第16話
「っ、おいカズミ!」
「カズミー!? ちょっとお!」
急に走り出した和美の背中に、そんな二つの声がかけられた。
「チッ。使えねえ」
「はあ!?」
男の発したその言葉に、小毬が過剰に反応する。
「使えねえって、なに、その言い方。まるで人をモノみたいに……だーいぶ、カチンとくるんですけど?」
「やー、悪いね? 俺、正直なもんで思ったことがついポロリと。この顔に免じて、な?」
「……バッカじゃないの」
付き合いきれないとばかりに小毬はぷいと目を逸らし、駆け去った和美の背を追うようにして走り出した。
あとに残されたのは、男と勇一の二人だけだ。
「……あんた、芳野さんのなんなの?」
「ヨシノ? あー、あいつ、今もそんな苗字だったっけか」
言いながら男が胸ポケットから出したたばこを口に挟む。
「校内、禁煙だって知らない?」
「知らないねえ。まあ堅いこと言うなよ。あんた、俺の同類だろ?」
「同類?」
怪訝な顔を浮かべる勇一をよそに、男はたばこに火をつける。
そして煙を吐き出したところで、
「杉岡幸也」
と名乗った。
「ま、カズミの、血の繋がってるほうの父親ってやつだ」
「芳野さんの……」
「まああいつも、その母親も、使えないやつだったんだけどな」
その口ぶりに勇一は顔をしかめた。和美の母親については知らないが、想い人やその親を悪し様に言われるのは気分のいいことじゃない。たとえそれを言う人間が、和美と血の繋がった父親だとしても。
そして、そこでようやく合点がいく。
「ああ……あんたが、芳野さんの言う『あいつ』なわけだ」
そんでもって、きっとただそれだけじゃない。
この男はおそらく元凶なのだ。和美が色々と抱えている、心に刻み込まれてしまったたくさんの傷を作った張本人。
――それはつまり、勇一にとっても『敵』であることを示していた。
だが、勇一のそんな反応を、幸也は「はっ」と鼻で笑い飛ばしてみせた。
「んなつれねえ反応すんじゃねえよ、同類さんよお。お前だって大して変わんねーだろうが」
「変わんねーって、なんのこと?」
「目ぇ見りゃ分かる。お前、あれだろ、女の部屋を転々と渡り歩いて金ちょろまかしてるクチだろ?」
「…………」
「俺も高校上がった頃からそんな生活してたからさあ、分かるんだよな。そういうやつがまとってる気配っていうか、においってやつ?」
むしろ親し気にかけられる言葉に、勇一は黙って反応を返さない。それは幸也が的外れなことを言っているからではない。むしろ、図星を突かれているから言葉を返せないからだ。
自分でもちゃんと分かっている。たくさんの女の人から、たくさんのお金や、物や、愛を貢がれてきたことを。そしてそれを理解した上で、毟り取ってきたことを。
そんな自分を、今でも愚かとは思えない自分がいるのだ。仕方なかった、どうしようもなかった――そうやって言い訳したがる自分がどこかにいる。
「だってよぉ、仕方ねえもんなあ。向こうの方から来るんだもんよ」
「っ」
そしてその、勇一の抱えている言い訳を、幸也もまた言葉にしてみせた。一ミリのずれもなく――的確に。
「適当にそれっぽいこと言ってりゃ、ほいほい寄ってくるんだもんなあ、バカ共が。仕方ねえから愛されてるふりしてみせりゃ、いくらでも金が入ってくる。違うか?」
「あんたには、関係ないはずだけど」
「んなこと言ってよぉ。分かってるはずだろ? そういう目してるぜ、お前」
そんなことを言われ、勇一は思わず睨み返す。そんな勇一の視線を「へっ」と幸也は笑い飛ばした。
「ま、なんでもいいけどよ。お互い、上手くやろうぜ」
じゃあな、と片手をあげて幸也はくるりと踵を返す。
その背中に、思わず勇一は声をかけていた。
「あのさ」
「あん? なんか用か?」
「俺は……あんたと同類なんかじゃない」
口をついて出たのは、一度は図星だと認めたことを否定する言葉だった。
「はあ?」
「確かに俺は、女の部屋を渡り歩いてきたけど。お金だって、たくさんもらってきたけど」
「ほら見ろ。同じじゃねえか。女を拾っては捨てるクズのヒモだろ? 違うか?」
その言葉に、勇一は首を横に振ることで応える。
「違う」
そして言葉でも否定した。
「だって、捨てられるって、怖いことだろ」
それだけは、勇一が心の底から断言できることだった。
「あん?」
「だから俺は、捨てると決めた時はもう全部の覚悟決めたし。そうじゃなきゃ、捨てた彼女たちに申し訳だって立たないし」
誰を選ぶか決めることができたのならば、もうそれ以外には目をくれない。それもまた、勇一の選んだ道なのだ。
「何が言いてえんだよ」
苛立ち混じりにそう口にする幸也の目を正面から見て勇一はその問いを口にした。
「……あんたさ。捨てられるってのがどういうことか、知ってんのかよ」
「あ?」
幸也は一瞬目を丸くして、しかし次の瞬間には「プッ」とおかしいといわんばかりに吹き出した。
「知るわけねーだろ、そんなもん。俺、捨てられたことねーもん」
「だろうね。そういう目をしてる。……でも、俺は知ってるよ。捨てられるってのがどういうことか」
去られる痛み。失う苦しみ。不眠症まで患うほどに、その時の喪失感は重くて辛い。
つまるところ、それを知っているからこそ、「だからお前とは違う」と勇一は口にしたいのだろう。幸也を睨みつける目は、そんなことを語っていた。
そんな勇一に向かって、幸也は首を傾げてこう言った。
「ふーん。あっそう。で?」
* * *
雨の中をとぼとぼ歩く。
……また、竦んだ。体の震えを止めることができなかった。
そんな自分が情けない。何が柔道だ。少し黒帯を取ったぐらいで、大会で優勝したことがあるぐらいで、強くなったつもりだったのか、私は。
全然何も変わってないじゃないか。
私なんて弱虫だ。図体ばかり大きくなって、勇気の欠片も持っていやしない。
小さな体で、頼りない背中で、それでも私を後ろに庇ってくれた小毬ちゃんのほうが何百倍も強くてかっこいい。
「……っ」
巨大戦艦、だなんてあだ名されたところで、本当の私はこんなに無力でちっぽけだ。
こんなはずじゃなかった。初めて真っ白な帯を腰に巻いた時、私は生まれ変わるんだって思った。今までみたいな情けないのはやめるって。これからはもっとちゃんと前を向いて生きていくんだって。
でも、じゃあ具体的にはどうなりたかったんだろう。どうなれば、私は満足だったんだろう。……どうなっていれば、あのクズを前にしてあんなに怯えずに済んだんだろう。
そんなことを考えても答えは出ない。冷たい雨に打ち据えられて、体がどんどん冷えていくだけだった。
なのに。
「よ~しのさん」
「あ……」
不意にまた、こげ茶色の天井が頭上に広がる。
その天井は冷たい雨を遮り、私のことを守ってくれていて。
「やっほ。ようやく追いついた」
「なんで、お前……」
そして天井を連れてやってきたのは、飄々とした憎たらしい笑顔を浮かべたイケメンだった。
「子曰く、女の子を落としたいなら弱っているところを狙い撃ちしろってね」
「孫子、とんだタラシ野郎だったんだな……」
「伊達に稀代の名軍師を名乗っていないよねー」
「…………別に、孫子が自分でそれ名乗ってるわけでもないでしょ」
「あっはは、そうかも」
イケメンはいつもの調子でそんなバカげたことを口にしながら笑いかけてくる。
それはもしかしたら天然なのかもしれない。あるいは、私を気遣おうとした結果かもしれない。だけどどちらにしたところで、今の私にはこいつの相手をするような気力など残っていなかった。
ただ、私より目線の高い位置にあるイケメンの顔を見上げる。イケメンは笑顔を浮かべたまま、肩を濡らしてそこに立っていた。
「濡れてるよ。肩」
「濡らしてんだよ。芳野さんのために」
「なにそれ」
「これでも、口説いてるつもりなんだけどなあ」
「今、そういうの、ほんとウザいから」
毒づく声も掠れていた。
だけど今ばっかりは鬱陶しくてたまらないのだ。誰も、彼も、どんな人間とも、言葉を交わしたくないし顔だって合わせたくはない。
傘だって今はいらない。雨が途切れたら見えてしまう。頬を伝うものの正体が分かってしまう。
「いらないんだよ、もう!」
気づけば、私は叫んでいた。
「いらない、いらない、いらないっ! 優しさとか、思いやりとか、温かい言葉とか、慰めとか……そんなの今は欲しくない!」
だって、そんなものを容れる余地なんて、今はどこにもありはしない。惨めで、虚しくて、今にもバラバラになってしまいそうな心や体をちゃんと繋ぎとめるだけで必死なのに。
それなのに。
「とりあえず、さ。芳野さん」
びっくりするぐらい優しい声で、イケメンは口を開くのだった。
「喫茶店、行こっか?」
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