第11話
――その日は朝から妙に気が重かった。
というのは、イケメンとのデート当日の朝である。
いつもより少し遅く置きて、朝食を食べている時も微妙に食事が喉を通らなかった。肩はなんだか妙に強張って、背筋にも冷たいものが走っていたりなんかした。
「姉貴、なんか汗ひどくね?」
と弟にも言われたし、自分でもそれは思っていた。でも、実のところ人生初のデートが今日はこのあと待っているのだ。体が強張るのも、汗が額を伝うのも、すべては緊張のせいである。
初めて柔道の公式試合に出た時だって、直前はこうして怖くなったものである。ましてや男と(それもイケメンと)デートなどということになったら、その緊張度合いも推して知るべしではなかろうか。なんせ柔道の大会なら、それまで積み上げてきた練習を信じることができる。だがデートだの恋愛だの、そんなものの練習なんてこれまで一切したことがない。
いやもうぶっちゃけていいっすか?
デート怖い。
それでもまあ、行くと決めたからには行くわけだけど。
そういうわけで、私は権堂駅のロータリーでイケメンがやってくるのを待っていた。
駅前にある時計が示す時間は、午前九時五十分。少し早く到着してしまったのは、私がデートを楽しみで楽しみで仕方なくて待ちきれなかったから、なんかでは当然ない。運動部の性というやつはこういうときにも発揮されるもののようで、集合時間前の行動というやつが体にインプットされている。
「ったく……あいつおせえな」
だから自然、こんな言葉も口をついて出る。自分の習性を他人に求めるのはお門違いだとは分かっていても、そう思ってしまうのはやめられなかった。
それにしても、冷や汗がやっぱり止まらない。その上体も妙に熱っぽい。頭もなんだかクラクラするし……いや、ほんと、緊張ってやつは怖いね。
こうして待っているのも正直しんどい。マジでさっさと来いよイケメン。そしたら少しは気が楽になる、気がするような気がしなくもないような……いや、でもあいつと合流して気が楽になるってのもそれはそれでなんだか嫌だけど。
「芳野さん。待った?」
うんうん唸りながら考えていると、不意に声をかけられる。待ちわびたイケメン様である。いや、待ちわびてない。全然ない。まあでも待ってはいたけど、いやほんと待ちわびてはいなかったんだって。遅いとは思ってたけど。
「待った。遅い」
「え、でも時間ぴったりじゃない?」
時計を見れば確かに待ち合わせ時刻ぴったりの午前十時だ。
「でも遅い。私は十分前に来た」
「楽しみにしててくれたんだ? 俺とのデート」
「はあ~!? 十分前行動は基本だろ。十時に予定したなら集合時間は九時五十分だろ!」
「え……あ、いや、ごめん、俺の中にそんな常識はなかったんだけど……」
これだから帰宅部の非体育会系は。つーかそもそもあんた中学時代はバスケ部なんだろ。
これぐらいの常識は知っとけよ。
「ってか、芳野さん? ちょっとつかぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ああ?」
「さっきから芳野さん、声とかちょっとおかしくない?」
言われてみれば、確かに喉がいがらっぽいような気がする。
「それに顔もなんか青白いし、今も妙にふらついてるように見えるというかなんというか」
「あのなあ……こっちゃデートなんてもん初めてで、ぶっちゃけ朝から気が重いんだよ。緊張ぐらいするに決まってるだろ」
「緊張というには、なんかやっぱり顔色がおかしいというかなんというか」
そう言ってイケメンが妙にじっと私の顔を見つめてきたかと思うと、「ごめん!」と言ってこちらに向かって手を伸ばしてくる。
「うわっ」
「あ、やっぱり芳野さん、だいぶ熱っぽくない? おでこ、けっこう熱いよ」
「は、離せっ」
慌ててイケメンを振り払おうとするが、妙に体に力が入らない。
むしろ、振り払おうとした腕を掴まれてしまった。
「つ、掴むな、変態、痴漢! このタラシやろ――げほっ」
そう叫びかけ、しかし不意に酩酊感に襲われて腕を掴まれたままうずくまってしまう。そんな私の隣に座り込み、優しい手付きで背中を擦ってきながら、
「今日はデートやめよっか。こんな具合悪い人、連れ回すわけにはいかないし」
とイケメンが声をかけてきた。
「はあ?」
思わずそう返した言葉は、想像以上にトゲがあった。
「デートするんじゃなかったのかよ。そのつもりでこっちは来たんだぞ」
「うん、だから延期ってことでどうかなって。芳野さんの風邪が直ったら、また来週の日曜日に同じ時間でさ」
「ざっけんな……」
こんな緊張感を抱えたまま、私にあともう一週間過ごせと?
「それぐらいなら今日デートして、そのまま夜にぶっ倒れるわ」
「いやいや、それ普通に体に悪いって! 今日はおとなしくゆっくり休んだほうがいいんじゃないかな!?」
「うるっせえ。デートすると決めたのは今日なんだから、今日するぞ。絶対にだ」
「変なところで頑固というか真面目というか……」
自分でもバカみたいなことを言っているなんてこと分かってる。
だけど、こんな気が重いイベントはさくっと終わらせてしまうに限る。先延ばしにしたところで後悔するのは分かっているのだから。
頑としてでも意思を変えない、というのがイケメンにも伝わったのだろう。
イケメンは「分かった」とうなずくと、
「芳野さんがそこまで言ってくれるのは、正直俺も嬉しいよ。だから、デートしよっか」
そう言って不意に――私の膝裏と肩に腕を回して、いわゆるお姫様抱っこの形で抱え上げたのだった。
「うわっ。な、なにをする!? 変態、変態、おまわりさんここに痴漢魔がいます!」
「いやだから病人なのに暴れるなって」
やや笑いを含んだ呆れた口調で言いながらイケメンが連れて行った先は、ロータリーに停まっているタクシーだ。
そのうちの一台、乗客を待っているタクシーに私を運び込んだかと思うと、運転手に行き先の住所を告げる。
「わ、私をどこへ連れて行くつもりだ、変態」
「どこって」
問いかける私に、イケメンは謎めいた笑みを浮かべたかと思うと、その行き先とやらを告げる。
「決まってるでしょ。もちろん、カップルの定番のデートスポット、だよ」
* * *
連れて行かれた先にあったのは、どう見ても上流階級の方々がお住まいになられるタワー型の高級マンションだった。
エントランスには広々としたホテルみたいなロビーがあって、床は豪華に大理石が敷き詰められている。
それだけでも驚きなのに、イケメンが取り出したのはエレベーターに乗るためのカードキー。なんかスリットみたいなのにそれを挿したかと思うと、暗証番号的なものを入力して指紋の読み取りまで、ピピッとしている。
いや、もう、ハイテクかよ。
「なに、ここ」
「俺の家。ここの最上階なんだ」
さすが金持ちは言うことが違う。
そして連れて行かれた部屋もそれはそれは豪華なもので、エレベーターを出たその場所がそのまま玄関だった。
間取りは、イケメンの話だとどうやら標準的な3LDKらしいのだが、一番小さな部屋でさえ私の家の敷地面積と同じぐらいあるのではないだろうか。標準とはなんぞや。
「芳野さん、こっち」
あっけに取られている私の腕を引いて、イケメンがどこぞへと案内し始める。
そこで連れ込まれた先は――あろうことか、寝室だった。
「なっ」
イケメンの意図をここへ来てようやく悟った私は絶句する。というか、なんでここまで気づかなかった。家に連れ込まれた時点で、どう考えたっておかしいだろう。
っていうか、マジかこいつは。具合が悪くて、頭朦朧としてる女に、こういうことしちゃうのか。やっぱり下半身でモノ考えてるヤリチンクソ野郎だったのか、こいつは。
「ほら、芳野さん。こっち来て」
「や、やだ、近寄るなっ」
「いや、そんなこと言ってないでさ。これもお家デートの一環だし」
は!?
「お家デート!?」
私が!?
「お家デート!?」
私が!?
「お家デート!?」
「うん、芳野さん……が。俺……と、お家デート」
「だ、だからっていきなりこんなことはおかしいと思う!」
言いながらイケメンから身を引き剥がす。両腕で体を抱きかかえるようにして、警戒心もあらわにイケメンを睨みつける。
そんな私を見てきょとんとしたかと思うと、イケメンは思わずといった様子で吹き出した。
「ぶはっ、それは芳野さん。さすがに想像力豊かすぎるよ」
「は、はあ!?」
「俺は、芳野さんは大切にしたいと思ってるから、そんな簡単に手を出したりするつもりなんてないよ。っていうか、そんな軽い女だと思ってないしさ」
「た、体重のことは言うな!」
「いや、そういうんじゃなくて……って、あーもうっ」
不意にイケメンが声を上げたかと思うと、また私の体を強引に抱き上げる。
熱のせいで抵抗できない私は、そのままベッドへと運ばれ、寝かされ、そして体に布団をかけられ……?
「……へ?」
「今日は寝てなよ、芳野さん。そして、早く具合良くなってくれると俺も嬉しいな」
「え、ちょ、だってお前、今日デートだって言ったのに寝てるなんて……」
「だからさ」
極上の笑顔を浮かべてイケメンが言う。
「これもデートだよ。お家デート。だから芳野さんには、デートのためにここでぐっすり寝てもらいます」
「なんだよ、それ……」
そんなの私に都合良すぎるじゃないか。
そんな都合いい話、本気でお前は信じてるのかよ。これをお家デートだとかって、言い張って『そういうこと』にしようと思ってるのかよ。
これならもっと、自分の都合を押し付けてくれたほうがいい。そっちのほうが、クズだって、やっぱりただのクソ野郎だって言葉で突き放すことができるってのに。
「……嫌いだ、お前」
「うん。俺は好きだよ」
「知るかぁ。私は嫌いだ。嫌いだぁ」
なんだか気が遠くなってきて、頭もぼんやりしてきて、それでそのうち自分が何を言ってるのかも分からなくなってくる。
イケメンの顔も、自分の気持ちも、そうして微睡みの中へと溶け出していってしまうのであった。
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