少年神話

りゅう

第1話 全ての始まり


走る、走る、走る


傘も差さず、汚い濡れ雑巾の様な『』は がむしゃらに走っていた。叩きつける様な豪雨、足に絡みつく様な泥や砂は『』の行く手を邪魔している。空天を覆っている雲も墨色に近い鼠色で、不吉な事この上ない。


不意に『』は、足元にあった木の根に足を取られてしまう。走っていた威力を殺しきれず、『』を空中へ運び出してしまった。細い身体は宙を舞い、頭から雨水溜りへ着水──これは着水より突撃に近いが──してしまう。


のたうちまわる様に無様に転んだ身体は、勢いを未だに殺しきれず前方にある煉瓦の壁に全身でノックしてしまった。『』はうめき声をあげ、これまた地面に叩きつけられる。その間も豪雨は『』を嘲笑うが如く、降り注いでいた。


「……に、げな……いと」


口を開け、ヒュー、ヒューと呼吸と言っていいのか微妙な息継ぎをする。『』は棒切れに近い脚に鞭を打ち、ヨロヨロと再び走り出した。今の衝撃で折れたのか、足は向いてはいけない方向へ向いてしまっている。

それでも健気な、さながら濡れ鼠の様な『』は、涙と鼻水をダラダラと垂らしながら走った。


───死にたくない

その考えだけが『』の頭の中を支配していた。もう殆ど働かなくなった頭だが、【走りを止めたら死ぬ】という漠然とした真実だけは手放す事をしなかった。


「少年、大変そうだな。だが追ってきているアイツも雨の中迷っているらしいぞ」


横殴りの雨の中、その声は確かに聞こえた。あまり声を張っていないのに、妙に頭に入ってくる声。意識が朦朧としてきた頭にも、すぐに意味を伝え、情報を処理させる。重たい頭を上げ、視界を上部に広げた。

先程頭をぶつけた廃墟の屋根。といっても雨風を防げる様な立派な物ではなく、今にも強雨によって崩壊することを予感させる寂れた板に近い屋根。その上に彼は立っている。


彼を一言で言い表すなら『異形』だろう。フード、シャツ、ブーツと彼の着ているもの全てが黒だ。今にも背景の曇空に消えてしまいそうな危うい黒。存在感がある様でない初対面の男に、しばらく走る事を頭の外へ放ってしまった。無意識に開いた口の中に、雨水が入る。


「だが少年、逃げても無駄だ。どの道、君の運命は死の一択だと決まっている」

「……貴方は僕の敵対者ですか?」

「いいや、俺は君の味方でもなければ敵でもない。傍観者と言うものだ。言い換えれば野次馬でもあるが」


例えるならアリスインワンダーランドのチェシャ猫だ、と腕一面に彫られた黒の入墨に触れながら、彼は笑う。しかし作り物の様な貼り付けられた笑顔が薄気味悪い。その瞳には確かに『僕』を映しているはずだが、暗闇一色であった。


「追ってくるアイツから、君が逃げ切れる可能性は "ゼロ"だ。一ミリたりとも無いだろう」

「……それは」

「逃げきれたとして、此処ら一帯は森林。化物、獣物が昼夜問わず出る。君は間違いなく喰われる。これは警告では無く、宣言だ」


淡々と伝えられる絶望しかない未来に、頭の奥が急速に冷えていくのがわかった。それだけでは無い。身体をも冷たさが、寒さが襲う。雨風に長らく打たれたせいか体温が下がってきているのか。


「しかしそう驚くことではない。君が生まれた瞬間から、死ぬ事は確定していたはずだ。むしろ、いつ来るかわからない"死"に怯える必要が無くなったことを喜ぼうではないか」


ケタケタ、と独特の笑い方をする彼は癖なのだろう。また、腕の黒い入墨をさわり人形の様な笑みを浮かべる。


「……話はそれで終わりですか?生憎、僕は生きるのに忙しいのですが」

「……むぅ?」


彼はやっと貼りつけた笑み以外の表情を見せた。目を丸くし、『僕』を穴が開くほど凝視する。

『僕』は視界を廃墟の屋根から行き先もわからない近くの橋へ変えた。震える足を一歩、また一歩と前に進める。向こう岸が見えないほど橋は長いが、引き返す事はできない。


「なぜ生きる?これ以上逃げても君の運命は変わらない。アイツは必ず君を跡形もなく消す」

「……そんなもの、人生と同じじゃないですか」


ハァ、と息を吐くと寒さの為か白い息吹が空中に舞った。


「生物は必ず死ぬ。それは変わりようのない事実です。生物学上、永遠に生きるものなど存在しないのだから」


彼は屋根から地面は飛び降り、近寄ってきた。2階ほどの高さのはずだが、幻覚でも見え始めたか。

だが決して『僕』を助ける事はせず、ただ此方を見るだけだ。確かに傍観者とは言っていたが、肩ぐらい貸してほしいのが本音だ。


「貴方の言う通り、死に抵抗する事は無駄です。だけど動物と違い、人間には考える力がある。それ故求めてしまいます。自分の生の意味を、死の意味を」

「生死に意味などない。全ては偶然であり、必然的に、そして理不尽に起こる。そんな事わからないほど馬鹿ではないだろう」

「理解する事と、納得する事は違います。例えそうであっても僕はありもしないもう一つの答えを探し、死から抵抗し続けるでしょう」


言い終わると雨が止んでいることがわかった。曇空は変わらないし、再度降り出しそうだが少し身体が暖まった気がする。今の内に向こう岸へ渡らなければ。


「成る程な。君は『死ぬことが怖い』のではなく、『生きていたい』から死から逃げていたのか」


ふむふむ、と彼は再び気味の悪い笑顔を顔に貼りつけた。ニィ、と笑った口から鋭い八重歯がキラリと見える。


「まぁ、死を前にすれば人間は無力だがな」

「それでも愚直にみっともなく、抵抗するのが『僕』ですので」


嫌味の多い笑みに別れを告げ、僕は先程より少し軽くなった足で走り出す。すると背後から声が聞こえた。


「なら愚かなアリスへ、おせっかいなチェシャ猫から助けノアを出してやろう」


背中への軽い重圧と、浮遊感。足元を支えるものが無くなり、身体全体で重力を感じた時。




僕は橋から谷底へ、突き落とされたのだと気付いた。最後に見た彼の笑顔は、綺麗な程なまでに清々しい。


─────あぁ、名前聞いていなかったな。誰だったのだろう、彼は。


薄れゆく意識の中、それだけが心残りだった。

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