第2話 覚醒


意識が浮上する。夢から現実へ引き戻される感覚に、『眠りから覚めた』のだと感覚的なものでわかった。

少し眩しい光がまぶた越しに光り、重いまぶたを少しづつ開ける。


最初に入ってきたのは毒々しい色彩だった。いや、色彩と呼ぶのも躊躇する程の色に侵されている天井。そこには多彩なペンキが所狭しと塗られ───この場合、汚されていたと言う方が正解なのかもしれないが────ていた。


「お目覚めの様ですね。気分はどうですか?一応怪我は治療しておきましたが」

「……っ!」


覗き込んできた美青年に、思わず体を起こす。もう少しで頭と頭が衝突しそうになったが、済んでのところで相手側が かわしてくれた。


「頭突きをする程元気があるとは治療をした甲斐があったと言うものです」

「あ、えと……すいません」


ニコニコと笑いながら凄んでくる美青年に、情けなく謝ることしか出来ない。我ながら情けないな。


「あぁ、ただの嫌味です。気にしないでください。それより何かお飲みになりますか?生憎、水しかありませんが」

「あ……、ありがとうございます」


渡された水を警戒しながらも飲み干す。治療をしてくれるのなら少なくとも悪い人では無いはず……だと信じたい。


乾いた喉を水が癒す。ただの水だったが、疲労が溜まっていた身体に染み渡る。思わず目を瞑り、ため息が出てしまった。男性は呆れた様に鼻で笑う。


「そんな水を嬉しそうに飲む方は初めてです。余程疲れていた様ですね」

「……す、すいません。美味しい水をありがとうございました。えーと……」


なんて呼べばいいのか迷っていると、困っているとまるでこちらの考えを読んだかのごとく、話してくれた。


「申し遅れました、私の名前は 星 と申します。気軽に呼んで下さい」


星さんは軽く一礼をして顔を上げる。その顔は何度見ても眼が覚める様な、綺麗な美青年だった。整った顔に水色の長髪に紫の瞳。片眼鏡も相まって博識な印象を受ける。


「ご、ご丁寧にどうも」

「…………」

「…………」


気まずい沈黙が部屋を満たした。あまりの居心地の悪さに手元にある空のコップを軽くノックする。

星さんはしばらくして、しびれを切らしたかの様に淡々と言い出す。


「……あの、お名前を早く言って頂きたいのですが。会話をする上に置いて、お互いが名乗り合うのは礼儀ではないのですか?」

「え……、あぁ、はい」


なるほど、先程の沈黙は僕が名乗るのを待っていたという事なのか。やはり、空気を察するという事は難儀なものだな。

僕は、ふとそう思う自分にハッとした。


あれ……?やはり?


何か大きな事が思い出せない気がした。そこに大事な何かがあるのはわかるのに、手が届かない。まるで雲を掴む様な、霞がかかったボンヤリとしている"それ"。

僕は一体、何を忘れているのだろう。何か重要な事だった様な、そうでもない様な。

僕は星さんを思考の彼方へ飛ばし、一人考えふけってしまう。


時計の長針がどんどんと移動していく。部屋で唯一動く長針を視界の端に置きながら長く、長く考え込んでしまった。







「……あぁ、わかりました」

「はぁ……、やっと喋ってくれますか?」


考えがまとまり、ようやく答えを出せた。

しばらく固まっていた僕に、星さんが困惑と嫌悪の感情を表しながら首をかしげる。

それでも僕が熟思している時に無言で待っていてくれたのだ。お人好しと言うか、良い人ではありそうだ。

僕は手元にあった氷入りの水がカラン、と揺らす。


「……僕は、誰ですか?」

────結論から言うと、僕は"僕自身"の事を全て忘れていたのだ。長い熟孝のすえ答えがこれとは、星さんに土下座した後マグマに全身を沈めたい衝動にかられる。


星さんは動きを止め、片眉を上にピクリとだけ動かした。しかし凝視もしてくる為、少し、いや大分怖い。


「……なにも覚えていないのですか?」

「すみませんお恥ずかしながら……。名前も、過去も、年齢も……なにも思い出せないんです」


思い出せるかもしれない、と何分間か粘ったが、全くと言っていいほど無意味に終わってしまった。僕には全ての記憶がない。たった一つのその答えだけが熟孝の結果なのだ。全く情けない。


「……わかりました。少しお待ち下さい」


星さんはそう言い放つと席を立ち、この部屋唯一の扉を開ける。かなり錆びついているのか。開ける際にカラスの金切り声の様な、カエルが擦り切れた音の様な、奇声にも取れる音を扉が発した。

星さんは慣れているのか、不協和音には反応せず廊下らしき通路に出る。


それからの星さんの行動は不可解なものだった。両手を腰に当てて仁王立ちをし、鼻で息を大きく吸っている。それも後ろに仰け反りながらだ。一体何をしようとしているのだろう?

すると星さんは息を吸うのをやめ、怒鳴り散らす様に廊下に、いや建物全体に響き渡る様な声で叫んだ。


そらあおい!聞こえているでしょう!?さっさと来なさい!」


雷鳴の如き怒鳴り声に鼓膜がビリビリと震えるのがわかる。咄嗟に耳を抑えたが、耳奥に鈍痛を感じた。


しばらくしてコツコツと、硬いものを踏みつける音がこちらに近づいて来た。星さんは未だ廊下に居り、足音のする方向へ鋭い視線を送っている。


「あなた達二人が連れてきた子が記憶喪失で・し・た。さて……今正直に白状すれば、説教は短くしてあげましょう」

「あの子を見つけたのは宙だよぉ。僕は関係ないしぃ。て言うか、僕たちがやった前提って マジムカつくぅ〜」


星さんの声の後に響いたのは男の声だった。だけれどもまだ声変わりをしていない、男と言うよりも少年に近い声だ。特徴的な間延びした喋り方だな、と印象付けられた。

まだ廊下の先に居る様で、姿は見れず星さんの無表情の顔しか伺えない。


「まぁまぁ、そう怒るなよ。無事に目が覚めて良かったじゃねぇか。世の中生きてるだけで儲けもんだ」


ニシシ、と独特の笑い声が廊下に響く。この声は先程の少年の声とは違い、少し低めの心地よい声だった。


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少年神話 りゅう @ryuga911

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