虎兎 龍

臆病者

彼女が昨日から動かない。

約一年前から私が自宅で飼っている80cm程のボールパイソンは一昨日の朝まで動いてた。黄色の身体に茶色の斑を背負ったプリンの様な彼女。そして今朝、昨日の朝確認した場所から動いていない。90cmのガラス製のゲージ、手前側に丸まったままだった。

私はその事実が恐ろしくて認められずにいる。眠ってるだけかも知れないし、寒くて冬眠や仮死状態なのかも知れない。検索エンジンの画像一覧でよく見る蛇は伸びたりひっくり返ったりしている。

けれど、本当に死んでいたら肉は数日で腐るだろう。冷凍して骨格標本やホルマリン漬けにしようか、生ゴミと共に捨ててしまおうかすら迷う程愛憎を極めていた。


ペットなんていうものは食用の家畜以下だ。命の糧になることなく一方的な愛玩を受ける為に品種改良され、希少性や美醜の優劣によって生死の判決を下される。例え選ばれた所で自由は無いに等しく、人間の都合に合わせて扱われる。傲慢の極み、冷酷非道、鬼畜の所業の様に感じる。ペットを飼っておきながら動物愛護を語る者は狂気的だとすら思う。

私にとって蛇は私を構成する一部だった。私の感性によって選ばれ、日常に溶け込み、誰かが私を思い起こす時には付随して思い出され、私が死ねば生きられない手足の延長線上にある部位。


ある日、私は解凍した餌用の鼠の揺らし方を間違えたらしく、初めて彼女に手を噛まれた。「ガリ」と音がしたような気分になる鋭い痛みだった。深夜にも関わらず大きな声を上げてしまった。反射的に手を引いたら、ガラスの扉に彼女の体が擦れる音がして漸く噛むのをやめた。一瞬の出来事ではあったが、実際は体を擦ってまで噛むのをやめなかったのだ。手を引かない方が痛くなかったのでは思える程の体感時間だった。慣れた飼育者は蛇をぬるま湯に浮かせて力を抜かせたり、勝手に離すまで噛ませておいたりするそうだ。私が反射的に手を引っ込めたという事は彼女に噛まれる覚悟が無かったのだろう。実害としては人差し指から血が少し出た程度で、ピアスやタトゥーに比べたらなんて事は無い痛みだった。驚愕の後は怒りが湧いて来た。「何故彼女は愚かなのだろう」等と下らない事を思った。そして数秒で「嫌われている」という悲しみが膨らんだ。

蛇どころか爬虫類全般、人に懐くものではない。馴れても慣れない、基本である。好かれずとも無関心程度に成れれば十分なのだ。「嫌われている」のは当たり前の事で、蛇は人間になど触れて欲しくない。噛まれた事だって殆ど事故である。解っていても、私の感情がもう駄目だった。

私はそれからというもの、恐ろしくて彼女に触れられなくなった。もっと大きくなったら筋力で負けてしまうのに嫌われたままだったらどうすればいいんだ。また噛まれたら対処出来ない。大きくなる前に売ろうかとも考えたが、愛とも呼べない執着心で売る事も出来ず、餌すら与えられず、水替えすらも頻度を落とした。それでもガラス越しに蠢く彼女の姿を見て「今日も生きてる」と安心していたし、給餌出来ない罪悪感に「ごめんね」とすら謝っていた。何様なんだ。それと同時に、彼女が生きている事が怖かった。気付けば噛まれた日から三ヶ月も経っていた。


恐らく餌ではなく水が原因だと思う。蛇は半年くらい食べずとも生きられるから。そんな事は今更どうしようもなくて、私は悲しみや自己嫌悪に暮れている訳だけれども、やはり私は最初から最後まで傲慢だ。罪悪感なんてどの口が言ってるんだ。筋違いだ。罪なんて概念は社会あっての概念だ。ハブは駆除してボールパイソンは可愛がるのか?蚊やゴキブリは殺して蝶は標本にしてカブトムシは育てる。切られた花は吊るして干され、魚は小さい水槽で国際交流させられる。私のこの残酷な倫理観はいつ植え付けられたのだろう。

頭では理解しているのに自己否定が大好きな自分が社会性を引っ張って来て「お前は最低だ」「給仕しないのは虐待なんだぞ」「自分の子供が生まれても同じ様に殺すのか」と囁く。そしてペットへの倫理観は「人間に飼われるより死んだ方が幸福だったよ」と慰める。そんなのは詭弁だ。同時に、私も死にたいという願いが私の中で破裂してしまいそうな勢いで膨れ上がった。社会というゲージの中で生の苦しみを今正に味わっている。祖父が病に伏した時、羨望に泣く程に私の無意識は死を願っていた。誰か私を罰してくれ。許してくれ。解放してくれ。救ってくれ。蛇が原因じゃない、元々私に眠っていた希死念慮が目を覚ましただけだった。


私はSNSで見かけた骨格標本の職人にメールをした。彼の商品は直ぐに売れる。きっとまた誰かを満たす人間の道具になるのだと考えると、人間の業の深さを完遂出来る様な気持ちになった。開き直るのではなく、人間は人間の傲慢さを認めて漸く謙虚になれるのだと思う。自信の無さや主張の少なさを謙虚とは呼びたくない。そして己の傲慢さに無自覚な人間は手に負えない。当人は本気で善意を語るのだ。卑怯にすら思える。

私の蛇は最初から道具だった。コミュニケーションなんて取れやしないし、狭い箱の中でインテリアの様に飾られていた。標本にされる事とどれ程の差異が有るのだろう。蛇を骨にする作業を彼の動画配信で見た事がある。キッチンペーパーの上で三枚下ろしされた魚のような蛇の背骨を思い出す。ドライフラワーや昆虫標本や化石を部屋に飾る私にとって、生物は死んでいる方が美しいなと気持ちを改めた。


これで駄目なら可燃ゴミに出そう。彼女を自室に飾れる程、私は強くない。そう言い聞かせてベッドに沈み込んだ。

眠りに落ちる直前、公園で蟻を踏み潰しながら「何故人を殺してはいけないのか」と呟いた友人を思い出す。

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虎兎 龍 @yurixtamura

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