第15話

 昼ぐらいから崩れた天気は、ホームルームを迎えるまではなんとか必死で堪えていたようだが、終業を迎え玄関へたどり着く頃にはぽつぽつ泣き始め六月の地面を濡らしていた。


「わー、雨……」


 眼前に広がる雨のカーテン。それを見て私は途方に暮れていた。


 立ちすくむ私に気づき、小毬ちゃんが声をかけてくる。


「カズミー、傘忘れたの?」


「うん、忘れちゃった。ほんとしまった。朝天気予報ちゃんと見てくればよかった……」


「わードンマイ。わたし折りたたみあるよ? 入ってく?」


「いや、いいっていいって! 折りたたみの傘って小さいし私と入ったら小毬ちゃんびしょ濡れになっちゃうし」


「そんな、遠慮しなくていいのにー」


 小毬ちゃんの親切をやんわり断る。私に続いて小毬ちゃんまで雨に濡れて風邪引いたりしたら、さすがに申し訳が立たない。


 とはいえどうしよう。いつもなら濡れるのも平気で雨の中突っ切るぐらいのことはするけれど、さすがに病み上がりでは抵抗を覚えた。


 いい解決策も思い浮かばず、小毬ちゃんと並んで昇降口に佇みながら外を見る。そこでは生徒たちが、「雨だー」と騒いで水たまりをばしゃばしゃ踏みつけたり、「やべー!」とカバンで頭をかばいながら駅まで走っていたりした。


 そんな光景をただ漠然と眺めていると、不意に視界が暗くなる。


「え……?」


 頭上を見上げれば、そこには澱んだ曇り空ではなく、こげ茶色の天井だった。


「どしたの、芳野さん。傘、忘れちった?」


 こげ茶色は、イケメンが手に持つ傘の色だった。大人っぽい落ち着いた色合いで幅の広いその傘は、多分二人ぐらいなら余裕で雨から守ってくれる。


「なんなら、俺と一緒に入ってく? 病み上がりだしあんま濡れたくないっしょー」


 見上げたイケメンが浮かべるのは、いつもと同じヘラヘラと力が抜けそうな笑顔で。


 ――そしてそんないつも通りの表情が、このときばかりは強烈にダブってしまった。


 イケメンの体を思い切り突き飛ばしたのは反射だった。


「――っ」


「いって! え、な、なに、芳野さん!?」


 突き飛ばした時の感触は思いの外軽かった。傘を取り落とし、イケメンが地面に尻もちをつく。


 珍しくイケメンはうろたえた声をあげるが、私はそれから顔を背けた。


「……ごめん」


「え、ちょ!?」


 イケメンから走って逃げる間際に、辛うじて謝罪の言葉を口にする。


 今はとにかく思い切り走りたかった。そうすれば、イケメンの笑顔を見た瞬間にダブってしまったあの顔も忘れることができると思った。絶対に、忘れられるわけないのに……。


「カズミー!」


 走る私に背中を、小毬ちゃんの声が追いかけてくる。続けて「あ痛っ」と悲鳴も聞こえてきたから、多分転んだんだと思う。運動が得意でない小毬ちゃんに無理をさせたことが申し訳なくて、そしてそんな自分が情けなかった。


 走る速度を落とし後ろを振り返る。やっぱり小毬ちゃんは転んでいて、制服もかわいい顔も雨でぐちゃぐちゃになった泥で汚れて悲惨になっていた。


 助け起こさなきゃ――そう思い戻ろうとしたところで、小毬ちゃんの後ろからさらにイケメンが追ってきていることに気づく。


「芳野さん! おい、待てよ!」


 もちろん待つわけがない。


「小毬ちゃんごめんっ」


 さっきから謝ってばかりだ。そんな風に思いながらも、再び校門目指して走り出す。


 だけど、私はそのまま校門を駆け抜けることができなかった。その直前で立ち止まることしか、その時の私にはできなかった。


 だってそこにはそいつがいた。雨の中傘を差して、私を見つけたその男が。


「誰、あれ?」


「ちょっとかっこよくない?」


「分かる! なんか雰囲気エロいよね……」


 こそこそと交わされる、主に女子の好奇心にまみれた黄色い声。


 その声を向けられているそいつは、私の知ってる男だった。私の知ってる、クズだった。


「よお。また会ったなー」


 にへら、と力の抜けるような笑み。どこまでも軽薄で、だからこそ女を惹きつける柔らかくて危険なその眼差し。


 足が、竦む。力が抜けていく。


「なんで、ここに……」


 声を震わせる私に、繋がってるほうの父親は両手を合わせてこう言ってきた。


「わっり、ちょっち金くれよカズミ」


 ……何を言い出したんだろうと思った。


「ちょっと失敗して思い切りすっちゃってさー。で、財布代わりの女がもう逃げ出して今やっべえのマジ。だからお前、ほら、ここは親を助けると思ってさ~」


 この男を親だなんて思ったことはない。


 血を分けた相手だということすら認めたくない。


 言葉を交わしたくない。目を合わせたくない。同じ空気を吸いたくない。怒鳴られたくない。引きずり回されたりしたくない。


「……おい」


「ひっ」


 男が、一歩こちらに向かって踏み出してきて私は慌てて後ずさる。


「なんか言えよ。無視すんじゃねーって言っただろ、前? あ、言ったっけ? まあいいや、よく覚えてねーけどとにかく無視ってなんなんだよ無視って。アホかお前」


「ご、ごめっ」


「まあいいや。とにかく、金、ほら、すぐ用意できんだろ?」


 無視するなと言った矢先から私の反応を無視して要求だけを突きつけてくる。そのダブルスタンダードに腹立たしく思うよりも先に、気持ち悪いという感情が浮かんだ。


「お、お財布は、家、で……」


「ああ? んだよ使えねーな」


 気怠げに舌打ちして、クズは続ける。


「仕方ねー。じゃ、行くぞ今から」


「へ?」


「へ? じゃねーよ。行くっつってんだろ、お前ん家」


「そっ……」


 れは、だめ!


 そう言ったつもりだった。でも、言葉にはならなかった。


 だけど家にはお母さんがいる。父さんも、竜美だっている。こんなクズをあの善良な人達に近づけるなんてこと、できるわけがない。


「カズミー、大丈夫!?」


 そこへやってきたのは、ようやく追いついた小毬ちゃんだ。私とクズとの間に割り込んでくる。


「小毬、ちゃ……」


「大丈夫! カズミーのことはわたしが守ってあげる!」


 小さい背中でそう言い放ち、小毬ちゃんがキツくクズを睨む。


 でも、違うんだ。こんなの、立場が全然逆なはずなんだ。


「それ以上カズミーに近づかないで! そんなのわたしが許さない!」


 そう言ってくれるけど、でも、こんな形で小毬ちゃんを巻き込むのは私の本意じゃない。


 だって私がいなければ、こんなことにはならなかったから。


 そう。私がいなければ。


「……っ」


 そうだよ。


 私がいなくなればいい。クズの前から消えればいい。


 立ち向かうんじゃなくて、逃げるんだ。だってあの時だって、私はこいつから逃げたんだから。


「ちょ、これどういう状況!? 何が起こってんの!?」


 小毬ちゃんに続いて追いついてきたイケメンが素っ頓狂な声を上げているけど、そんなのはどうでもいい。


 萎えかけた足に喝を入れ、全力で私はその場から走り去った。

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