第29話 疑惑の飲み会
体力的には限界突破状態で、やれやれ、と佳弥はビルの壁にもたれた。人影には簡単に逃げられてしまったが、佳弥としてもこれ以上走ったり叩いたりは勘弁である。身の回りが安全になったようで、一安心である。
「佳弥ちゃん、一体何があったんだ?」
幸祐がライトセーバーのスイッチを切りながら、佳弥に尋ねた。
「時間過ぎても佳弥ちゃんが来ないから、絶対おかしいと思って探したら、いきなり襲われてるんだもんな。俺、ビビったよ。」
「すみません、遅刻して。」
「いいよ、そんなこと。俺なんかいつも遅刻だし。それより、どうしてこうなってたのさ。」
佳弥は、ちょっと言い辛そうにしながら、いきさつを簡単に説明した。本日のところ佳弥が先手を打ってしまったのは、佳弥としては手痛い失態である。中野にも、マーラ・ルブラに手を出すなと言われていたのに、やってしまった。魔のせいにしたいところだが、実際にどうなのかは分からない。あれだけ店内に魔があふれていたのだから、影響されていてもおかしくないとは思うが。でも、ちっこいオバサンと悪しざまに言われたら、またやらかすような気はする。要は、その一言は佳弥のツボを突くのである。
幸祐は一通り聞き終えると、むすっとした表情で佳弥を見た。
「なあ、俺、佳弥ちゃんに言ったよな。一人で行動するなって。」
「はい。」
「自分が狙われてるって自覚、あるか?佳弥ちゃんは変身すると体力落ちるし、何かあったら一人で対処できないことくらい、自分でも分かってるだろ。そんなに我慢できない子だとは、思ってなかったよ。」
親に叱られているようで、佳弥は面白くない。が、返す言葉も無い。佳弥は上目遣いで幸祐を見た。いつもは丸いどんぐり眼が少し細められて、しゃっきりした顔つきだ。どうやら、怒らせてしまったらしいな、と佳弥は推察する。佳弥が単身でマーラ・ルブラに殴り込みに行ったならいざ知らず、今回の騒動はそれほどのことではないし、そんなに心配させたとも思えないのに、と佳弥は少し意外に感じる。
だが、まあ、叱られるのは仕方がない。今回ばかりは落ち度が佳弥にある。面白くない気分は横に置いておいて、佳弥は殊勝に頭を下げた。
「すみません。ご心配をおかけしました。」
「分かればいいよ。でも、本当に気を付けろよ。どうしても一人で動かなきゃいけなくなったら、ちゃんと連絡を入れるように。」
「はい、そうします。」
確かに、居酒屋で張っているときにメッセージくらい入れておいた方が良かった。時間もあったし。佳弥は己の過ちを素直に認めた。今後、があればの話だが、注意しよう。
うつむきっぱなしの佳弥の頭に、幸祐はぽふぽふと手を乗せた。
「よし、よし。」
「私は犬じゃありませんよ。頭撫でないでください。」
佳弥は不機嫌そうに顔を上げた。今回の佳弥の失敗と、この仕打ちとは別の話だ。大体、十五歳の分際で、四十五歳の頭を撫でる奴があるか。
と、その時、佳弥の片耳を鋭い怒声が貫いた。
「君はまだそんなことも分からないのか!」
耳がキーンとなるほどだ。佳弥は耳を押さえて、辺りを見渡した。幸祐の他には、まばらな通行人がいる程度だ。誰も怒鳴っていない。
ああそうだ、まだこれが残っていた、と佳弥は耳の穴からイヤホンを取り出した。いまだに盗聴器が機能しているらしい。さっきまでは他ごとに夢中だったから、すっかり忘れていた。それにしても、あの楽しそうで美味しそうな宴会で、突然何が起きたんだろう。
「佳弥ちゃん、それは何?」
「さっき話した、魔だらけの宴会の音を拾っています。聞いてみますか?」
佳弥は幸祐にイヤホンを手渡した。不思議そうな顔をしながら、幸祐はそれを耳にはめる。
「この声、聞き覚えがあるなあ。」
「市川さんの上司の、渋谷さんでしょう。」
耳の奥に残る残響を思い出して佳弥は言った。幸祐は目を丸くする。
「えっ、佳弥ちゃんが付けていったのって、渋谷さんだったのか。」
先刻の説明で佳弥は、魔が出ていたサラリーマンの飲み会を監視した、としか言わなかった。敢えて固有名詞を出さなくてもいいか、と思ったのである。幸祐は驚いて口を半開きにしたまま、イヤホンに耳を澄ませた。
「…そりゃ、渋谷さんなら怒るよ。」
「何なんですか?」
「うーんと、工事の予定価格を渋谷さんに漏らしかけたのかな。何か相談したかったみたいだけど。それで、渋谷さんがガチギレしてる。元上司でも、今は部外者なんだから、絶対にダメだって。あの人を怒らせると、とんでもなく怖いんだよなあ。」
そうなのか、と佳弥は小首を傾げる。佳弥が見たことのある渋谷は、穏やかな笑顔を湛えているばかりだ。
怖い怖い、と幸祐はイヤホンを外した。他人が叱られているのを聞くのも、気分の良いものではない。
「予定価格って、何ですか?」
佳弥はイヤホンを耳にはめながら幸祐に訊いた。イヤホンからは、しんと静まり返った宴会の様子が伝わってくる。叱り終わったのかもしれない。
「ん?ああ、入札って分かるかな。」
「よく分かりません。」
「ええと、逆オークションみたいな感じかな。ある仕事をやりたい業者がいくつも集まって、うちはこの値段でやりますって言い合うんだ。で、一番安い値段を言ったところが仕事をもらえる。それが入札。」
ほうほう、と佳弥は頷く。
「入札の前に、仕事を発注する側が、その仕事に出せる金額の上限として決めておくのが予定価格。いろいろやり方はあるけど、予定価格は秘密にしておくのが一般的かな。予定価格より高い値段では仕事は受けられないから、業者としては、予定価格ぎりぎりで仕事を受けると一番儲けが大きい。」
「なるほど。」
佳弥はぽくぽくと頭の中で考える。すなわち、仕事を受ける業者としては、予め予定価格が判っていたら、効率良くスレスレを狙えるということか。ただ、単独でスレスレを狙っても、他の業者がそれより下の値段を言い出してしまったら意味が無い。きっと、業者同士で結託して、お互い安い値段を言わないように調整し、スレスレ価格で仕事を順番に回したり、仕事を譲ってくれてありがとう的なお金を渡すということもあるのかもしれない。
「うん、それが談合だな。」
「本来ならもっと安くできるのに、価格を吊り上げられて、税金の無駄遣いですね。」
「まあな。何も、役所に限った話じゃないけど。JRでもあったし。」
「色々と、よくご存じですねえ。」
つるつると回答が得られて、佳弥は感心して呟いた。幸祐は口をへの字にして文句を言う。
「あのなあ。俺だって社会人だぞ。佳弥ちゃんよかずっと大人だからな。」
「ああ、そうでしたっけ。」
佳弥は適当にあしらって、考えを進める。では、魔は何をしていたのだろう。あるいは、マーラ・ルブラは何を狙っていたのか。見た感じでは居酒屋の内面が隈なく黒い影で覆われていたが、初めのうちは渋谷のいる個室に集っていたようにも見えた。予定価格の漏洩が目的か?でも、そばで話を聞いていた限りでは、完全な内輪の飲み会であって、予定価格を知りたがっている業者はいなかったと思うけど。
イヤホンからは、宴会が何とか穏やかな盛り上がりを取り戻した気配が聞こえてきている。あの渋谷がいるなら、魔がいようとマーラ・ルブラが小細工しようと、一喝されてしまうんじゃなかろうか。
「市川さん、少しその居酒屋を見に行っても良いですか?さっきは途中で逃げてきちゃったので、今どうなっているのか気になります。」
「うーん、渋谷さんを除き見するのは、どうも怖いなあ。それに、これ、ツボ押しじゃないだろ。」
「いいから、行きましょう。」
乗り気でない幸祐の背中をぐいぐい押して、佳弥は居酒屋に向かった。ただでさえ身体的疲労が残っているのに、余計な手間を掛けさせおって、と腹が立つ。さりとて、謝った舌の根も乾かぬうちに単独行動するわけにもいかない。
佳弥は角を曲がり、居酒屋の入り口が見えるところまで足を進めた。
「すんません、次があるもんで、お先にご無礼します。」
イヤホンからは渋谷ではないおじさんの声がする。そろそろ帰る人も出てくる頃なのだろうか。
鉢合わせても何なので、佳弥は入口からやや離れたところで立ち止まった。ドアが開いて、最初に挨拶していたひと際禿げたおじさんが出てきた。腕時計を確認して、そそくさと裏道に向かっていく。よくよく見ると、おじさんの影から魔が出たり入ったりしている。
「市川さん、見えますか、あれ。」
「うん。」
「追っかけますか?」
「うーん。」
幸祐はやはり乗り気でない。問答しているうちに、居酒屋のドアが再び開いた。ついさっき迫力ある声で怒鳴っていたとは思えない、穏やかな様相の渋谷が立っていた。左右を確かめると、禿げたおじさんと同じ方向に歩き始める。
その様子を佳弥が眺めていると、ふと渋谷が佳弥と幸祐の方に顔を向けた。渋谷は含むような笑みを浮かべて、軽く片手を上げる。思わず佳弥が反射的に会釈を返すと、渋谷は視線を前に戻し、足早に路地の奥へと消えていった。
「今、渋谷さん、私たちを認識していましたね。」
「うん。」
幸祐はからきし元気の無い様子で頷く。
「なあ佳弥ちゃん。追いかけるの、やめようよ。何だか知らないけど、渋谷さんにはバレるんだし。俺の職場での立ち位置を慮ってくれないかな。」
「渋谷さんが怖いんですか。」
「それもあるけど、俺がこうしてバイトできるのは渋谷さんのおかげなんだ。」
どういうことか、と佳弥が問う。
「うちは副業は基本的には認めてもらえないんだけどさ、あれやこれやと俺が粘ってるうちに渋谷さんが口添えしてくれたんだ。だから、悪いことはできないよ。」
「そうですか…。」
渋谷のおかげで、幸祐はシンハオからバイト代を入手できる。そして、暖かな年末年始を迎えることができる。それは大恩があるというものではないか。こそこそと後を付けて回るような真似はしない方が良かろう。
「分かりました。では、おとなしく今日のツボを押しに行きましょうか。」
佳弥はイヤホンを耳から外して、ポケットに突っ込んだ。何にせよ、シンハオの仕事では直接悪事を阻止することはできない。漫然と、全体の流れをよくする。それがツボ押しである。スパイの真似事も、これで完了としよう。これ以上宴会の音を聞いていたって、マーラ・ルブラの狙いは解き明かせないし。
佳弥と幸祐は、特に佳弥がお疲れモードだったので、軽く一時間ツボを押して回ったところで本日の本来業務を終了した。さすがに町中駆けずり回って立ち回ったので、変身を解いて若さを取り戻しても疲れが抜けきらない。空腹のせいもあるかもしれない。
ツボ押しは相変わらずパッとしないし、人影から有益な情報は何も得られなかったし、それどころか前回以上に敵視してきやがるし、居酒屋から出てきた魔が何なのか分からないし、やるせない。鼻先も見えない霧の中でひたすら踊っているかのようだ。疲れた。
駅までとぼとぼと歩きながら、佳弥は唐突にデイパックの中の荷物を思い出した。
「市川さん、ちょっと待ってください。」
いつものように傍らを歩いていた幸祐を呼び止めて、佳弥はデイパックからご贈答用の包みの入った紙袋を取り出した。走ったり転げたりしたので、ちょっとしわしわになってしまっているが、やむを得ない。
「先日のチョコレートのお返しです。ゴアと私から、心ばかりの物ですが。」
「えっ、そんなの気にしなくていいのに。」
「いえ、家族に、ちゃんと返礼をしろと叱られましたので。どうぞお受け取り下さい。」
「何か、悪いな。却って気を遣わせちゃったか。でも、折角だからありがたく頂戴するよ。」
幸祐はぽりぽりと頭を掻きながら紙袋を受け取った。
「中身、見ていい?」
しっぽが生えていたらびゅんびゅん振っていそうな顔つきで、幸祐が訊く。どうぞ、と佳弥はそっけなく答えた。包みを渡した以上、もう佳弥の義務は果たした。本日のお務めはこれにて完了である。暖かい我が家に帰ろう。とは思ったが、渡すだけ渡して、置いてけぼりにするのも無責任な気がして、少しだけ待つことにする。
佳弥が幸祐に贈ったのは、そこそこの品質のネクタイである。国産シルク百パーセントだ。柄の良し悪しは分からないので、地味そうなのを適当に選んだ。幸祐が仕事に着けていくものなど、佳弥は基本的にはどうでも良いのである。
「おお、いいネクタイだ。何だか、父の日のプレゼントみたいだな。ありがとう、大事に使うよ。」
にっこりと嬉しそうに幸祐は笑った。若く見えるから、老け精神を気に病む佳弥の癪に障る。だが、何にせよ、喜んでもらえたなら良かった。ちゃんとしたものを着て、せいぜい仕事に励むが良かろう、と佳弥は鷹揚に頷いた。
「これ、佳弥ちゃんが選んだのか?目立っただろうなあ。紳士用品売り場の女子高生は。」
駅に向かって歩きながら、幸祐が言った。
「婦人用品売り場の渋谷さんほどではないと思いますよ。」
「そんなとこで渋谷さんに会ったの?何してたんだ、あの人。」
「いえ、お会いしたのは紳士用品のフロアです。でも、お孫さんのクリスマスプレゼントを探していたとかで。」
佳弥がそう言うと、幸祐は立ち止まって首を傾げた。
「孫?いくつくらいの?」
「年頃のお嬢さんだそうですよ。定期入れを買われましたから、少なくとも小学生以上かと。」
私立の小学校に通うなら、定期も要るだろう。小学校高学年の女の子なら、もう年頃と呼んでも差し支えない。その辺りの年齢から、高校生くらいのどこかだろうと佳弥は想定していた。
幸祐は首を傾げたまま、うーんと唸った。
「おかしいなあ。そんな大きな孫がいるような人だったかな。」
「そうなんですか?」
「何か、手続した覚えがあるんだよなあ。明日、職場で調べてみるよ。」
「お孫さんがいようといまいと、私は気になりませんけど。」
渋谷の家族構成など、佳弥には関わり無い。孫でなければ、愛人とか、他人には言いにくい相手だっただけのことじゃないのか。実際に安くもない定期入れを買っていたのだから、どこかに相手は実在するのだろう。それで結構ではないか。
「だって、変じゃん。おっさんが女子高生に買い物付き合ってくれ、なんてさ。普通なら、援助交際だよ。でも、渋谷さんが、そんなことするはずないし。」
「そうでしょうね。」
「俺が佳弥ちゃんに一緒に買い物してくれって言ったら、どうせ断るだろ。」
「そりゃ、そうです。」
「ほら。変なんだってば。」
変の方向がどんどんずれていないか、と思うが、佳弥は黙っておいた。佳弥が何か言ったところで、勝手に調べてくるのだろう。好きにさせておけばよろしい。
佳弥はとことこと駅のホームに降り立った。やれやれ、と思ったところでスマホが震えだす。
「今日のツボ押しの成果…システムエラーが発生しました?」
何だそれ、と佳弥はがっくり肩を落とした。横で幸祐が苦笑いする。
「佳弥ちゃんがマーラ・ルブラを襲撃したから、システムが壊れちゃったんじゃないのか?」
「私としては、むしろ襲撃されたと言いたいのですが。逃げていた時間の方が長いですし。」
絶対に明日は筋肉痛だ、と佳弥は恐れている。
文句を言ったところで、何ともならない。このツボ押し成果判定システムは、どの道占い程度の意味しかない。佳弥はアプリを閉じて、スマホをコートのポケットにしまった。
また明日、と手を振る幸祐に軽くお辞儀をして、佳弥は電車に乗り込んだ。明日は終業式、楽ちんだ。今日の疲れを存分に癒そう。
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