ハルピュイアは鳥かごで一夜の夢を見るか

真名瀬こゆ

少年は醒めない夢を見続けていた

1

 人類は絶滅の危機に瀕している。




2

 少年、守屋もりや一夜ひとよは今日で十一歳になる。

 一夜は周りには水平線しか見ることのできない孤島で生まれた。その日から今日という日まで、彼は島から一歩たりとも出たことはない。島を囲う海に足を沈めることすらもしたことがなかった。


「一夜くん、お誕生日おめでとう」

「おめでとう。素敵な一年になりますように」


 白衣を着た大人たちが、すれ違う度に一夜に祝いの言葉をかけていく。




3

 一夜は自分の住むこの島を、人類を滅亡させるための兵器を作る島なのではないか、と考えていた。

 そう思い始めたのが何歳の頃だったかは覚えていない。ただ、秘めて抱いた妄想は膨らむばかりで、一向に興味が削がれることはなかった。


 事実、一夜が育った島は世界の常軌からは外れた無法の島である。

 日本海に浮かぶ孤島には村が一つ、人口は千八百六十一。島の敷地の半分以上が生物研究所であった。この島に外部との連絡手段はない。あったところで使う機会は無いだろうが。


 ここはただでさえ不可思議の島であり、一夜が物騒な想像をしてしまう原因に溢れている。その中でも突出した原因はハルピュイアだ。

 この島ではハルピュイアが人の手によって飼育されていた。


 ハルピュイア。


 顔から胸までが人間の形をしていて、それ以外は鳥の姿をした生き物。人間でいう腕が生えているところには翼が生えていて、手や足の代わりに鉤爪がついている。翼の色は個体によって違うが、どれをとっても色鮮やかだった。




4

 一夜は“鳥かご”が好きだった。

 鳥かごといっても、手乗りのインコを飼育するような小さなものではない。この島の中で“鳥かご”という名称が示すのは、建物群の外れに建てられたガラス張りの温室のことだ。

 円柱型の建物は天井が中心に向かって収束するように柱が建てられている。名前の通りに丸型の鳥かごのかたちをしていた。温室の中では多種多様の植物が育っていて、どこを見ても緑、緑、緑。木や草や花が所狭しと生い茂っている。


 そして、そこには一夜の唯一の友人が住んでいた。

 友人と言っても、鳥かごの壁を越えて会ったことはなく、名前も知らないし、話したこともない。ガラス越しに姿を見るだけ。一夜は鳥かごの中に入る事を許されていなかった。

 しかし、今日は違う。

 記念すべき十一歳の誕生日、一夜は初めて鳥かごに入ることを許されたのだ。友人の名前も教えてもらえた。

 ガラスの壁越しにしか出会えなかった友人との初対面。一夜の心は浮足立っていた。


 入口の扉は全部で三枚。一枚目は個人のIDカード認証で開き、二枚目は網膜認証で開き、三枚目は指静脈認証で開く。実のところ、一夜には入室制限など元から設けられておらず、今までも入ろうと思えば入ることは可能だった。もちろん、不許可入室がばれれば問題とされてしまうが、セキュリティの突破は可能だった。


 一夜ははやる気持ちを抑えきれないように体を揺らし、突撃するように三枚の扉を越えて鳥かごへと足を踏み入れる。

 むせ返るほどの緑のにおい。常夏のような気温に設定された人工の森林。

 一夜は軽やかな足取りで鳥かごの中心へと走った。


「アルバ!」


 黄金の翼を持つハルピュイア。


 一夜にアルバと呼ばれたハルピュイアは、髪も瞳も金色をしていた。絹糸のように上質な艶のある髪の毛はするりと細い肩の上を滑り、宝石を砕いて敷き詰めた瞳はどの角度から見ても煌めいている。

 鮮やかな黄金の翼が招くように開かれ、ふわりと風が舞う。アルバの首にかけられたくすんだ色の認識票が、太陽の輝きを浴びて眩しく輝いた。


 ハルピュイアは耽美の化身と言ってもいい。

 世にも美しい生き物である。


「今日は僕の誕生日なんだ。アルバ、お祝いの歌ってくれないか」


 一夜はハルピュイアは歌を歌う生き物だと教わっていた。

 初めて聞く声は思い出に残るものが良かった。だから、少年は美しき化け物に歌って欲しいと頼んだ。




5

 ハルピュイアの歌声は人を殺す。




6

 少年、守屋もりや一夜ひとよは今日で十一歳になる。

 一夜は周りには水平線しか見ることのできない孤島で生まれた。その日から今日という日まで、彼は島から一歩たりとも出たことはない。島を囲う海に足を沈めることはしたことがあるが、泳いだことはなかった。


「一夜くん、お誕生日おめでとう」

「おめでとう。素敵な一年になりますように」


 白衣を着た大人たちが、すれ違う度に一夜に祝いの言葉をかけていく。




7

 ハルピュイアの目には、人間の雄が繁殖可能な状態だと見極める機能がある。しかし、それはまったく正しい機能ではない。

 精通をしていなくても、肉体が十一歳であれば、必ず繁殖可能な状態と認識してしまうのだ。

 また、どうやって十一年を生きた肉体だと判別しているのかは不明である。




8

 一夜の十一歳の誕生日は、彼にとって忘れられない日となった。


「なんで黙って鳥かごに入ったんだ!!」

「ごめんなさい、お父さん!」


 許可もなく鳥かごに足を踏み入れたことが、守屋もりや常夜とこよにばれてしまったのだ。守屋常夜は一夜の管理者ではあるが、父親ではない。

 常夜はこの島に住む皆から「守屋主任」と呼ばれていて、いつもくたびれた白衣を着ていた。ぼさぼさの白髪交じりの髪、ビン底のような眼鏡、カフェインで黄ばんだ歯。常夜は四六時中、机にかじりついているような偏屈な研究者だ。


 常夜は愛想とは無縁の人で、一夜と顔を合わせても「健康か?」とぶっきらぼうな言葉しか口にしない。

 であるから、今、一夜は酷く驚いていた。常夜からこんなに感情的な言葉を向けられるのは初めてのことだっだからだ。圧し潰そうなほどの力で腕を握られるのも当然に初めてだった。


「あれほど入ってはいけないと言い聞かせただろうに!!」

「っ――、ご、ごめんなさい。こんなに、怒られることだと、思わなくて」

「答えろ!! どうしてだ!!」


 空気を震わせる怒声。常夜が一夜の腕を掴む力は更に強くなっていく。

 一夜は湧いて出る涙を止められなかった。勝手に零れたそれはぱたぱたと研究室の床を濡らす。


「と、友達が、いて……」

「友達――?」


 友達も何も、あの鳥かごにいる生き物は一匹しかいない。


「まさか、お前……」


 常夜は驚きに目を見開くと、ゆっくりと掴んでいた手を離した。そして、その手を一夜の肩の上に置く。

 噛み締めるように「その友達の名前は?」と尋ねた。皺の寄った額に汗が伝っている。刮目した目は血走っていて、きろきろと痙攣するように揺れていた。


「あ、アルバ」


 その名前が飛び出した途端、一夜の肩が悲鳴を上げた。骨が圧迫される不快な音。


「痛っ――!」

「いつ名前を知った!?」

「は、は――、あの――」

「いつだ!!」

「は、初めて、会った時に」

「初めて……? あのハルピュイアに接触していたのか!? 中に入ったのは今日だけじゃないんだな!?」


 アルバの名前を知る方法は二つ。

 一つは厳重に保管され、権限がなければ見ることのできない秘匿の研究資料を見ること。もう一つは、鳥かごの中に入り、ハルピュイアの首にかけられた認識票を見ること。

 まだ十一歳の一夜に研究資料を見る権限などあるわけもなく、彼がアルバの名前を知る方法は実質一つしかない。


「そ、それは――っ、お父さん、ごめんなさい! 本当にごめんなさい!!」


 一夜は自分はなんてことをしてしまったのか、と後悔していた。謝罪の言葉を繰り返しながら、目玉が溶けてしまいそうなほどに熱い涙を零す。


「……歌は?」


 その質問は掠れた声で発されたというに、一夜の耳にはやけに明瞭に聞き取れた。


「歌を聞いたのか?」

「き……、聞いてない」


 一夜が今日、鳥かごに行った目的は、ハルピュイアの歌を聞くためだった。

 ハルピュイアにとって人間の成人は十一歳で、その年を越えた人間を前にするとハルピュイアは歌を歌ってくれるようになる、と常夜から聞いていたからである。

 しかし、一夜の期待は裏切られた。


「頼んだけど、歌ってくれなかったから」


 意気揚々と出かけて行ったというのに、アルバは歌を歌ってはくれなかったのだ。その時の一夜の落胆といったらない。更には、こうして鳥かごへの無許可侵入を常夜に怒られ、踏んだり蹴ったりの気持ちだった。


「……分かった。お前はもう休みなさい」


 常夜はぷいと一夜から顔を背けると、自分のデスクに戻り、この世の終わりかのように頭を抱えた。ぶつぶつと独り言を口にし、がたがたと貧乏ゆすりをして机を揺らす。丸まった背中は、話しかけるなという強い拒絶を主張していた。


 その日から、一夜は鳥かごへ入るどころか、鳥かごのある区画へ行くことすらも禁止されてしまった。




9

 ハルピュイアが歌うのは人間の女性の前か、繁殖可能な状態にある人間の男性の前だけだ。これには、ハルピュイアの繁殖方法が深く関わっている。




10

 青年、守屋一夜は今日で二十一歳になる。

 一夜は周りには水平線しか見ることのできない孤島で生まれた。その日から今日という日まで、彼は島から一歩たりとも出たことはない。泳ぎの練習は室内プールで行った。塩素の入った淡水でしか泳いだことのない彼は、海水がどんな味かを知らない。


「一夜くん、お誕生日おめでとう」

「おめでとう。素敵な一年になりますように」


 白衣を着た老人たちが、すれ違う度に一夜に祝いの言葉をかけていく。




11

 一夜は十年ぶりに鳥かごを訪れていた。

 鳥かごのある区画への入場禁止命令が解かれたのだ。しかし、鳥かごの中に踏み入ることはまだ許されなかった。できるのはガラス越しに中を覗くだけ。

 当然ながら、人を殺す歌を歌う化け物の住まう建物の壁であるから、内と外を隔てるのは防音の分厚いガラスである。

 鬱蒼とした緑の中、佇む美しい金色の翼。一夜が十年前に見たのと寸分たがわぬ煌めき。


「アルバ」


 一夜はガラスの壁にぺたりと手を付ける。つるりとした感触意外に伝わってくるものはない。


 不意にアルバの金色の瞳が一夜へと向いた。砕いた宝石のように輝く瞳も健在だ。

 一夜を見つけた途端にふわりと飛んできたアルバは、一夜と手を合わせるように鋭い鉤爪でガラスをひっかいた。きっと、ここが鳥かごの中であったなら、耳障りで不快な音が聞こえていたことだろう。


「君は変わらず綺麗だ」


 一夜は柔らかく視線を細める。愛情のまなこ。すり減るどころか、焦がれて濃くなった親愛。


「今日は僕の誕生日なんだ。アルバ、お祝いの歌を歌ってくれないか」


 十年の時間を経て、一夜はハルピュイアについて随分と詳しくなっていた。

 ハルピュイアが歌を歌うのは本能的な行動で、人を前にすると呼吸をするのと同じくして歌を歌う。そして、その歌を聞いた人間は絶命する。

 あの日、勝手に鳥かごに入った一夜に、常夜が激昂した理由を今の彼は知っている。そして、怒られて当然だったと反省していた。


「……君の歌はやっぱり聞けないんだね」


 アルバの口が開くことはなかった。

 しかし、十年前と違い、一夜は悲観していなかった。むしろ、その表情は歓喜である。


 ハルピュイアが好意のある相手の前では歌わない、ということを知っているからだ。




12

 アルバの七号が死んだ。




13

 一夜は世にも恐ろしいものを見てしまった。


 ハルピュイア――アルバを日本の本土に放つ、という作戦書類だ。本土に生きた人間はいないが、それを知らない一夜には大変な事態だった。


 常夜のデスクに無造作に置かれていたそれを目にしたとき、一夜はこの世の終わりかというくらいに愕然とした。血の気が引き、視界が揺れる。浅くなった呼吸を繰り返し、必死に印字を追った。

 書類にはアルバを兵器とする旨が書かれていて、アルバの輸送係には一夜の名前がある。


 二十一歳になった一夜は、生物学を学びながら、常夜の助手として仕事をしていた。この閉鎖された村には学校は小中高一貫校が一つしかない。それより先は働きながら職場で学ぶのが基本であり、一夜も例に漏れずであった。


 一夜は優秀な助手だったが、常世に意図的に知らされていないことがあった。現在の世界の情勢と、ハルピュイアの生殖についてである。




14

 人間が病気にかかるように、ハルピュイアも病気にかかる。




15

 一夜の決心は固かった。

 アルバを兵器にしたくない一夜は、アルバと共にこの島から逃げ、別の島で暮らすことを画策した。いわゆる、駆け落ちをする覚悟を決めたのだ。

 脱走の準備をするのは簡単だった。一夜は元の作戦の通りにこの島を出る準備をした。怪しまれず、堂々と食料や観測器具などの荷物を積み込み、暇があればクルーザーの運転を練習した。


 アルバを本土に放つ作戦が決まった後、一夜には鳥かごの中への入場許可が下りていた。アルバを連れ出すために、鳥かごに入ることが必要だからだ。

 一夜は三重のセキュリティを越え、常に夏である鳥かごの中へと飛び込む。身体を包む熱気と、自分が規律を侵している不安と、愛しい人を迎えに行く高揚から、体中の汗腺が開ききっていた。体中の水分が飛んでいくようである。一夜はこのままミイラになってしまってもよかった。彼の頭にあるのはアルバのことだけだ。


 アルバは変わらずに鳥かごの中心にいた。

 夜闇でも陰りがない黄金の瞳は一夜を見つけ、ぎらぎらと劣情を孕んで一際に強く輝く。恥じらいのない本能。

 一目散に飛んできた化け物を、一夜は力強く抱きとめた。


「アルバ、一緒に逃げよう!」


 作戦の前夜――、つまり今夜、一夜はアルバとともに島から逃げ出した。




16

 小型のクルーザーは小さな孤島の浜辺に乗り上げるように着岸した。島には既に同型のクルーザーが一台止まっている。一夜が昨夜に運転してきたものだ。


 後から着いたクルーザーには二人の人間が乗っていた。中年の女と若い男。

 二人は歩くのも億劫になりそうな防護服を身に着けている。それはまるで宇宙服で、人間が生きるのは不適合な場所へ突入する装備だ。

 何もおかしくはない。この島はハルピュイアの生息区域なのだから。


 女は短い掛け声とともに浜辺に飛び降りると、ずんずんと島の奥に向かって進んでいく。

 足音は一つだけ。女はついてこない男に振り返ると「何をそんなにびくついてるんだい」と小首を傾げた。声は防護服に搭載された通信用のスピーカーから聞こえるもので、わずかに機械音のノイズが混ざっている。


「そりゃビビりますよ! こんなにハルピュイアの死体が転がってたら!」


 海岸には白い砂浜を隠すように、ハルピュイアの屍骸が重なっていた。

 肉の腐った酷いにおいが立ち込めていたが、防護服の前には無意味である。極彩色の翼だけを見れば、そこは七色の花畑のようだった。

 とはいえ、褒められるのは色だけだ。

 ハルピュイアの姿はどれも悲惨なものである。世にも美しい生き物の片鱗はなく、白目を剥き、泡を吹き、ぐたりと転がっている様は中々の地獄絵図だった。


「むしろ安心すべきところだろう。この島のハルピュイアは死滅している可能性があるということだ」


 女は高揚していた。

 これは吉兆である。ハルピュイアの死体が積まれているということは、彼女たちを死に至らしめる何かがあったということなのだから。


「先に行くぞ」

「まっ、待ってくださいよ! 置いていかないで!」


 男はもたもたと着陸すると、重い防護服を引きずるようにして女へと走り寄った。




17

 島から逃げ出すことは簡単だった。島から海へ行くのには何の警備もない。島から逃げ出そうという人間がいないからだ。


 深夜、満月の光に導かれるように、一夜とアルバは一つの島に辿り着く。一夜が育ったのよりも随分と小さな島だ。

 月夜の白い浜辺はまるで闇に浮かぶ雲のよう。一夜はアルバとともに砂浜へと降り立つ。柔らかな砂に一夜の足は沈むが、滞空するアルバには関係ない。


 アルバはしなだれかかるように、一夜の身体を砂浜へと押し倒した。仰向けに寝転んだ一夜の上に、アルバは下半身を押し付けるように馬乗りになる。求愛と発情の動作。


「アルバ――」


 一夜の指先がアルバの頬に触れる。

 人間の肌とは違う。硬い皮膚はざらざらとしていて、撫でれば指先が引っ掛かりを覚える。温かくもなく、柔くもない。どうしたって異形であるのに、一夜はそんな化け物が心から愛しかった。

 白んだ月光に染められた翼は神秘的に輝いていた。夜に浮かぶ太陽のようだ。アルバは翼をいっぱいに広げ、一夜を世界から隠す。


 交わせる言葉はなかったが、そんなもの必要なかった。視線を交わらせるだけで気持ちが伝わるようだった。

 二人だけの世界で、二人だけの愛を確かめるように、二人はお互いを貪るように身体を重ねた。

 一夜はセックスをするのは初めてだったが、本能のままに動くアルバに任せているだけで、淀みなく事が進んでいった。子供を作るための行為。種族を越えた愛。一夜の目には感極まった涙が浮かんでいる。


 ふと、一夜は肌を刺すような気配を感じ、顔をひねって視線を巡らせた。視線が交わる。


「ひっ――!」


 無数の瞳が爛々として、一夜とアルバを見ていた。

 ハルピュイア。

 この島はハルピュイアの生息地。人間が足を踏み入れてはいけない場所だった。

 闇に浮かぶ宝石はちっとも美しくはない。ぎょろぎょろと蠢く不気味の目玉は、アルバの翼に隠されていた人影を見つけると、当然のように口を開いた。

 歌だ。


「っアルバ! 君の歌が聞きたい……!」


 一夜は自分を死に至らしめるのはアルバの歌声であって欲しい、と彼女に縋りついた。こんな状況で死を避けられないことは分かりきっている。それならば、いっそ、せめてもの願い。

 アルバは大きく口を開く。


「――――」


 彼の耳に届いたものは歌でもなんでもなかった。

 何なら、音でもなかったのだが、それを理解できるほどの意識はもはや一夜には残されていない。アルバでないハルピュイアの歌が彼の頭の中をかき混ぜていた。


「アルバ。君が兵器に、されるなんて、逃げて――」


 アルバはがぶりと一夜の首筋に噛み付く。人のものではない鋭い歯はぷつりと薄い皮膚に穴を開け、そのまま肉を裂いて突き進んでいく。とろりと溢れた赤い血は、薄く長い舌で舐め取られた。


「僕は、君が――」


 ぱくり。愛を語る口はアルバの口の中へと消えていった。




18

 今日から私は禁忌の実験を始める。それは非人道的なものかもしれない。しかし、もはや人道など誰が判断するというのだ。

 これは人類のための研究であり、個人の探求心を満たすためではないことを、ここに記す。




19

 この島で生存するハルピュイアはたった一匹。

 鬱蒼とした緑を分け入るように進んだ先、太い木の枝に悠然と腰掛ける美しき化け物の姿。

 女の目は子供のように輝き、男の目は怯えに歪んだ。


「アルバ……」


 黄金の翼を持つ美しきハルピュイア。

 艶やかな翼は空気を撫でるように妖しく動く。

 太陽のような瞳は二人の人間を見つけると歌を歌い始めた。人を殺める歌。とはいえ、防護服に守られた二人の鼓膜を揺らすことはない。


「一夜君が逃げたと聞いた時はどうなるかと思ったが――、実験は成功だ。あれこそ、人類の希望」


 女は恍惚とした表情で熱い吐息を漏らす。甘い吐息はまるで男を誘うような情欲に塗れたもので、通信機を通していても男の耳をくすぐるには充分だった。若い男はぞわりと背筋を震わせる。


「守屋主任は喜ばれるだろうな。君もそう思うだろう?」

「あの……、俺、守屋主任のこと、よく知らなくて……」


 女は片眉を上げて意外そうに目を丸くした。そうしたくもなる。守屋常夜は島でも一、二を争う有名人なのだから。


「ハルピュイア研究の第一人者で、ハルピュイアを絶滅させるための病原体を研究している生物学者だよ。日本がハルピュイアに占拠されてから、何年も一族で研究を引き継いできたそうだ」


 男はきょとんとして女を見つめた。上手く話を呑み込めていなかった。


「それがとうとう完成したってことさ」

「……えッ!?」

「なんだ。ここに来るまでに山ほど見ただろう。ハルピュイアの屍骸を」


 男は歌を歌い続けるアルバと、周りに転がっている死体とを何度も見比べる。それから、女に視線を向けると「これ全部、あのハルピュイアが殺したんですか!?」と声をひっくり返した。


「正確にはあれはウイルスキャリアで、ハルピュイアを殺したのは守屋主任が作ったウイルスだよ」

「え……、は……、ハルピュイアを、殺す、ウイルス……?」


 男はようやくと自分が奇跡を目撃していると気付く。

 ハルピュイア――、突如、世界に現れた美しい化け物、人類を絶滅の危機に追い込んだ化け物。それを殺すことができるという驚天動地の発明。


 男ははっとしたように顔を上げた。きょろきょろと何かを探すように当たりを見回す。


「あの、一夜さんは、大丈夫なんでしょうか?」


 男が慌てたのは、この島に来る前に聞いた報告では、逃走者はハルピュイアを連れた守屋一夜と知らされていたからだ。

 アルバが歌を歌っているため、彼が聞いてしまってはまずいと思い付いた。男の心配をよそに女は素っ気なく相槌を打つ。


「ああ、喰われたんだろう。アルバの腹を見ろ。妊娠兆候が出ている」

「くっ――喰われた!?」


 男はびびびと電撃が走ったかのように飛び上がった。


「なんだ、守屋主任どころか、ハルピュイアの繁殖方法も知らないのか?」

「……僕、研究職じゃないですもん。研究所で働いてますけど雑用ですよ。今日だってクルーザーが運転できるから駆り出されただけで」


 男は居心地悪そうに肩を竦める。無知なことを恥じていた。

 島では高校を卒業する時に行われる適性検査で就職する先が決まる。男は何の取り柄もなく、選択肢も与えられず、誰にでもできる仕事に就いたのだ。


「ハルピュイアには雌しかいない。人間の雄を捕まえて繁殖をするんだ。ハルピュイアは生まれた時点から生殖が可能でな。生殖器は構造としては人間の子宮と似ている。ただし、子宮には常に卵子があり、射精されると必ず受精する」

「へ、へえ」

「その際につがいになった人間の雄を食す習性があるんだ」

「な、なんでですか?」

「他のハルピュイアにつがいを取られないためだ」

「……バイオレンスな嫉妬ですね」


 アルバは妊娠している。

 男はハルピュイアとセックスした一夜のことも、セックスした相手を食べるハルピュイアのことも、どちらも同じくらい気持ち悪いと思った。不可抗力に鳥肌が立つ。男はがさがさと腕を擦った。防護服で防護服を擦るだけであるが、やらずにはいられなかった。


 女がどんな疑問にも答えてくれると分かった男は「どうして一夜さんは、あのハルピュイアに殺されずに連れまわせたんですか?」と続けて尋ねる。


「ハルピュイアにも生殖相性があり、つがいになりたい人間の前では殺さぬように声を出さない習性がある。死んだ男とは性交できないからな。性交するまでは仲良しこよし、手を取り合って生きていられるわけだ」


 聞いてみれば当たり前の答えだった。


「帰るぞ」

「え――、あのハルピュイア、置いていくんですか?」

「この島からなら本土までハルピュイアの翼で飛んでいける。この島に火をつけて燃やしてしまえば、嫌でも飛んでいくさ」

「そんな雑な作戦で大丈夫なんですか?」

「ハルピュイアは妊娠をすると食欲が増進するんだ。こんな何もない島で出産をしようとはしないよ。それに、アルバの追跡は元の作戦班が行う」


 言うが早いか、女は手近な草に火をつけて回る。周りを巻き込んで大きくなっていく赤い炎は、ゆらゆらと揺らめく。まるで羽ばたくハルピュイアの翼のようだ。


「これ、守屋主任になんて報告すれば」

「報告は私からしよう。君のことは同行者として連名にしておくよ。名前は?」

「守屋一夜です」


 女は男の名前を聞くと、ぱちくりと目を瞬かせた。それから、くすくすと控えめに喉で笑う。


「そうか、君も守屋一夜君というのか」

「ええ」

「君は幸運だったな」


 一夜は女の言っている言葉の意味が分からなかった。




20

 三十二号の守屋一夜が死んだ。

 九号のアルバが妊娠した。




21

 生態調査のために検体を捕えた。しかし、捕獲のために二人の犠牲者が出てしまった。その死を無駄にしないことをここに誓おう。


 この検体でハルピュイア特有の病原体について研究をすることにした。

 感染力が強く、死に至るものが望ましい。しかし、この検体がウイルスキャリアになるまで、どれくらいの年月がかかるだろうか。いいや、弱気になってはいけないな。

 これをアルバシリーズと名付ける。


 まず、アルバの零号には子供を産んでもらわなければ。研究に使うのは子供の方とし、零号は母胎として隔離する。そうと決まれば、つがいとなる人間が必要だ。

 つがいになる人間は、ウイルスキャリアのキャリアにもなる。

 人体での妊娠、出産では親に情が生まれ、人道に走るかもしれない。有志に卵子の提供を依頼しよう。精子は私のものを使えばいい。

 人工子宮を人口増加研究チームから借りれないか、早速打診しなくては。

 すべては私の罪だ。戒めとして、それを一夜シリーズと名付ける。


 ――ハルピュイア駆除研究チーム 守屋一夜

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