第8話 屋邊ニャム大神
「そうですか。屋邊君が一般人に……」
屋邊先輩が一般人に戻ったことを報告すると、功刀さんはひと言そう呟いて壁掛け時計を見上げた。
「この時間では引っ越しの業者に連絡しても作業は明日でしょうね。男子寮への転居手続きはこちらで済ませますが、サクラ荘からの退去は明日にしましょう。B世界の研究員にこの事は伝えましたか?」
「先ほど、伝えておきました」
B世界の研究員、因場間さんは「そうか」と言っただけだった。実にドライである。俺たち遍在者よりもずっとサクラソウにいるのだから、当たり前なのかもしれないが、割り切っているのだろう。
「屋邊君は?」
「部屋の荷物をまとめています。B世界の物に関しては後で男子が回収することになってます」
「わかりました。明日の会議には出席するように伝えておいてください」
事務的にそう言って、功刀さんは固定電話を取って電話番号を打ち込む。男子寮へ電話しているのだろう。
俺は功刀さんの研究室を出て、早足に屋邊先輩の部屋へ向かった。屋邊先輩の部屋の扉をニャムさんがカリカリとひっかいている。
「屋邊先輩、バーベキューに参加しますか?」
「……そうだね。参加しようか。悪いけど、ニャムさんを連れてきてくれるかな」
部屋から出てきた屋邊先輩はいつもの癖なのか縁側に顔を向ける。足元にニャムさんがいるのだが、互いに気付いていないようだ。
俺がかがむと、ニャムさんが見上げてきた。
珍しく逃げたりしないな。
「ニャムさん、おいで」
俺が伸ばした手を一瞥した後、ニャムさんは俺の顔をじっと見つめ、何かを諦めたように近づいてきた。
ニャムさんを抱え上げて、A校舎の校庭に屋邊先輩と共に向かう。
「男子寮への転居は明日でいいそうです」
「夜の内に荷物をまとめておかないといけないかな。元々、私物が多い方ではないからその点では安心だけど」
屋邊先輩は普段通りの口調でそう言って、暮れていく空を見上げる。
「なんだか、いつもよりひぐらしの鳴き声が少ない気がするよ。B世界の分がないからだろうね」
「たぶん、そうですね。俺にはめっちゃうるさく聞こえますし」
なにしろ、屋邊先輩の三倍だからな。サクラソウの部屋は防音がしっかりしているからそこまで気にならないけど、外に出るとうるさい。
校庭ではまだ屋邊先輩の一般人化を知らないみんなが肉の奪い合いをしていた。肉争いに加わらずにのほほんと焼きナスを食べていた仲葉先輩が俺たちに気付いて笑う。
「二人とも、遅いですよー。シイタケ食べますか?」
仲葉先輩の声にみんながこちらを見る。
万願寺唐辛子を齧っていた七掛が俺を見て、暗い顔をした。相変わらず頭の回転が速い。
B、D遍在の七掛はもう屋邊先輩が見えない。
続いて、A世界を観測できる男子はもはや俺だけということもあり、笠鳥先輩たち男子組の笑顔が曇った。
「屋邊が見えないんだが」
笠鳥先輩は俺が抱えているニャムさんを見て、ため息を吐いた。
「せめて肉を食ってから一般人に戻れよ。まったく」
男子組の反応で屋邊先輩が遍在者ではなくなったと分かったのだろう、仲葉先輩と戸枯先輩が顔を見合わせた。二人はA世界が観測できるため、屋邊先輩が一般人か遍在者か見分けられないのだ。
この場で屋邊先輩を見る事が出来るのはA世界出生の俺と仲葉先輩、A世界遍在の戸枯先輩の三人だけとなった。
屋邊先輩から説明しても笠鳥先輩たち、A世界を観測できないメンバーには聞こえない。二度手間を防ぐため、俺からみんなに屋邊先輩が一般人に戻った事、男子寮への転居は明日になることを伝える。
その間に、仲葉先輩が肉や野菜を取り分けて屋邊先輩に渡していた。
「――というわけです」
「りょーかい。パジャマパーティーは明日だな。榎舟、A校舎の体育館を貸し切ってくれるか?」
「明日、校長に掛け合ってみます。でもなんで体育館なんです?」
「合同パジャマパーティ―の方がいいだろ。なぁ、戸枯」
笠鳥先輩が呼びかけると、戸枯先輩はいつもより元気のないニャムさんを眺めつつ頷いた。
「まぁ……屋邊の事だから男女別にすると女子側に来ないだろうし、合同の方がいいかもね。夏休みだから体育館は使えるかもだし」
屋邊先輩関連だから気分が乗らないのではと思ったけど、戸枯先輩は意外といろいろ考えているみたいだった。
俺は屋邊先輩を振り返る。
仲葉先輩の母性が爆発したらしく屋邊先輩はかいがいしく世話を焼かれている。肉やら野菜やらがバランスよく皿に盛られて渡され、絶妙なタイミングで麦茶が入る。
戸枯先輩が苦笑した。
「ダメンズ量産型JK寮母か」
「戸枯先輩も加われば両手に花状態ですね」
「生意気だぞ、後輩」
脇腹に軽い衝撃。戸枯先輩にひじ打ちを食らったらしい。
俺が抱えているニャムさんの顔を戸枯先輩が覗き込む。
「旦那が取られてるぞ。良いのかぁ、ニャムさん」
「煽ると引っかかれますよ」
「へぇ、どれどれ」
戸枯先輩が人差し指でニャムさんの顎の下をくすぐる。喉を鳴らしこそしなかったが、ニャムさんはされるがままだ。
なんだか、今日のニャムさんはいつもより人に触らせてくれる。
七掛が紙皿に肉と玉ねぎ、ピーマンを乗せてやってきた。
「食べる?」
「食べたいけど、ニャムさんが離れてくれない」
下ろそうとするとめっちゃ爪を立ててくる。
その時、横から伸びてきた手がニャムさんを抱え上げた。
「戸枯先輩?」
「もう結構食べたしね。後は預かるよ」
「ありがとうございます」
ニャムさんを抱えて鬼原井先輩の元へ向かう戸枯先輩の背中を見送り、俺は七掛が持ってきてくれた皿からピーマンを取る。
「なんか、戸枯先輩が変だな」
いつも以上にニャムさんを気にしているような気がする。
まぁ、屋邊先輩が一般人になった事もあって、全体的に盛り上がりに欠けているけど。
アルミホイルを巻いて蒸し焼きにした玉ねぎを食べていた七掛が戸枯先輩の背中をじっと見つめて呟いた。
「古宇田先輩の依頼、どうする?」
「……忘れてた」
いつの間にか、屋邊先輩と戸枯先輩の関係修復そのものが目的化していた。
「正直に、間に合いませんでしたって言うほかないだろうな」
「……明日の夜まで、様子見したい」
「なにか考えがあるのか?」
手伝うことがあるなら手伝いたいんだけど。
七掛は首を横に振った。
「文字通り、様子見。何も手出しをしない。多分、それでいい、はず」
「もう二人の関係修復は終わっているってことか?」
「それを見極めるための、様子見」
よく分からない。
とはいえ、七掛がそういうのなら俺も様子見に回ろう。
最後だし、あまり周りが騒ぐのはよくないだろう。屋邊先輩と戸枯先輩の最後の選択を邪魔する権利なんて俺にはないんだから。
※
バーベキューの翌日、俺は翻訳したパンフレットを持ってA校舎の生徒会を訪れた。
「翻訳終わりましたよ。使っている単語や言い回しの説明も別紙にまとめておいたので、見直しの際に活用してください」
「本当に一日で持ってきた……」
驚いている生徒会の面々に感謝され、俺は校長室へと向かう。
冷房代の節約のためなのか、窓も扉も全開放している校長室を覗き込む。年季物の扇風機が健気に回っていた。
「校長先生、報告に上がりました」
「あぁ、榎舟君か。聞いているよ。屋邊君が今日から男子寮だと」
扉が全開になっているため他人の耳を警戒し、校長は遍在者とは口にしなかった。
「えぇ、屋邊先輩は今、サクラソウで荷造りをしているはずです。それで、今日の夜、体育館をお借りしてもいいですか? 昨日、校庭をお借りしたばかりで恐縮ですが」
「構わないとも。そもそも、この学校は君たち生徒のモノだ。片付けはきちんとしておくように」
「はい、もちろんです」
一応、雑魚寝になる可能性も伝えるが、校長は笑いながら許可してくれた。
「前にも同じようなことを言われたよ。五年くらい前だった」
「何年前から在自の校長をしているんですか?」
「十二年前だね。少々特殊な事情がある高校だろう? そう簡単に引き継げないんだ」
「……校長も俺たちと同じだったんですか?」
単なる興味本位だったけど、校長は懐かしむような目で俺を眺めて、首を横に振った。
「私は違った。友人がいてね。驚いたよ、唐突に目の前に現れたんだ。当時は在自高校もなかったが、田舎だったからさほど問題はなかった」
「そうだったんですか」
唐突に目の前に現れたということは、別の世界の人間がA世界遍在になったということか。
「神隠しかと一部新聞が取り上げたが、すぐに下火になった。上からの圧力でもあったのだと、今ならわかるがね。なにしろ、圧力をかける側になったから」
「お茶目に怖いこと言わないで下さいよ」
「はっはっは、少し喋りすぎた。屋邊君のこと、頼んだよ」
「はい」
校長室を後にして、体育館の予備の鍵を借り受けてサクラソウへ戻る。
サクラソウの庭に仲葉先輩が待っていた。
「榎舟君、温室に行きましょう」
卒寮者が出た時の習わし、玄関の花瓶に飾る日日草と百日草を取りに向かうらしい。
歩き出した仲葉先輩の横に並ぶ。
「もう、みんなは飾ったんですか?」
「えぇ、朝のうちに。男の子たちは屋邊君のB世界での荷物を片付けています。後で手伝ってあげてください。私が手伝おうかと提案したんですけど、男の子には見られちゃいけない秘宝があるとか何とかで」
「あぁ、なるほど」
秘宝館的な奴ね。
「私は別に気にしないんですけどねぇ」
「そこは気にした方がいいのでは?」
「別に私が映っているわけでもないですし……。榎舟君、私の水着写真とか欲しいですか?」
めっちゃ欲しいです。
「水着は構造が簡単なので写真資料とかは別に。着物とか、振袖とか、巫女服とか、大正学生服あたりなら欲しいですね。ウェディングドレスとかも写真資料が欲しいですけど、結婚式の前に着ると婚期を逃すって迷信があるので頼めないです」
言っちゃいけない欲望を創作欲で塗りつぶす。
ちょっと早口になった。
仲葉先輩はにっこり笑う。
「やっぱり、凛ちゃんと同じく創作家なんですね。唐突に創作の話を持ち出すところがそっくりですよ」
「ははは」
多分、この場に招田先輩がいたら制裁される。
温室で今回は日日草を摘む。
サクラソウの玄関にはすでに何本もの百日草が飾られた花瓶が俺たちを待っていた。
仲葉先輩と一緒に日日草を花瓶に生ける。
「A世界勢は二人きりになっちゃいましたねぇ」
寂しそうに花瓶に咲く二輪の日日草を見つめて、仲葉先輩は呟いた。
「榎舟君は先に卒寮したらダメですよ?」
「前後することがあるんですか?」
「屋邊君は私より一か月くらい後に入寮したんですよ。初対面で屋邊君ったら――あ、この話はパジャマパーティーまで取っておかないとダメでした」
めっちゃ気になるんですが。
本当に夜まで取っておくつもりらしく、仲葉先輩は女子陣地の方へ去っていった。パーティーに向けて気合の入った料理を作っている真っ最中らしい。
俺は男子陣地側に入る。
縁側にニャムさんの姿はない。
屋邊先輩の部屋を訪ねてみると、男子勢が揃っていた。なお、屋邊先輩は他のメンバーに干渉できず見ることもできない。逆もまた、しかり。
だからだろう、B世界での屋邊先輩の私物らしき大量の猫缶と猫用おやつ、遊び道具各種をテーブルの上に綺麗に並べた笠鳥先輩たちが「屋邊ニャム大神、おいでませ」とぶつぶつ呟く怪しい儀式をしていた。肝心の屋邊先輩は私物を梱包した段ボール箱に内容物を書き込んでいる。
「榎舟君、おかえりなさい。もう作業は終わったんだけど、B世界の荷物に関してはもう見ることもできないから、笠鳥たちとの通訳をお願いできないかな?」
「榎舟おかえりー、なぁなぁ、屋邊は今どこにいる?」
「テーブルの上でポーズ取るよう言ってくんね?」
「――なにこれ……」
思わずつぶやいた俺を誰が咎めるのか。咎めるんなら出てこいよ。この場の収拾つけろよ。
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