことを当たり前に思わないで。誰かが目を覆っているの。そしてあなたの目に覆われたそれをあなたは取り除くことができる。目に見えない手に触れらない、それを無いとしない、あなたならすでに知っている。記憶の始まり、音もなく色もなく爆発した。点が線になり、何か意味を持つ形を持った絵が動く、ゆるゆると動く。そして全身に感じたものを脳に定着させようと躍起になる。すべての瞬間を覚えたかった、スポンジのように柔らかで貪欲な時代にあなたは出会っている。空中でぱちぱちと音を立てて弾く光、灼熱のマグマのような迸る情動、静寂に消えていく露の死、回転を止めない声の波。あなたは体感していた。  

 あなたは母親の腕に抱かれて、夜道を歩く。夜泣きが続き、途方に暮れて母親は目に隈を作って近所を歩いた。私はそんなときにあなたに出会った。あなたはまだ孤独だった。そして不幸だった。母親のことを誰とも知らず、子宮の温かなプールから地球に放り投げだされて、為す術がなかった。星の粒子をあなたのおでこに撫でたあと、あなたの髪の毛を潤した。月のない夜は星が元気に走り回るけれど、そんなの比じゃなかった。私たちはあなたを歓迎した。泣くのをやめたあなたは、空の、夜の、遠くを強く見据えた。言葉以前のあなたの世界はこうしてできたの。あなたは覚えていないみたい。


 だから、夜空が雲に覆われてもあなたは星をそばに感じるはずよ。


「ちょっと、お姉ちゃん何ぼーっとしてるの?」

 妹が携帯電話を片手に慌てて外に飛び出してきた。好きな男の子と電話でもするのだろうか。

 私は玄関の前でぼんやりとしていたらしい。体が冷えてしまっている。明日の宿題を早く終わらせて、眠りたい。眠って、また星に出会いたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雲の多い夜 清水優輝 @shimizu_yuuki7

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る