第31話
「はあ……」
家までの道を歩きながらため息をつく。
意識はどこかぼんやりしていた。目に入る景色はどこか非現実的で色味がなかったし、考えも上手くまとまらない。
いや、考えてすらいなかったかもしれない。同じところをぐるぐるしてばかりで、すっぱり答えを出すことができない。それならいっそ考えなければいいのに、どうしても思うことだけはやめられない。
こういうとき、自分の感情が面倒くさくなる。柔道で鍛えてきたのは体だけじゃなく心もだ。それなのに平常心を常に保つことができないなんて、稽古不足も甚だしい。
そんなことを考えながら、とぼとぼ家の前までやってきた時だった。
「どうすればあなたは分かってくれるの……!」
母親の、誰かに向けられた非難の声が聞こえてくる。
怯えの色が含まれたその声は、いつもの彼女の振る舞いとは裏腹に儚く頼りなげであった。
「母さん!?」
慌てて、玄関へ駆けつける。
そこで見た光景に、私は凍りついて立ち竦んだ。
「おう、和美か」
そいつは、相変わらずヘラヘラと軽薄な態度を崩さなかった。
四十を超えているとは思えない、整った風貌。薄く刻まれた皺も、多くの人がむしろ大人っぽくて色っぽいと評することだろう。体の線はすらりと細く、柔らかく低いその声は耳朶に甘い。
そいつは私の知る中で、もっとも容姿に恵まれていて、もっとも性根の腐ってる……クズだった。
「お前からも言ってやってくれよ、和美。こいつ、相変わらずバカでさあ。全然話、聞いてくんねーの」
呆れるよな、とでも言いたげに眉根を下げながら、クズは肩を竦め私に話しかけてくる。
見れば、母親は困ったような表情でうろたえているようだった。そして片方の頬には真新しい痣……殴られた痕だ。
それを見て、一瞬で私の頭は沸騰する。母さんは柔道の有段者だ。そこらの男が、母さんを傷つけられるわけがない。クズ如きの力で、本来なら母さんに手を上げることなんかできやしない。殴りかかろうとしたところで簡単に投げ飛ばされる。
それでも母さんがこの男に抵抗することなく殴られたりしたのは、そこにトラウマがあるからだ。心が恐怖を覚えている。意識が抵抗を封じ込める。意志が暴力に屈している。
この男は、母さんにそんな傷を植え付けた外道なのだ。
「ふ、ふざ……っけんなっ」
慌てて母さんとクズの間に割って入る。
このクズを、母さんの視界に入れたりなんかしちゃいけない。母さんは守ってくれたんだ。幼い私を、ずっと庇ってくれていたんだ。
これ以上母さんを傷つけていいやつなんていない。いない、のに。
「あ?」
「……っ」
心が竦む。
「ったくよお……お前も相変わらずバカかよ。あっきれたー」
「ぃ、うぅ……」
「バカなとこまで母娘そっくりかよ、使えねー。それともなんだ、和美。お前が金、用意できんのか?」
そんなことできるわけがない。
大方、またギャンブルで借金を作ったんだろう。それで借りれる女がいなくなったから、昔の女に声をかけにきたってところなんだろうけど。
その浅はかで人を舐め切った態度に怒りを覚える。今すぐ投げ飛ばして、地平の果てまでお帰り願いたいところだ。
だけど。
「おい、黙ってねーでなんか言えっつーの。その耳は飾りかよおい」
「っ、痛っ」
伸びてきた腕を払うこともできずに耳を掴まれ、引っ張られる。腰が砕けて、膝から崩れ落ちそうになる。
……おかしい。だって、クズよりずっとノブのほうが素早く掴んでくる。それに動きだって読みにくいはずなのに。
なんで私はこんなに簡単に掴まったんだ。避けられたはずの腕から、払えたはずの腕から、なんで逃げることができなかったんだ。
そこまで考えて、背筋がゾクリと震え上がる。
きっと私も母さんと同じなんだ。心が恐怖を覚えている。意識が抵抗を封じ込める。意志が暴力に屈している。
世界で私はただ一人、このクズにだけは太刀打ちできない。なぜならそう作られているから。
そう思うと、恐怖が体を支配した。耳を掴まれたまま、私がクズに向けるのは……懇願の、視線だった。
「や、やだ……」
肩が震えているのが分かる。
「た、助けて、お願い……」
心が怯えてるのが分かる。
そして、記憶は覚えている。母さんがぶたれていることに目も、耳も塞ぎながら、部屋の片隅でうずくまっていたことを。
「チッ、話通じねえなオイ」
苛立たしげにクズが舌打ちをした。そんな些細なささくれを向けられ、私の肩はビクリと跳ねる。
そんな私を助けてくれたのは……結局、また母さんだった。
「……分かったから」
私がしたのと同じように、母さんが間に割って入ってくる。
「お金、用意するから。だから和美には手を上げないで……お願い」
「わかりゃいいんだよ、わかりゃ」
クズから解放され、私はその場に尻もちをつく。心臓が強く打っていた。息は知らずに上がっていて、まるで全力で走ったあとのようだった。
自分が情けなくて嫌になる。悔しいはずなのに。憤りが止まらないのに。なのに、こうやって守られていることが。
母さんが家の中に戻っていく。多分、お金を取りに行ったんだ。用意なんてしなくていいのに……いや、でも違う。私を守るために、母さんはお金で解決しようとしているんだ。
「ったく、手間かけさせやがって」
言いながらクズがタバコを取り出す。人の家の敷地内で、断りもなくだ。
金が手に入ると分かったならば、私に興味もないのだろう。話しかけてくることもなかった。
当然、私から話しかけるわけもない。そんな勇気なんてありはしない。自然、場を沈黙が支配する。
その支配を破ったのは、不意に鳴り響いた着信音だった。
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