第12話
ふと目を覚ますと、部屋の中はカーテンがかけられているのか少し薄暗くなっていた。
枕元にある時計に目を向ければ午後三時ぐらいだったから、イケメンが気を利かせて暗くしてくれたのだろう。おかげでぐっすり眠れた私は、だいぶ具合も回復してきたのかだるさもだいぶ抜けてきていた。
室内に視線を巡らせる。十二畳は確実にあるその部屋には、ベッドと勉強机があるぐらいで、他にはびっくりするぐらい何もなかった。娯楽品の類いも、嗜好品と思しきものも見当たらない。
「あ」
その勉強机には、イケメンが突っ伏したまますやすやと寝息を立てていた。デスクライトがつけられたままだったから、もしかすると勉強をしている最中に眠りに落ちてしまったのかもしれない。
眠っている横顔をなんとなく見つめていると、不意にイケメンが「うーん……」と唸り声を上げたかと思うとパチリと目を覚ました。
「……っ」
見ていたことに気づかれたくなくて、私は慌てて目を逸らす。寝起きのせいか、そんな不審な私の挙動にイケメンは気づかなかったのだろう。椅子に座ったまま「んーっ」と背伸びをしたところでこちらへと視線を向けた。
「あー、なんか、俺まで寝てたみたい」
「そ、そうかのか! 私はお前のほうなんて全然見てないから、そんなことにはこれっぽっちも気づかなかったな!」
「そうなんだ? あ、芳野さんおはよう」
「あ、ああ……おはよう」
「よく寝れた?」
「ああ……おかげさまで、な」
少し上ずった声で私は答える。なんだこれは。緊張しているのか? このイケメン相手に? ちくしょうめ。
「それより」
と、私はイケメンに目を向ける。
「あんたの方も、寝てたのか」
「勉強してるつもりだったんだけどね。芳野さんがいるから、なんか安心して久しぶりに寝れたのかもしれない」
その言葉に私は首を傾げた。
まるで、ずっと寝ていなかったみたいな言い方だ。
だけどこちらへ向けられるイケメンの顔を見て私は気づく。確かにイケメンの目の下には隈ができているようだった。
一週間ほど前には、その隈は見られなかった。だから今も本当に久しぶりに眠ることができたのかもしれない。
「お前、もしかして最近寝てないのか?」
「最近っていうか、芳野さんに惚れてからずっと、かな」
わけが分からない。
疑問を顔に浮かべる私に、イケメンはさらに続けた。
「俺、そういう体質みたいでさ。誰かが隣にいないと眠れないっていうか、そんな感じ」
「……あ」
そう言われてふと、思い出した。
――この男ったら隣に女がいないと寝れない体質らしくってぇ~。
喫茶店で会ったこいつの元カノ、確かそんなようなこと言ってたっけ。
「ってことは、じゃあ、ほんとに……? 全然、眠ってないの?」
「うん。あ、でも大丈夫。三日に一度は気絶してるし、眠れない時は勉強するようにしてるからむしろ受験勉強の調子が良くて嬉しいぐらいだから」
「気絶て……」
「勉強してると、やっぱり脳に負担がかかるみたいでさ。机にかじりついてるとたまに意識失えるから一石二鳥っていうか」
そんな生活、私なら絶対耐えられない。
そもそも親が許さないはずだ。
「あんたの親は、なんて言ってるの。心配してるんじゃないの?」
「ああ、大丈夫大丈夫。両親とは一緒に暮らしていないし、俺の体質のことだって二人とも知らないし。全然心配かけてないよ」
「それ全然大丈夫じゃ……」
「それに、父さんにはこんないい部屋をもらってるしね。早く一人前になって、ちゃんと恩を返さないと」
そう言うイケメンの表情は、笑っているのにどこか寂しくて、このまま消えてしまいそうな気がしてしまって、私は不意に怖くなった。
「それよりさ、芳野さん」
と、気を取り直すようにしてイケメンが話しかけてくる。
「食欲はある? おかゆ、さっき作ったんだけどさ。もしよかったら食べない?」
「え、おかゆ?」
こいつが料理とか、意外だ。
「なにその意外そうな顔」
「だって、そういうイメージなかったから」
「一人暮らしだから一通り家事はできるよ。料理は割と得意分野。で、いる? いらない?」
「あ、いるいる。食べます」
体力が少し回復したおかげで、今なら食べ物を消化できそうな気がした。
そうしてイケメンが持ってきたおかゆは、シンプルな白粥のお椀と、別皿に盛られた梅やとろっとした半熟卵、しその葉やらなんやらといった色とりどりの豪華なものだった。
「具材は何が好きか分からなかったから、適当にこっちで用意してみた。好きな具入れて、ぐちゃーっと混ぜて、がーって掻き込んで食べてみて」
「あ、うん。あ、おいし。……ってかすげー濃やかな気遣いな」
「だって芳野さん、病人だし、惚れた女だし、できれば好感度とかもアップしたいし」
「ぶっ」
口に入れたお粥を思わず吹き出しそうになった。
「お、おまっ、なに言って――」
「あとは、早く芳野さんに元気になってもらいたいし?」
私の反論までが予想済みだったのかもしれない。してやったりという笑顔をイケメンが私に向けてくるのだった。
「……熱い」
「ゆっくり覚ましながら食べるといいよ」
熱いのはお粥じゃない。
きっとまだ風邪が良くなってないんだな。だって頬が、額が、こんなにも熱っぽいんだから。
* * *
空はもう日が暮れかけていた。
マンションを出た私は、とぼとぼと駅に向かって歩いていた。
あんな豪華なタワーマンションがあるだけあって、この辺りはなかなか立派な構えの家が並ぶ住宅街のようだった。
六月の湿った風が肌を撫でていくのが、まだ熱を残す額に心地よい。だけど、柔道のために短く切った私の髪はろくに靡くこともなく、わずかに毛の先が風にそよぐだけだった。
女の子らしくない髪型だ。色気もへったくれもなくて、ただ動きやすくて洗いやすくて邪魔にならないだけの髪。それでいいとこれまで思ってきたけれど、一度意識するとなんだか女子として失格なんじゃないかって気持ちが芽生えてしまう。
「……あいつ、結局最後まで看病してくれたな」
おかゆの味を思い出す。それと同時に、今日のイケメンが話していたことを思い出していた。
両親と一緒に暮らしていないなんて、私達ぐらいの年代じゃ普通考えられないことだ。
正直、一人暮らしというものに憧れを覚えないでもない。だけどそれは、高校を卒業して、一人で暮らすための気持ちと環境の準備が整って、それで初めてするものだと思っていた。
なのにあいつは、今ひとりぼっちであんな高くて広い場所にいる。私だったら寂しくてたまらないことだろう。
それに、あいつの体質のこと。あの隈を見れば、きっと嘘や冗談なんかじゃないってことぐらい私にも分かる。あいつは今まで、誰かと夜を共に過ごすことでどうにか体を休めていたのだ、きっと。
でも今はそれをしていない。その理由はきっと、いや、もしかしなくても。
「私がいるから……?」
そんな嘘みたいな話があるものだろうか。
たった一人の、ごく平凡で女っ気のない異性のために、自分の体を追い詰めてまで?
これまでのイケメンだったらそんなことなどありえないだろう。むしろ、多ければ多いほど、体を休める相手がいるから都合良かったはずなのだ。
なのになんで、あいつはあんなに隈を作ってまで……。
そんなことを考えながら歩いていると、不意にスマホがメッセージの着信を告げる。
取り出してみると、ディスプレイに表示されていたのは小毬ちゃんの名前。画面をタップしてメッセージを確認する。
「やほやほ! 今日カズミーが横取りされたせいでひまー』
送信時間はついさっき。小毬ちゃんらしい内容に、クスリと小さな笑みが零れる。
そのタイミングで、続けて小毬ちゃんからのメッセージが届いた。
『あ、既読になった。いえーい、見てるぅー?』
『はいはい。見てる見てる』
『なにその塩対応(笑)』
『塩じゃないから。ところで、何か用?』
『そりゃーもちろん、あれですよ。今日のデートの感想を聞かせていただこうという野次馬根性!』
堂々とした野次馬もあったものである。
小毬は楽だ。こうやって、屈託もない言葉をくれるところも好きだ。
だけど、聞かれた内容が内容である。今日のデートかあ、なんて一日のことを思い返す。
ほとんど寝てるだけだった。だって風邪で、熱も出てたし、デートらしいデートなんてできてない。
だけど、一方で色んなことを知ることができたな、なんて思う。案外優しいところとか、想像していたよりも努力家だったりとか……あとは、あいつなりに抱えている事情の一端、みたいなものとか。
小毬ちゃんにそういうことを話していいものかどうか、迷う。だけど、誰かに今抱えている気持ちを吐き出して気持ちの整理をしたい、とも私は感じていた。
『えっと……』
ゆっくり、スマホの画面に指を下ろす。プライベートなことを省いて、今の気持ちを綴ろうとして――。
「あっれー? もしかしてお前、あれじゃん? あれ」
だけど、不意に聞こえてきたその声に、私の指は凍り付いた。
聞き覚えのある、粘ついた声。
それを耳にした途端、私の体が本能的に竦んでしまう。飛んだり跳ねたりしていた心臓が黙り込み、浮かれていた感情は冷たいもので満たされていく。
一度は収まった吐き気も、だるさも、一気にぶり返す。これは聞いてはいけない声だ。私を蝕む、悪魔の声だ。
「奇遇だねー。え、なになにこんなとこでなにしてんのー?」
声は後ろから聞こえてきている。振り返りたくなかった。そこにいるやつを見たくなかった。拝んで楽しい面ではないし、話して盛り上がれるやつでもない。
一瞬、恐怖で心が怯んだ。だから私は、心を殺して、感情を黙らせて、そのまま真っ直ぐ足を踏み出そうとした。
しかし。
「おい、なに無視ってんだよ、カズミ」
そいつは馴れ馴れしく、私の肩に触れてくる。
「っ、いやっ」
とっさに飛び退きその手を避ける。
距離を取った私は、男をキッときつく睨んだ。
すると男は、不快げに「チッ」と舌打ちすると、
「おいおい。お前、なにそんな――怯えた目ぇ向けてくるんだよ。親子だろ、オレら、なあ?」
なんて言って、笑いかけてきた。
「なっ……」
私は、睨んだつもりだった。思い切り威嚇しようと、そんなことを思っていたはずだった。
なのにまだこの男に対して気持ちが怯えていたらしい。まともに睨みつけることすらできないぐらい、心が恐怖で竦み上がっていた。
「そーんな、怖がったりすんじゃねーよ。ムカつくだろ、ああ?」
「ご、ごめんなさい……」
「ごめんじゃなくってさあー……ったく、ああもう、見た目通りウスノロかお前?」
眼の前の男は、ポリポリと頭を掻きながらめんどくさそうにそう言った。
若く見える男だった。三十、あるいは二十代半ばとも受け取れる容姿だ。髪の毛はわずかに染められていて、センスよくワックスで整えられている。
薄い色の入ったグラスをかけていて、唇の間から見える歯は白く磨かれている。ジャケットにスラックスといったシンプルな出で立ちだが、素材が良すぎるせいかそれだけでも際立って洒落ているように見える。
美しい男だった。
女を惹きつける、大人の色香を無遠慮に放つ男だった。
私が心底憎んでいる、男だった。
「お前よー、親に向かってそんな態度じゃあれだぞ、あれ? なんつーの? 社会に出てやってけるわけねーだろアホか? んん?」
ヘラヘラと傲慢さの透けて見える笑みを浮かべながら、そいつは説教なんぞを垂れてくる。
「ビクビクビクビク、イキまくりですかってんだバーカ。でけえ図体して可愛くもねえ。見てるこっちがイライラすんだろーがよー……ざっけんな。なめた真似してんじゃねーよ」
「そ、そんな真似、してない、し」
声も、足も震えている。必死で私は言葉を振り絞るけど、柔道で鍛え上げたはずのこの体も心もなんとも頼りなかった。
「ビクビク、なんて、してないし……そんなんじゃ、ないし、別に……」
「あーもうお前うっぜえなー。親の躾なってなさすぎんだろバカかお前もお前の母親も」
「お母さんは、関係な――」
「いやー、あるね。ある。引き取った以上は責任がそもそもあんだろ? そうじゃね?」
じゃあ、その責任を放棄してでかい口を叩いているのはどちらなのか。躾云々を、お前は口にできる資格を持っているのか。
持っていないじゃないか。ずっと昔に投げ捨てて、それっきりの男じゃないか、お前は。
母さんを馬鹿にされて悔しさで唇を噛みしめる。でも、言い返すことなんてできはしない。そうできたらいいと思うのに、口答えする勇気を振り絞ることができなかった。
「ま、こんなこと言ってもわっかんねえよなあ、ガキは。ったく、これだからガキは」
嘲る口調でそう言われ、思わず拳を握りしめる。この綺麗な顔面の真ん中に打ち込んでやったら、どれだけ気持ちいいだろう。そう思わずにはいられない。
殴る代わりに、怒りと憎しみを込めて睨みつける。男はそんな私の態度が気に食わないのか、「チッ」と渇いた舌打ちを立てた。
「…………」
「…………」
お互いに黙り込んだまま数秒が過ぎた。その間、私も男も互いから目を逸らさなかった。
その沈黙を破ったのは、不意に鳴り響いた着信音だ。「おっ」と言って男がスマホを取り出す。
「あ、サワコ? うん。うん。分かってる、もうちょっと待ってろ。つか、迎え来いってそっちから。会いに行ってやるんだからそれぐらいしろよ」
「……」
「っせーな。あんまウザいこと言うなら切るぞ、お前。分かってんの?」
会話の断片から、その内容が推し量れる。はっきり言って反吐が出る。
これ以上、この男と一緒にいたくなくて背中を向ける。
その場から立ち去ろうとする私が最後に聞いたのは、「女は俺の言うことに黙って従えばいいんだよ」という、傲慢極まりない男の声だった。
(そうだった。こいつはこんな。だから、私は……)
どんどん、頭を過っていく。思い出したくない過去が一気に押し寄せてきて、溺れそうなほどだった。
その中でどうにか息をするために、私は心に怒りと憎しみを宿す。
不意に、手の中に握っていたものを思い出す。スマホを強く握り締めすぎていた。うっかり、握り潰すところだった。
画面を見ると、メッセージの作成画面が表示されたままだった。
『あいつ、もしかしたら意外といい奴なのかもしれない』
そこまで入力していたメッセージを、一文字一文字丁寧に消していく。
あいつを見直しかけていた感情も、芽生え始めていた好意も、すべて上書きされていく。ああいうやつらがどういう人種なのかを、思い出してしまったから。
――すくなくとも、いい奴なんかではないことを、思い出してしまったから。
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