アラベスクとゴドフスキー

増田朋美

アラベスクとゴドフスキー

アラベスクとゴドフスキー

今日も、下村苑子さんと、浜島咲が、一生懸命お箏教室でお稽古をしていた。教室を移転させてからも、これまで通りスムーズに稽古が行われていたのだが。

「あ、そうか、今日はもうこの生徒さんで最後だったんだわ。」

と、苑子さんが言った。

そうだっけ、と、咲が時計を見ると、もう昼の十一時だった。

「あれれ、もう一人来るんじゃありませんか?」

と咲が言うと、

「もう来ないわよ。」

と苑子さんは言った。そんな馬鹿なと思ったけれど、あ、そうか、と思い直す。もう教室をこっちへ移転させてしまった以上、生徒さんは大幅に減ってしまって、もうこの時間には生徒さんは来ないのであった。

「そうか。なんだか寂しいですね。生徒さんが減ってしまって。」

と、咲はわざと明るい顔をして言ったのだが、

「それでは、あたしたちだって困るじゃない。たくさん生徒さんが来てくれるように、何とかしなきゃ。」

と、苑子さんは言った。確かに、邦楽の不人気は、誰もが認めることだ。其れは確かに、認めておかなければならない。

「ねえ、苑子さん。」

咲はちょっと考えて、こう発言した。

「あの、ちょっと提案なんですけど、演奏会をしたらどうかしら。もっとお箏という楽器が、気軽に弾けるんだっていうようにアピールするのよ。今の時代、どうしてもピアノとか、そういう物が音楽の定番になってるでしょ。だから、その曲をやって。」

「そうねえ、、、。昔、薫が生きていたころは、何でもやれたんだけどね。」

と、苑子さんは言った。咲は、それを思い出させてはいけないと思った。確かに薫さんが生きていたころは、作曲編曲は薫さんの仕事で、薫さんは、素晴らしい編曲者だった。ピアノ曲、テレビの曲、何でもお箏にしてくれた。でも、その薫さんはもう、お空に行ってしまったんだった。今、ここには彼の存在というものはないのだ。

「薫さんは居なくても、彼の作った曲は残っているんじゃないかしら。ほら、編曲した曲の原稿とか、原稿としなくても、音源が残っていて、それを書きとるとか、そういう事はないの?」

と、咲は、苑子さんを鼓舞するつもりでそういうことを言った。一度薫さんの事を話し出すと、苑子さんは、落ち込んだまま止まらなくなってしまう。お母さんであれば仕方ない事ではあるけれど、咲はその落ち込み方が少々じれったく感じてしまうのも確かだった。

「ほら、あたしだってちょっとは、曲もってるわ。確か、ベートーベンのソナタ悲愴とか、薫さん、よく編曲してくれたじゃない。あれだって、有名な曲なんだし、きっととっついてきてくれるはずよ。あれだけ書いていれば、出版の話だって、何度かあったじゃないの?」

「ええ、出版の話は確かに何度かあったけど、でも、そうするには、師匠の野村先生の許可が必要で。ほら、あたしはただの師範に過ぎないし、いくら分派したと言っても、まだ、野村先生の一門には、籍を置いていたし、、、。」

苑子さんはそういうことをいう。これが邦楽と洋楽の明らかな違いである。洋楽では、独立すれば、何をやってもいいという事になり、先生からの縛りは比較的弱いのだが、邦楽では、先生が厳しい目で生徒を見つめていることが多い。

「どうして、そういう事をする時だけ、先生の名前が出てくるのよ、苑子さん。」

と、咲は言うが、苑子さんは暗い顔をしたまま、

「いいえ、邦楽は、余り勝手なことを仕手しまうと、後で大きなお咎めが来るのよ。普段は自由にやっていても、いざとなったら、そういうことを考えなければいけないのが邦楽で、、、。」

というのだった。それで、薫さんの作品を出版したいのに出来ないとなったら、ちょっと困った話だった。だからこそ、苑子さんは、そういう重圧を避けるため、薫さんを箏の形をしても、家元制度のない、古筝を習わせたのだ。

「其れなのに、薫ときたら、お母さんの教室手伝いたいからって言って、自ら、飛んで火に居る夏の虫とでもいうのかしら、あたしに曲作って、教室運営に使ってくれなんて言い出して。」

と、苑子さんはそういった。まるで、薫さんを悪く言うような口ぶりだが、本当はそうではないことを、咲もよく知っている。

「でも、しょうがないじゃない。薫さんは、体が悪くなって、独立してお教室を開くこともできなかったんだし。それよりも、薫さんの編曲した曲、幾つかピックアップして、演奏会しましょうよ。きっと、楽しい曲が一杯よ。そうすればお箏だって、こんなに楽しいってことが、わかるじゃないの。」

咲は、そういって苑子さんを励ました。苑子さんも、そうねえと考えなおしてくれたらしい。

「じゃあ、家に帰って、薫の書いた曲を、リストアップしてみるわ。」

と、やっと苑子さんは、やる気を出してくれた。薫さんの書いた曲は、咲も幾つか吹いたことがあるが、薫さんは多作家で、いろんなピアノ曲を編曲していたことは、しっかり知っている。

「きっと数えきれないほどの作品が出てくるわね。」

と、咲はそういって、にこやかに笑った。

「じゃあ、明日、お稽古が終わったら、打ち合わせしましょうか。」

苑子さんは、にこやかに言った。

翌日。

「昨日、薫が書いた曲をリストアップしてきたの。あの子、機械に弱かったから、全部手描きで譜面を書いていたわ。几帳面に譜面を専用の引き出しに入れてた。そのタイトルを、紙にまとめたの。」

と、苑子さんは、レポート用紙を咲に見せた。咲もその文面を受け取って、そのタイトルを見る。

「すごいじゃない。子供さんのソナチネから、テレビテーマまで書いたんだ。でも、これは。」

と、咲は一度言葉を切る。

「これ、みんな古い曲ばかりだわ。そうじゃなくて、もうちょっと、新しいのが欲しいのよ。」

確かに、リストには、クーラウのソナチネとか、ベートーベンのソナタとか、ブラームスの小品とか、そういう曲が中心になっている。親しみやすい映画音楽なども掲載されているのだが、太陽がいっぱいとか、喜びも悲しみもいく年月とか、そういう古い映画ばかりで、新しいのが何一つないのである。

「新しい、か、、、。」

まあ確かに、著作権の関係もあり、古い音楽ばかり掲載されていたのだろうが、確かにリストに乗っている音楽は、お年寄りばかりが好みそうなものであった。

「そうじゃなくて、もっと斬新なもの、クラシックでも、若い人に知られているような曲をやるのよ。」

「そんなものあるかしら。」

と、苑子さんは言っているが、咲は目を皿のようにしてリストを見つめて、一生懸命曲を探し、

「あった!」

といった。

「これ、これがいいわ。ドビュッシーのアラベスク。ドビュッシーなら、癒し系として、若い人でも知っているはず。」

咲は、急いでその文字を指さす。確かにドビュッシーのアラベスク、第一番、第二番と書いてあった。

「でも編成が足りないわ。箏、ピアノと書いてある。ここにピアノを弾ける人いる?あなたはフルートでしょ?」

と、苑子さんが言った。確かに、咲はフルート奏者であって、ピアニストではない。それでは、曲として成り立たなくなってしまう。

「誰か咲さんの周りにピアノを弾ける人いる?私たちの活動に協力してくれそうな人でなければだめよ。」

確かに、箏というと、洋楽家であっても協力してくれる人は限られているのに気が付いた。邦楽は、余り集客力のない音楽なので、協力したくないと言ってくるピアニストが大半であるからだ。それに、邦楽に協力すると、ピアニストとしても、活動範囲が狭くなってしまう可能性がある。確か、ずいぶん大昔だが、オペラを指揮していたコンダクターが、邦楽の合奏団の指揮者となってしまった際、洋楽界から追放されてしまったという話を、咲は学生時代に聞いたことがあった。

「ピアニストを探すにも、難しそうだわ。あたしも、少し、探してみるけど。でも、今大っぴらに活動している人は、ちょっと難しいと思うわよ。」

咲も、とりあえず身近にいるピアニストの顔を思い浮かべながら言った。

「じゃあ、頼むわね。咲さん。あたしは、洋楽関係に全く人脈がないものだから。」

確かに苑子さんの言う通り、邦楽家が洋楽家と交流を持つことは非常に少ない。これは確かだ。今まで敵対同士だったジャンルが、交流を持つことはないだろう。

「よし、わかった。あたしが、ちゃんと、有能なピアニストを探してきます。」

咲は、しっかりと決断した。

お稽古が全部終わると、咲は、バスとタクシーを乗り継いで製鉄所に行った。製鉄所は、また利用者が何人かいて、今日学校や会社であったこととか、話していた。

「ごめんください。」

と、咲は、玄関の戸を開けた。

「あ、浜島さん。」

ちょうど、玄関を掃除していた利用者が、咲に声をかけた。

「あの、右城君いますか。」

と、咲は言うと、

「いますけど、今寝ています。あんまり近づかないほうが。」

と利用者は言う。またいつもの事かと思った咲は、起こせば大丈夫だろうと思って、一寸中へ入らせてくれと頼んだ。浜島さんは、言い出したら聞かないからと、利用者は咲をとおしてやった。

とりあえず、咲は四畳半に行った。それを邪魔するものは誰もいなかった。そこまではよかったと思うのだが、、、。ふすまの前に立ってちょっと溜息をついて、よし、と、いきり立ってふすま開ける。

「いたいた。」

水穂さんは、しずかにあおむけに寝ていた。

「ねえ、右城君。」

咲は静かに枕元に座った。

「右城君、起きて。ねえ、おきて。お願い。大事な話があるのよ。」

そういって、そっと水穂さんの肩を叩いてみるが、目を覚ましてはくれなかった。

「右城君、起きて!ねえ、起きて!おきてよ!」

ちょっと水穂さんの肩をゆすってみると、水穂さんはうっすらと目を開けて、

「浜島さん。」

と細い声でいった。

「ねえちょっと聞いてほしいことがあるの。あなたが弾けないなら、誰か別の人でもいいわ、有能なピアニスト、、、。」

とまで言いかけたが、その同時にピシャンとふすまを開ける音がして、由紀子が四畳半に飛び込んできた。その顔は、また来たなという怒りの顔だった。

「ちょっと浜島さん!この人を動かそうなんて無理な話はしないでもらえないかしら!」

由紀子にそう言われて、咲も思わずかっとなる。

「そんな!あたしは、ただ、聞きたいことがあってこさせてもらっただけなのに!」

そういうと由紀子も、また逆上したようで、

「さっきやっと発作が治まって、眠ってくれたところだったのに、また負担をかけるようなことはしないで!」

と、言った。咲が思わず、え、そうなの右城君というと、水穂は返事の代わりに咳をした。

「ああ、もう!浜島さんのせいよ。浜島さんが余計なことをいうから!」

由紀子は急いで水穂さんの体を抱え起こし、口元にタオルをあてがってやっている。

「びっくりしたね、ごめんね。」

そういう由紀子は、どこか保護者のように見えてしまうほど、シッカリしていた。こうなると、咲も何も言えなかった。有能な人を探してくるなんて、苑子さんの前でかっこつけて言うべきではなかったと後悔する。

やがて、由紀子のあてがったタオルが赤く染まると、咲はもう帰った方がいいなと考え直した。

「ごめんなさい。」

取り合えずそういって、咲はしぶしぶ製鉄所を後にする。

「あーあ。これじゃあ、誰か演奏家を紹介してもらおうと思ったけど、何も見つからないな。」

と、咲は、道路を歩きながら、そんなことを呟いたのであった。

「どうしたらいいんだろう。苑子さんがっかりさせたくないし。」

答えが見つからなくて、咲は困ってしまう。

「其れより、、、。」

腹が減っては戦は出来ないというのはこのことだ。其れよりも、なにか食べたいという気持ちに負けてしまう。それでは、誰かを探してこようなんて、無理な話である。

「とりあえず、喫茶店かどこかで食べなくちゃ。」

咲は、とりあえず、その店を探しに行く。と言っても、咲が好むような、おしゃれなカフェというものはどこにもなかった。やっぱり富士市は、田舎だなあと、思い直す。以前住んでいた相模原も田舎だったけれど、駅の近くに住んでいれば、大きな百貨店もあったし、レストランも、カフェもあったし、コンサートホールだって駅近くにあった。富士にはそれがない。

ちょっと、歩いていくと、ラーメンスープの匂いがした。匂いにつられて歩いていくと、「いしゅめいるラーメン」と書かれた看板があった。ラーメンというと、おじさんたちの食べるものだろうなと思われたが、ラーメンでも、食べたいという気持ちに負けてしまって、とりあえず、そのラーメン屋の、中に入る。

店の中は、誰も客はいなかった。ちょっと勝気な顔をしたおばさんが、咲の顔を見ると、

「ちょっとあんた、お客さんだよ。」

と、厨房に向かって言う。すると、日本人でも無ければ、ヨーロッパ人でもなさそうな、どこの国の人だかわからない、でも、外国人であることは分かる、中年のおじさんが、厨房から出てきた。

「はい、いらっしゃいませ。」

と、いう発音は不明瞭で、何処の国の訛りなのか、判断はつかなかった。

「とりあえず、すきなところに座って頂戴な。」

それが、すきなところに座ってくれという意図だったのに気が付くのには、数秒かかった。隣にいたおばさんが、お好きなお席にどうぞ、と言ってくれなかったら、座れなかったかもしれない。取り合えず、小さなテーブル席に座る。おばさんが、メニューを持ってきてくれたのだが、内容はほかのラーメン屋と変わらない味噌ラーメンとか、醤油ラーメンとか、そういう事を書いてあったので、ちょっとほっとする。

「それでは、ここに書いてある、醤油ラーメンでもお願いしようかしら。」

「はい。わかったよ。了解了解。」

その変な顔のおじさんは、そういって、厨房に戻っていった。なんだかおかしなラーメン屋だなと思いながら、咲は一つ溜息をついた。

ふと、店の中を見渡すと、店の奥に小さな戸棚があることに気が付いた。ラーメン屋だから、漫画とか、そういう物が置いてあるのかなあと思ったら、そうではない。心を病んだ人のためのサークルのメンバー募集とか、赤ちゃんのいる人たちが、子育てについて話し合うサークルのメンバー募集などのチラシが大量に置かれている。何だか訳ありの人たちのための、サークルばかりで、このお店は、そういう人のためのお店なのかと思われた。咲が、そのチラシをいくつかとってみて、内容を読んでみると、最後の一枚のチラシに、

「ピアノサークル、教室のメンバー募集のお知らせ。」

と、いう文字が飛び込んできたので、思わず目を見張る。

「世知辛い時代だと言われる今日ですが、音楽で心を癒してみませんか。音楽は、人種、身分を問わず楽器さえあればだれでも始められます。このサークル、教室は寒々しい世の中で、つらい生活をしている方々が、少しでも音楽をとおして楽になってもらうために、立ち上げました。ピアノを始めるにあたって、キャリアも何も必要ではありません。どうぞ、お気軽に、申し込んでください。」

と、咲は声に出して読んだ。

「あら、僕が通っているピアノ教室に興味があるのかな。」

ラーメンを持ってきた、あの外国人の店主が、そんなことをいった。

「いや、ちょっと訳がありまして。」

と、咲がそう返すと、優しそうな顔をしたおばさんが、

「あら、わけって、どんな訳があるんですか?」

と、聞いた。

「あたしの個人的な訳ですから、ラーメン屋さんの店長さんに、言えるわけではないです。」

と、咲は言ったが、店主さんは、どうせほかの客も来るわけではないし、話てもいいんじゃないかと言った。こういうところが、日本人と外国人の違いなのかなあと思う。

「まあ、こういう事なんです。あたし、フルートと箏の教室に勤めているんですが、ちょっと演奏会をやりたいんだけど、出演してくれる人がいなくて。」

とりあえず正直に言うしかないと思った。

「まあ、そうなのね。そうなると、出演するとなれば、優秀な音楽学校でも出た人じゃないとだめだよね。」

と、店主さんが言った。

「僕の先生は、音楽学校を出たわけじゃないからな。」

「でも、いいんじゃない?あんただって、先生のおかげで、ソナチネまで弾けるようになっちゃったんだし。もうね、楽譜の事なんて何にもわからないと言ってた人が、たったの数か月でソナチネまで弾けるようになったのよ。優秀な先生よねえ。たしか、優秀指導者賞なんてものをもらったのよね。偉い大学を出ている人より、よっぽど偉いわよ。」

と、おばさんがそんなことをいうので、咲はここで若しかしたら、ものすごい人材を得られたかもしれないぞ!と、直感的に思った。

「ちょっと、その人について教えてもらえないでしょうか。そうやって指導がうまい先生だったら、演奏だってうまいでしょう?」

「演奏、うまいかな。」

と、店主さんは、口をつぐんだ。

「うまいかは、別の話じゃないかな。いくら優秀指導者賞をもらっても、演奏はうまい人はいっぱいいるからって、先生は言ってた。」

「でも、賞をもらうなんてすごいじゃないですか。ぜひ、あたしたちの演奏会に助演として入ってもらえないかしら。」

咲がそういうと、店主さんは、ちょっと趣旨が違うぞという顔をする。

「そのサークルの紹介文のとおりちょっと、世の中をつらいと思っている人たちが、ピアノをとおして癒してもらうための教室だからね。」

そうか、、、。そうなるとやっぱり駄目か。

「でも、世の中がつらいという人は本当に多いよね。みんな、嫌なことばっかりだから、いやそうな顔してるけどさあ。サークルで集まると、それがどっか行っちゃってさあ、みんな楽しそうな顔をする。音楽ってのは、そういうもんじゃないのかな。人に見せるためのモノじゃないような気がするんだよ。」

それを聞いて、咲はハッとした。そうだよな。確かに世の中、つらくて仕方ないという人ばかりだ。それを少しでも忘れたくて、皆音楽教室とか、そういうところに通っているのだ。

「だから、そういうことを打ち出していくのが、一番大切なんじゃないの。僕たちのラーメン屋に来てくれるのだって、そういう事でもあるからね。」

店主さんは、そういって、早くラーメンを食べてくれるように促した。あ、そうか、ラーメン伸びちゃうわね。と咲は急いでラーメンを口にする。大変太い麺で、ラーメンというより、黄色いさぬきうどんという方が、表現として適切だとおもうのだが、そのスープの味は、しっかりしていて、もっちりした麺と実によくあった。

「そうか。あたしも、そういう事をちゃんと見極めておかなきゃいけないわ。」

と、咲は一言呟く。

「音楽もそういう物にしていかなくちゃ、いけないわね。」

咲は、そこに気が付いてよかったと思った。なぜか、それに気が付いたら、ちょっと気持ちが楽になった気がした。

「そうよね。あたしは、音楽をとおして、人前でかっこつけようとしているわけじゃないわ。音楽はそのためにあるものじゃないから。」

たぶん、苑子さんもそれを言ったら、考え直してくれるだろう。音楽は、カッコいいところを見せるためにあるものではない。

「きっと、右城君もそういう所に気が付いてくれたら、変わってくれるんじゃないかと思うわ。」

と、咲はそういうことを思いついた。それを思いつくと、また何かしようと思いつく。

「よおし、そうしよう。あたし、決めた。もう一回、右城君に言ってみよう。」

咲は勢いよく、黄色いさぬきうどんにぱくついた。そして、勢いよくスープをがぶ飲みして、おばさんが持ってきた伝票をもって、入り口近くのレジへ行く。

「はい、880円ね。」

とおばさんが言うので、咲は、千円札を渡して、おばさんからおつりをもらい、にこやかに店を後にした。


その翌日をまつのもじれったいので、咲はまた方向転換して、タクシーを拾い、製鉄所まで送ってくれと頼んだ。製鉄所にたどり着くと、もう真っ暗になっていた。

「ごめんください。もう一つだけ、右城君に伝言したいことがあるの。入らせてもらえないかしら。」

咲は、そういって、玄関の戸をガラガラと開ける。ちょうど出てきたのは、運の悪いことに由紀子であった。

「由紀子さん。もう一回右城君に会わせてもらえない?もう一回伝えたいことがあるのよ。」

と、なるべく重い内容と感じさせないように、咲は言った。

「じゃあ、一度だけよ。負担になるようなことをしたら、許さないから。」

と、由紀子は、咲の言葉にうまく乗ってくれたようで、咲を中へ入れてくれた。ようし、第一関門は突破だ!と喜び勇んで咲は、四畳半まで走っていく。

ふすまを開けると、水穂さんはやっぱり眠っていた。

「右城君、お願い。もう一度だけ話を聞いて頂戴。お願いがあるの。」

咲は、水穂さんの枕元に座り、肩に手をかけて体を揺さぶった。今度はすぐ目を覚ましてくれた。

「右城君。さっきはごめんね。もう一度聞いてほしいの。あのね、あたしたち、つらい思いをしている人たちに、お箏とかフルートをとおして、癒してもらう活動をしたいと思っているの。だから、右城君も、あたしたちの仲間になってよ。そのためにも、早く、体を治して!ね!」

咲は、これを言えば、水穂さんも喜んでくれるだろうかと期待していたのが、水穂さんは、返事をしなかった。その代わり、ひどく驚いたような顔をした。それは咲も予想していなかったので、びっくりしてしまう。

「右城君、自分があたしたちのために、必要とされてると思ったら、うれしくないの?」

そういう咲であるが、水穂さんは、全く嬉しそうな様子ではないのだった。

「だって右城君、あたしたちの教室でさ、ぜひピアニストとして参加して頂戴よ。あたしたちの使用している曲だって、ピアノが必要になる曲は本当にたくさんあるんだし、右城君だったら、簡単な曲は直ぐに弾けちゃうんじゃないの?だから、やってよ。あたしたちは、ピアノの先生が来てくれれば、

またお箏の教室として、いろんな人に楽しい時間を提供できるわ。」

水穂は、ちょっと悲しそうな顔をして、頭を垂れる。

「なんで?嬉しくないの?だって、これからも、やっていける見込みができたんだら、体を治そうとする、気力も出てくるんじゃないの?」

「いえ、浜島さん、体はいくら良くなっても、身分というものは消すことはできませんよ。」

水穂はやっとそれだけ口に出してくれた。

「もう、身分を隠すために、大曲ばかり弾くことを強いられる生活は、したくありません。」

なんで、、、。

なんでそうなるんだろう。咲もがっかりしてしまう。

「どうしてそうなるの?」

思わずそう聞いてしまった。

「だって、そういうものだからですよ。もともと音楽をやってはいけない身分の人間が、音楽をやろうとしたら、こういう体になるしか、末路はないんですよ。」

そういう水穂さんは、なにか辛そうだった。咲は本当にもう、と、思わず目を宙に浮かせるが、その眼の中に、本箱が入ってきて、その本箱の中には、レオポルト・ゴドフスキーという名前が書かれている本ばかりなのが目に見えた。

「だって、右城君は、世界一難しいピアノ曲と言われる作曲家の作品を、あんなに一杯持っているじゃないの。」

「そうなんですけどね。」

水穂は、言葉に詰まった。

「あれが弾けちゃうんだから、あたしたちが弾く曲何て軽々でしょ。それをしてくれればそれでいいの。」

「いえ、そうしなきゃ。」

と、咲の意見に水穂はちょっと強く言った。

「そうしなきゃ、僕たちみたいな身分の人は、生きていけなかったんです。」

確かに、ゴドフスキーという作曲者の作品は、険しい難易度を持っていることで有名である。世界でも、作品を録音した人は、3名しかいないともいわれている。だから咲も、水穂さんには、そこをもうちょっと強調してもらえれば、また有名になれるのではないかと思うのだが。

「いえ、もう結構です。ゴドフスキーを連日連日弾くことを強いられる生活は、したくありません。」

水穂さんはそういった。

「違うわよ。あたしたちは、お箏教室に参加してもらいたいと思っているんだけどな。」

と咲は言ったが、その言葉が通じたかどうかは不詳だった。というのは、返事の代わりにせき込む音が聞こえてきたからである。

「浜島さんも、もうそこまでにして頂戴!これ以上たいへんな思いはさせないで!」

ああ、また邪魔が入ってきてしまったか。どうしてこういうタイミングが悪いときに、由紀子さんがやってくるんだろう。

案の定、ふすまがピシャンと開いて、由紀子が飛び込んできたのだった。

「どうしてそういうこと言うの!もう水穂さんはここで安静にさせてあげてよ。もう音楽の世界にいさせたら、水穂さんの寿命を縮めることになるのよ!」

と、由紀子は、水穂さんの体を抱え起こし、一生懸命背をさすって、口元にタオルをあてがうなど、また世話を焼くのだった。どうしてこうなってしまうんだろうと咲は思いながら、その有様を見ていた。結局、みんな事情があって、あたしたちのプロジェクトには、関心なんか持ってくれないか。そういう事か。

と、咲は思った。

「仕方ないわね。あたし、また何とかするしかないか。」

そう溜息をついて、改めて音楽に対するいろんな思いというものがあるんだなと、咲は考えるのである。

でも、人生って、なんのためにあるんだろ。

水穂さんにとっては、こういう風に世話をしてもらうことで、人並みの幸せというものを得られるのだろうか。

という事は、音楽は、水穂さんにとって、幸せを与えてくれるツールではなかったのか。

咲の目に、「ショパンの主題による練習曲」というタイトルが飛び込んできた。世界一難しいというこの練習曲を、ゴドフスキーは誰のために作曲したのだろうか。

改めて音楽の在り方を考えさせられた咲だった。












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アラベスクとゴドフスキー 増田朋美 @masubuchi4996

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