第13話

 ――そして思い切り風邪がぶり返したのは翌日の朝。ダルさを覚えて体温計を脇にぶちこんでみれば、見事に38℃という数値を叩きだしていた。


 そのことを家族に報告すると、私はたちまち布団の中に追い返される。


「あんたが風邪を引くなんて、珍しいこともあるものねえ。バカなのに」


 と、濡れタオルを用意してくれた母さんが枕元でのんびり呟いた。失敬な。


 一方で、父さんと弟は心配顔で母さんの隣に並んで座り、


「……大丈夫か。変な病気だったりしないだろうな? 病院に電話……いや、入院しなくていいのか?」


「お、おい、姉貴、死ぬなよ……元気になってくれよ……」


 やたら深刻顔で、眉間に深い谷を刻みこんでいた。


「いや、大丈夫だから。ほんと、ただの風邪だから。寝てれば治るから。病院とか大袈裟だし死なないから」


 そこまで心配しなくとも、と思う。病人なのに、こっちがむしろ二人を宥めすかす始末であった。


 終いには、二人して母さんに追い出されていた。「病人を不安にさせて何が楽しいんじゃー!」とか叫ぶ母さんに、男が二人してへこへこと頭を下げている様子が情けなくも少し笑える。


 でも、大袈裟とはいえ心配してもらえるのはありがたいことだと思う。それだけ私のことを大切に思ってくれてるということだから。


「はあ。ったく、あの男共ときたら」


 ため息をつきながら、母さんが戻ってくる。


「竜生さんも竜美も、風邪ぐらいであたふたしちゃって。みっともないんだから」


「あは。でも、そういうところがあの人達のいいとこじゃん」


「まあねえ」


 言いながら、母さんは果物ナイフとリンゴを取り出して皮をしゅるしゅると剥き始める。


 リンゴの皮を剥く音は不思議だと思う。それを聞いているだけで、何となく安らいだ気持ちになれるのだから。


 しばらくの間、無言のままに時が過ぎる。


 やがて、母さんが「りんご、剥けたわよ」と言った。


「ん、ありがと」


 爪楊枝に刺されたリンゴをしゃくりとかじる。


 時期を外れているせいか、リンゴの味は少し薄い。でも、その味の薄さが熱で火照った体にはちょうどいいような気がした。


「……ねえ、母さん」


「ん、なあに?」


「結婚したのがあの人で、よかったね」


「なによ。やぶからスティックなこと言っちゃって」


 おかしげに母さんが笑う。


「でも、そうね。竜生さん、あんたのことがかわいくて仕方ないみたいだし」


「そういうの、あまり顔に出さないけどね、父さんは」


「あら、ふふっ。そうね。でも、いいお父さんよ?」


「ん、知ってる」


 にっこり笑う母さんに私もうなずき返す。


 私と父さん……竜生さんの間に血の繋がりはない。私が生まれた後に、母さんは竜生さんと再婚した。


 竜美も、竜生さんの連れ子だから実の姉弟というわけでもない。


 それでも私達は、心から仲の良い家族だと思ってる。


「でも、ほんといきなりね、和美ったら。風邪のせいかしら?」


「ん、そうかも。……ごめん、私ちょっと寝るね」


 昨日のことをあまり口にはしたくなくて、私は思わず布団で顔を隠す。そんな態度を、母さんは風邪のせいだと思ってくれたみたいで、「早く元気になりな」と声をかけて部屋を後にした。


「……寝よ」


 ごろりと寝がえりをうちながら目を閉じる。


 いい加減、色々考えたくないのだ。疲れ切ったこの身には、過去も現実も重すぎる。


 * * *


 二日ほどで風邪は治った。


「カズミー、おはよ!」


 教室で顔を合わせるなり、小毬ちゃんが跳ねるような足取りで寄ってくる。


「おはよ、小毬ちゃん」


「うん! カズミーがいない間寂しかったよぉぉぉー!」


 などと言いながら、彼女は私の腰にしがみついてきた。


「あの健康なのと体が頑丈なのだけが取り柄のカズミーがまさか風邪を引くなんて、天変地異的現象が起きるなんて想像したことすらなかった! ほんとにほんとにびっくりしたんだからね!」


「あの小毬ちゃん? どさくさに紛れて私のことをディスるのやめてくれない?」


「あ、ごめん、男らしくて頼りになるって言いたかっただけなの」


「お前それもうわざとだろそうだろ覚悟しろ」


 にこやかに媚びっ媚びな笑顔を浮かべる小毬ちゃんに目いっぱい手加減したヘッドロックをかけてやる。小毬ちゃんは「あはは、いた~い」などと男子受けのよさげな甘ったるい悲鳴を上げていた。


「「「巨大戦艦め、風邪上がりのくせしてクラスのアイドルになんてことを!」」」


 いつものバカな男子共がバカなノリでバカなことを言ってきたから、そいつらも適当に投げ飛ばしておいた。


 うん、病み上がりだけど体の調子も戻ってるみたい。これならすぐ部活のほうも復帰できそうだし、よかった。


 そんなわたしが席に戻ると、小毬ちゃんがにこにこと笑いながら改めて腰に抱き着いてくる。


「でもほんと、よかった。ほんとはね、メッセージが途中で途切れたから……だから心配だったんだ」


「あ、そっか……そういえば、返してなかったね。心配かけてごめん」


「いいよぉ、別に。だってぇ、カズミー、元気になって戻ってきたもん!」


 言いながら、小毬ちゃんが猫みたいな仕草ですりすりと頬を寄せてくる。そんな彼女の頭を苦笑交じりに撫でていたところで、教室の後ろの扉ががらりと開いた。


「芳野さん、風邪治ったんだって!?」


 ……現れたのは、隣のクラスの誰か様だった。


 その誰か様は、無遠慮に教室の中にずかずか足を踏み入れてくる。男連中が、妬みと嫉みと非難に満ちた非有効的な視線を一斉に侵入者に向ける。女子が、「きゃあっ」と黄色い声を上げる。


 誰か様がこちらへやってくる前に、私はすかさず席を立つ。そのまま早足で廊下へ向かった。


「ちょ、待ってよ芳野さん!」


 だが、途中で誰か様が私の腕を掴んでくる。


 だけど関係ない。背を向けたまま、掴んできた手を私は力づくで振り払った。


「どちら様」


「どちら様って……俺だよ俺、芳野さんの勇一ですよ」


「そんな人は知らない」


「知らないなんてことはないでしょ」


 イケメンの言葉を無視して私は歩き出す。こいつと会話するつもりなんてなかった。


「――ごめん! 悪かった!」


 そんな私の背に、イケメンが出し抜けに謝罪の言葉を投げかけてきた。


「芳野さんが風邪引いたのをいいことに、部屋に連れ込んだりしてさ!」


 机の間を縫ってイケメンの言葉から逃げる。廊下に出るまではまだ少し遠い。


「あのあとになってすげえ反省した! それで二日も休んでたし、やっぱりデート中止したほうがよかったって……」


 そうだトイレに行こう。あそこなら一人になれる。あそこなら誰かに煩わされたりしない。雑音がない。


「あの時は俺も冷静じゃなかった。芳野さんに負担かけて、ほんとに申し訳ないことをした!」


 扉を抜けて廊下に出る。ここまで来ればもう大丈夫。


「強引にお家デートなんかして、それで体に負担をかけてごめん!」


 知らない。聞こえない。扉を勢いよく閉じた音に紛れて、イケメンがなんて言ってたのかなんて分からない。分からない、はずだ。


 もう、我慢できなくなって駆け出した。トイレに駆け込んで、個室に入って、鍵をかけて便器に座る。


「はあああぁぁぁぁ……」


 胸の奥に溜め込んでいた空気を思い切り吐き出した。


 何やってるんだ、私。


 何、逃げてんだ、私。


 でも、だけど。


「あいつと顔なんて合わせられるわけないじゃん」


 だって思い出してしまった。ああいう手合のやり口を。ああいう手合の残酷さを。


 だから私は関わらない。甘い顔を見せた時、激しく傷つくのはいつだってこちらなのだから。

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