第32話
「……っ」
鳴っているのは私のスマホだった。メールじゃなくて、電話の着信だ。
だけど、今ここで電話を取っていいのか……そのことでクズの機嫌を損ねたりしないかが分からなくて、スマホを取り出すこともできない。
着信音は一度止み、だけどすぐにまた電話がかかってくる。
「……うっせえな」
不意にクズがボソリと言った。その声に急き立てられるようにして、私は慌ててスマホを取り出す。
まだ震えの残る指で、画面をフリックして通話にする。
「……もしもし」
『あ、芳野さん?』
電話の主は……イケメンだった。
『あ、ついさっきあんなことあった直後に電話しちゃったけど、一回無視されたけど、でもこれこのまま話してもいい感じ?』
「……」
『あっれー、だんまり? だんまり決め込んじゃう? ってこれ通話になってるよね大丈夫だよね』
少し声が遠くなる。通話が繋がってるかどうか、目を話して確認したんだろう。
『うん、通話になってるね。ってか、あれだね、すっげー俺、長々とどうでもいい話しちゃってるっていうか、我ながらちょっとそれが笑える感じ。ははっ』
「……」
『って反応ないなほんとに。んー、芳野さんちゃんと聞いてんのかなこれ。あ、でもさっきもしもしって聞こえたし、じゃあ芳野さんが聞いてくれてるってことで話すことにしよっと!』
あいつは、ぶれないんだな。
さっきあんなことがあって、気まずい空気で終わって……なのにすぐに気持ちを切り替えてしまえるなんて。お前のほうがよほど私より強いんじゃないか。
『えっとですね。俺、楠木勇一は、なにげに結構衝撃なわけですよ。女の子に振られるなんて人生で味わうとは思ってもなかったし、芳野さんにあそこまでボロクソ言われるなんてね、ほんとま~、予想外なわけですよ』
「…………」
『だけど芳野さんに言われて、まあ俺も色々ちょっと考えてみまして。で、やっぱ、芳野さんは強いんじゃないかなって思うんだよね、俺。芳野さんは自分で否定してたけど、でも、芳野さんは強い! これは、俺、断言しちゃう』
なんで、断言できるんだよ。
私は今、こんなに弱くて情けないのに、なんでお前がそこまで言えるんだよ。
『いやね、ここは勘違いしてほしくないんだけど、芳野さんがマジで鉄人で鋼の心持ってて傷ついたりとかしない人間だなんて、俺思ってないからね。むしろ、すげー傷ついたり苦しんだり悩んだりしてるんだろうなって。だって、芳野さんの、繋がってる方の父親への態度とか見てると、そんなことねーっての分かるもん。怖くて怯えて、震えてた芳野さんのことを俺、知ってるもん』
そうだよ。
怖がりだよ。臆病者だよ。そんな、弱い人間なんだよ、私なんて。
『けどさ。芳野さんは、そうやって、向き合おうとしてるよな。逃げちゃいけないことから、本当に逃げ出したりはしないよな。どんなに苦しくったって、自分の苦しいことから目を逸らしたりとかしないもんな』
なんでそんなの分かるんだよ。
『だから、俺と、友達になってくれたんだよな』
「あ……」
『芳野さんのトラウマ、俺が刺激するような人間だってこと、なんとなく分かるよ。だから最初、俺のこと嫌ってたの、分かるよ。……それでも俺と向き合ってくれたの、知ってるよ』
だから、とイケメンは続けた。
『だから。そんな、芳野さんは強いと思うんだよね。心は弱くても、意志が弱くても、たとえば傷ついたり苦しんだり悩んだりとかしても、最後にはちゃんと向き合える、俺と向き合ってくれた芳野さんは、めちゃくちゃ強いと思うんだよ』
「…………」
『傷つかない、苦しまない、悩んだり悲しんだりしない、鋼の心を持ってる人間なんかよりも、芳野さんのほうが百倍強いと思うんだよ』
私は……。
私は、こいつにそう思われていたのか。
『だから、まあ、それだけ。芳野さんに言いたいのは、それだけ。言わせてくれてありがとね! じゃ、また週明けに学校で!』
最後に明るくそう言って、イケメンは電話を切った。
私はスマホを耳に当てたまま、呆然と立ちすくむ。
イケメンは私を強いと言った。鋼の心を持ってなんかいない私のことを、強いと断言してくれた。
……私のことを、ちゃんと見ていた。理想の誰かを私に重ねてはいたかもしれないけど、でも、私自身のことだってちゃんと見てくれていた。
そのことに気づかなかった私はバカだ。そんなことを考えもしなかった私はバカだ。
こんなに、あいつは、ちゃんと私のことを見てくれていたってのに。
「お、電話、終わったのか?」
タバコを吸い終えたクズが目を向けてくる。そのどろりとした瞳は、イケメンの穏やかなあれとはまるで違う。
心に意志が通う。手に足に全身に血潮が通う。クズへと向ける瞳には――決意がみなぎっている。
キッときつくクズを睨むと、クズは不愉快げに眉を顰めた。
「なんだ、その目は。父親に生意気なツラ見せんじゃねーよ。鬱陶しい」
そんなこと言われても、今の私は多分心がボーナスステージに上がってる。いつもならグサグサと刺さる言葉にも、全然堪えたりしない。
――柔道を始めたのもお父さんがやってたからなんだね。
お前はそう言ったよな。ああ、そうだよ。確かに私は、父さんの背中を見て柔道を始めたさ。
でも、本当は違ったんだ。思い出したんだ。この時ために、私は自分を磨いてきた。
「それはこっちのセリフだよ。鬱陶しいんだよ、このクズ」
「あ? クズだよ?」
「クズじゃんか。自分でろくに稼げないくせに女にたかって、情けなすぎだろマジでダサい。全然男らしくない」
これまで言えなかった、言いたくても口にできなかったことをぶちまける。
だって笑っちゃうだろ。このクズ、ノブより全然小さくて細くて弱いんだ。それこそ、ビビっていたのがバカバカしくなるぐらい。
「チッ……」
苛立たしげにクズが舌打ちをする。
「親にんなこと言うなんざどういう教育受けてんだっつーの」
「はあ? お前こそどの面下げて親とか言ってんの? バカでしょ」
「……黙れよ。それ以上言ったらどうなるか分かってんだろうな」
ギロリとクズが睨みつけてくる。
……バーカ。その程度の睨みでビビるほど、武道家は甘くないっつの。
私はニヤリと口はしを上げ、立てた親指を地面に向けてやる。
「あんたこそさっさと立ち去りな。うちの周りをうろちょろすんな……目障りなんだよ」
「……このっ」
クズが近づいてきて腕を振りかぶる。
……ほんとは、まだ私の膝は少し震えている。心は恐怖を覚えてる。意識が抵抗を封じ込める。
でも、意志は暴力に屈さない。
だって私は、柔道を始めた時に決めたんだ。もう守られてばかりじゃない。今度は私が守るんだって。私の思う私の大切な人を、暴力や理不尽から守る力を手に入れてみせるんだって。
そんなあの日の決意を思い出させてくれたイケメンに、心の中で感謝を捧げる。捧げながら、振り下ろされたクズの腕を取る。
「っ!?」
「そんな攻撃、ぬるいんだよ!」
驚愕に染まる表情を浮かべるクズに、追撃を重ねる。
手首を掴んだクズの右腕。それを抱きかかえるようにして潜り込み、腰を大きく跳ね上げる。
浮いたクズの体が綺麗な円弧を宙空に描く。重力から解放された体が、しかし地球に掴まれて背中から地面に叩きつけられる。
「ひぶぅっ」
汚い悲鳴をクズが上げた。
「く、クソ……この」
「口を閉じろよ雑魚野郎。そしてさっさと消え失せろ」
さもなくば、と痛みに呻くクズを見下ろし、ふっと冷酷に笑ってみせた。
「もう一回空を飛ぶ羽目になるぞ?」
ただでさえ苦しげだったクズの表情から血の気がさあっと失せていく。
骨を折らないように加減したとはいえ、畳ではなく地面に背中から叩きつけられたのだ。その痛みは相当なものだろう。
苦しげに立ち上がるクズは、しかし足元が覚束ない。鍛えてなけりゃそんなもんだ。
「くっ、こんなことして、許されると……」
「許す許さないとかどうでもいいけどおかわり行っとくか? もっとも、次も骨が耐えてくれるとは限らないけど」
「チッ……」
忌々しげに舌打ちし、クズが踵を返した。
「二度と来るか、こんなとこ」
「おう、来んな。私と私の家族と無関係なところで迷惑かけずに勝手に生きろ」
逃げ出したクズの背中にそんな言葉を投げつける。
きっと、あいつはもう来ない。結局のところ、自分より弱い人間としか付き合えないような、情けない男なのだから。
「和美……」
後ろから声をかけられ振り返ると、驚いたような顔で突っ立っている母さんがいた。
手には財布が握られている。多分、今戻ってきたところなんだろう。
「強くなったんだね、和美……」
いや、ちょっと違うらしい。私がクズを投げたところを、母さんはきっと見てたんだ。
そんな母さんに、私はにっと笑いかける。多分、母さんそっくりの笑顔。
「じゃあ今度、私と組手してくれる? 今ならきっと母さんにも負けない」
「もちろん、相手してあげるわよ。まだまだ負けるつもりはないけどね」
軽口で返してくれるあたりはさすが母さんだなと思った。
ずっと私を庇ってくれてた背中を私は知ってる。きっと、母さんに勝つことは容易じゃない。
だけど、だからこそやりがいがある。挑み甲斐がある。私の憧れた強い背中を、母さんだって持っているから。
「ね、母さん。私、今から行かないといけないところがあるんだ」
「そうかい」
「だから、帰り、ちょっとだけ遅くなるかもしれない」
「そうかい」
心得たように母さんが笑う。いつもの、頼り甲斐のある笑顔だ。
「じゃ、行っといで」
「……うん!」
母さんの言葉を受けて、私は駆け出した。
今すぐ会いたいやつがいる。会って言わなきゃならないことがある。
だから、これから会いに行く。キライだったはずのやつのところまで。
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