首筋の傷

明通 蛍雪

第1話

「イッテェ!」

「えっちゃんのバカ!」

 少女はそう言って走り去っていく。

 夕方の公園に青年は一人残された。もう日が落ち街灯が一本だけ点いている。青年以外に人のいない公園には、使えなくなったブランコと薄汚れた滑り台がある。

 青年は痛む首筋を手で抑えながら家に帰った。青年の首筋には赤くミミズ腫れが出来ている。

「引っ掻くことないだろ」

 少女に引っ掻かれた傷がヒリヒリと痛む。だがそれ以上に、青年は胸が痛んだ。

「もう少し、早く言えば良かったかな」

 青年は少女に対する罪悪感で胸がいっぱいになる。

 明後日にはこの街を去ってしまう青年は、近所の友達に引越しのことを伝えた。本当はもっと早く言うつもりだったのに、青年は言えずに今日まで過ごしてしまった。

「明日、謝れるかな」

 引越しの日までの猶予は明日しかない。当日は引越しの手伝いで忙しくなり、遊んでいる暇はない。

 青年はなんと謝ろうか考えながら家に帰った。


「えっちゃんのバカ!」

 頭の中でその言葉は繰り返される。

 少女は後悔と罪悪感で胸が押し潰されそうだった。

 引越しのことを聞かされた少女は、頭が真っ白になって青年に掴みかかった。行って欲しくなくて、必死に止めようとした。

 そんなことは無意味だと知っていたのに、少女は青年を傷つけてしまった。

「えっちゃん、怒ってるかな」

 泣いて腫れた目。涙の跡が残る頬。少女は家に帰る途中で足を止めた。

 今から戻って謝ろう。そう考えたが、足は振り返ってはくれない。謝りたい。会って話がしたい。こんな別れ方は嫌だ。そう思う反面、怒られるんじゃないか。嫌われたんじゃないかという考えが浮かび、思うように動けない。

 少女は結局、そのまま家に帰りもう一度泣いた。

 意気地のない自分が嫌いになる。少女は暗い部屋で膝を抱える。少女の部屋からは綺麗な満月が見える。カーテンの隙間から漏れた明かりが床を照らしている。

「えっちゃん、いないかな?」

 道路を挟んだ少女の家の斜向かい。そこには青年の住んでいる黒い壁の家がある。二階のベランダのない部屋が青年の部屋だ。

「いないよね」

 青年の部屋に明かりはついていない。一階にあるリビングにいるだろう青年の姿を想像した少女は、諦めたようにカーテンを閉めた。

 月明かりすら入らなくなった暗い部屋で少女は不貞腐れたように眠りについた。


 あの日、少女と喧嘩をしてから一日が過ぎた。部屋から見えるピンク色のカーテンは閉め切られている。

 青年は家を出て少女の元へ向かう。家のチャイムを押せば少女が顔を出してくれる。そう信じている青年は、しかし覚悟を決めることができなかった。

 あの日、青年を引っ掻いた少女は泣いていた。その表情が頭から離れない青年は、もう少女に会う資格などないのだと諦めてしまった。

 家のチャイムに伸ばしかけた手をポケットに突っ込み、何事もなかったかのようにその場を離れる。

 家に帰る気分じゃなかった青年は公園に向かった。昨日少女と別れたあの公園に。ブランコと滑り台しかない寂しい公園は、まるで今の少年の心の中のような雰囲気を持っている。

 青年は二人がけのベンチに腰をかけ、何をするでもなくぼうっと空を眺める。

 秋の青い空には昼過ぎの太陽が登っている。雲が全くない快晴は青年のいる公園と対照的に澄んでいる。

「えっちゃん?」

「え?」

 ふと、青年の耳に声が届いた。振り返ると公園に沿う道を少女が歩いていた。

 少女は声を出すつもりがなかったのか、はっとしてすぐに走り出した。

「おい!」

 青年は慌てて追いかける。何の用もないが、ここで別れてはいけない気がして青年は走った。

 少女の腕を捕まえた青年は声をかける。

「昨日は、ごめん」

「何のこと」

「引越しのこと」

「……」

 少女は答えない。きっと口を結んだ少女は今にも泣き出しそうな顔で俯く。

 少女の背中しか見えていない青年は、少女の様子に気づけない。

「もっと早く言うべきだった」

「えっちゃんのバカ」

「ごめん」

 少女は振り向き青年の顔を見つめた。

「私もごめんなさい。引っ掻いちゃって」

 少女の手が青年の首に触れる。

「ごめん。明日、行くよ」

「うん。忘れないから。私」

「俺も、忘れない」

 首筋に添えられた手に自分の手を重ねる青年。

 首筋にはミミズ腫れがある。

 二人の手の中で傷は消えていく。共有された思い出は消えずにいつまでも二人の中に残り続ける。

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首筋の傷 明通 蛍雪 @azukimochi

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