閑話   お花見


 春休みに入り、俺は七掛とネリネ会の活動を――全然していなかった。


「綴り違う」

「え、どこ?」


 絶賛、外国語の勉強中である。

 春休み中に三依先輩が抜けた穴を埋めなくてはならないからだ。

 一応、俺と七掛二人で四世界すべてを観測できるため追加人員の補充はない。すでにみんなグループを作っているため、再編で混乱するリスクとみあっていないと判断されたからだ。

 ほぼ戦力にならない俺とは違い、七掛は仕事が早いことも理由の一つらしい。

 世界が違えば同じ内容の論文でも実験結果に差異があったり言い回しが違ったりして、検索が難しい。類義語などを含めて覚えなくてはならないため、春休みと一学期は外国語の勉強でつぶれそうだった。


「ネリネ会の活動もしたいんだが……」

「広告は打った。果報は寝て待て。今ネリネ会の活動をするのは部屋の掃除中に古い漫画を見つけて読みはじめるのと変わらない」

「ごもっともで!」


 例えが的確すぎるわ。


「ちなみに今の言い回しをロシア語でいうと――」

「今はスペイン語の勉強してるよね!? 混乱するからやめてくれる!? クマの親切ってやつだぞ、それ!」


 スペルミスを直しながら拒否すると、七掛は手元に引き寄せていたロシアの寓話集、クルイロフ寓話を机の端に戻した。

 なお、クマの親切はロシアのクルイロフさんが書いた寓話集の中にある話で、余計なお世話的な意味である。

 寓話や童話は分かりやすい上に文化の土台になってたりするから覚えておけと三依先輩に言われたのだ。


「縁山さんは教師として榎舟君の中に生きている」

「勝手に殺すな。三依先輩は今も下界で元気にJKやってるよ」

「綴り違う」

「動詞の活用が面倒くせぇ」

「ミスが増えてきた。休憩する?」

「もうちょいやる。キリのいいところまではやらないと、頭が切り換えられない質なんだ」


 せっせと例文を書き写しては主語を変えて文を書き直す。基礎はとにかく自分で文を弄り回していけば覚えやすいものだ。


「そういえば、広告の費用ってどうしたんだ?」

「遍在者には政府から支援金が出ている。ネリネ会は代々、支援金の一部を活動資金として積み立ててある。そこから出した」

「へぇ。俺も収めないといけないな。どうすればいい?」

「研究者からあなた名義の口座を作るよう言われたはず」


 そういえば、功刀さんから言われていたな。俺は銀行に行けないから両親が作ってくれていたはずだ。


「そういえば、通帳や印鑑がもうすぐ届くってメールが来てたな」


 ついでに足りない物があれば送るとも言われたけど。


「その口座から振り込めばいいのか? 銀行に行けないのにどうやって?」

「各世界の校舎の食堂にはATMがある。そこで振り込む」

「あぁ、なるほど」


 あのATM、使っている人なんていないと思っていたけどネリネ会のメンバーが利用していたのか。


「幾ら入れるんだ?」

「毎学期の初めに二万円」

「分かった」


 結構入れるんだな。

 まぁ、サクラソウで生活する分には基本的にお金がかからない。食費などは日本政府から全額支給されているし。


「ちなみに、支援金っていくら?」

「月十万円」

「……まじか」

「遍在者でなければ守れない国益がある以上、むしろ安い部類」

「そうは言っても未成年だぞ?」

「防衛大学校も同じくらいの給与が出る」


 そう言われればそうなんだろうけど。


「ますます、外国語習得を頑張らないといけなくなったな……」


 支援金とは言っても遍在者の義務って奴に対しての報酬の意味があるだろうから。

 ノートにペンを走らせていると、部屋の扉がノックされた。


「榎舟やーい。花見に行くぜぃ」


 笠鳥先輩の声が扉越しに聞こえてくる。

 在自高校の敷地はもちろん、在自山全体を見回してもあちこちに桜の木がある。緋寒桜はもう散り始めているが、ソメイヨシノは今が見頃だ。


「勉強をしないとなので俺は――」


 遠慮します、と言いかけた俺の手を七掛が掴んだ。

 何事かと七掛を見る。

 クマの浮いた眠そうな目が俺を真剣に見つめていた。


「ネリネ会は卒業後も青春を語らえる場を提供するために組織された。そんな私たちがイベントを見逃してはダメ」

「……分かった」


 七掛の言うことももっともだ。

 俺が教材を片付けていると、七掛が扉を開けて笠鳥先輩と話し始める。

 漏れ聞こえてくる会話を総合すると、サクラソウの寮生全員で隠れた花見スポットへ行くらしい。


「この時期は校庭の桜を見に下界から人が来るしな。そう多くないとはいえ、寮生としては人目が気になる」


 笠鳥先輩の言うとおり、春休みに入ってからも校庭の桜を見に在自高校にやってくる人が絶えない。

 学生の中にはレジャーシートを広げて騒いでいるグループもあった。俺も二日前に呼ばれて参加している。

 おそらく、俺の遍在世界であるB、C世界の花見客の眼には独り言をそれなりに大きい声で言いながら一人で桜見物する変人に見えたことだろう。

 こうしてサクラソウ住人は変人だという噂が広まっていくのだ。

 俺としては三学期の半ばから編入してきて交流がほとんどなかったクラスメイト達との関係を構築する一大イベントだったから、後悔はない。


「シートとかは持っていきますか?」

「俺たち先輩男子組が各世界分のシートを用意してる」

「準備がいいですね」

「毎年の事だからな」

「ところで、七掛は?」

「準備をしに部屋に戻ったぞ?」


 いつの間に。

 お菓子類と紙コップ、後片付けように大きめのごみ袋を鞄に詰めて、俺は笠鳥先輩と共に部屋を出た。

 すでに準備を終えた寮生は男子陣地の縁側で駄弁っている。屋邊先輩だけは会話に加わる様子もなく膝に乗せたニャムさんの背中を撫でていた。


「榎舟君、全員揃ってる?」


 遍在者同士でも観測できない寮生がいるため、全員を観測できるトリプル遍在の俺に点呼役が回ってきた。

 見回して、全員が揃っているのを確認する。


「功刀さんたち研究者は来ないんですか?」

「一応声はかけたんだけどな。寮生には基本的に不干渉だから」


 サクラソウの奥にある自前の研究室にこもりきりの功刀さんたちは寮生に対して淡泊だ。三依先輩の卒寮に関しても一切言葉を発さなかった。翌日も平然と会議を進めていたくらいだ。

 俺たちはサクラソウを出発して在自高校の敷地を突っ切り、下界へ向かう山道を途中でそれた。

 藪に覆われたほとんど獣道のような道なき道を突き進む。


「隠れた花見スポットって、文字通りですね」


 まだ肌寒い気温だけあって長袖を着ていてよかった。

 途中で拾った木の枝で藪を雑に払いながら先頭を歩く笠鳥先輩はにやりとした笑みで振り返った。


「花見客でもいい大人はこの藪を突っ切るのをためらうからな。後をつけられないって寸法だ」

「藪を突っ切るのが若さってやつですか」

「いや、青春さ」


 したり顔で言った笠鳥先輩が正面を木の枝で示す。


「ほら、見えてきた。男子組はレジャーシートを広げろ」

「へいへーい」


 笠鳥先輩の指示を受けて、屋邊先輩たち男子組がレジャーシートを広げ始める。俺はシートが風に飛ばされないように適当な重しを置く係りだ。

 準備を終えて、シートに座る。リンゴジュースやウーロン茶を入れた紙コップが全員に行きわたり、花見は始まった。

 俺は桜を見上げる。赤みが強い八重桜でなんだかやけに荘厳で重量感のある花だ。花の重さに枝垂れている。まるで赤い傘のように頭上を覆う桜を透かして青空が見えており、色の対比が美しい。

 こんな見事な桜を貸し切り状態で見られるとはずいぶんと贅沢なお花見だ。


「誰か一口羊羹いるー?」


 戸枯先輩が和菓子袋と書かれた袋を掲げて呼びかける。


「……欲しい」


 七掛が片手を上げると、戸枯先輩が袋から一口羊羹を取り出した。


「ほい、受け取れ。新しい羊羹よ」


 アンパンの顔を投げるようなセリフで戸枯先輩は一口羊羹を放り投げる。手が届かなかったからだろう。

 七掛は放物線を描いて飛んでくる一口羊羹を見て――右手人差し指と中指で空中の一口羊羹を挟んだ。

 ザリガニでもそんな器用な真似できないぞ。


「運動神経いいのな?」


 ぱちぱちと拍手で七掛の運動神経を称える。先輩たちも拍手しているが、七掛の運動神経の良さは知っていたらしく驚きは少ない。


「昔、剣道をやっていた。動体視力に自信あり」


 そう言って、七掛は受け取った一口羊羹をちびちびと食べ始める。

 勉強ができて運動もできて、天は二物を与えるのか。


「榎舟君も一口羊羹いる?」

「もらいます」

「全力投球にしようか?」

「それは選択肢から排除してください」


 戸枯先輩が笑いながらひょいと一口羊羹を投げてくる。

 受け取って礼を言い、包装をはがして七掛と二人、桜を見上げた。


「いま気付いたんだけどさ」

「……何に?」

「やけにゴージャスに見えるのって、三世界分の桜が重なっているから、なのか?」

「そう」


 やっぱりか。

 学校の敷地にあるようなマメに剪定されている桜とは違い、この桜はほとんど管理されていない。無秩序に枝が伸びており、その枝振りも世界ごとに差異がある。

 豪華に見えるわけだよ。通常の三倍なんだから。

 七掛が食べ終わった一口羊羹の包装をゴミ袋に入れて、桜を見上げる。


「この桜は遍在者が見てこそ価値がある特別な桜。周囲の木も管理から外れて枝振りが違うから、吹く風の強弱も世界ごとに異なる。遍在者にしか観賞できない」

「獣道を進んできた甲斐があるってわけだ」


 わいわい騒いでいる先輩たちも、飲み食いしながら桜をきっちり見ている。


「私たちにしか見えない景色は、桜と同じでいつか散る。でも、綺麗」

「詩人だな」


 綺麗だ。どの世界であっても。

 この景色を何年経っても語らえる場を作り出す。

 そのためには――勉強しないとなぁ。


「なぜ、ため息?」


 不思議そうに七掛が首をかしげた。




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