第9話  別れ話

 嫌な気分のままベッドに腰を下ろしてぼんやりしていると、扉がノックされた。

 今度は誰だ。

 ありがた迷惑という単語が頭をよぎる。

 仲葉先輩を通して俺の帰宅は知られているはずだから無視するわけにもいかず、扉を開ける。


「よし、不貞寝してないな。上等だぞ、榎舟」


 扉を開けるなり笑顔で俺の胸に軽いジャブを入れてきたのは笠鳥先輩だった。後ろには玉山先輩や鴨居先輩がいる。ここに屋邊先輩がいればサクラソウの男子勢ぞろいだった。

 しかも、なぜか全員寝間着姿だった。


「では、恒例の男子パジャマパーティーを開催する。なお、榎舟部屋が今回の開催地に選ばれた。ってなわけで、入るぞー」

「ちょっと、なんですか、いきなり」

「お邪魔しまスパシーバ」

「お邪魔シュックラン」

「お邪魔しマァロ」


 スパシーバ以外は何語だよ。

 止めるのも聞かずに入ってきた笠鳥先輩たちは持ち込んだ布団を広げだした。

 渋々戻った俺に笠鳥先輩がチョコレート菓子を投げ渡してきた。


「そんな顔すんなって。この男子パジャマパーティーはさっきも言った通りの恒例行事だ。今頃は女子も同じことをやってる」


 辛いポテトチップスの袋を開けた笠鳥先輩が詳しく説明してくれる。


「卒寮生が出た日にやるのがこのパジャマパーティーでな。卒寮生について駄弁るんだ。例えば、今回の縁山の場合、C出生のB遍在だった。一般人になるとCを観測できない遍在者は完全に縁山が見えなくなる。だから、こうして集まって一般人に戻った縁山を観測できる奴と思い出話をするってことだ」


 送別会みたいなものか。


「縁山の場合、観測できなくなったのは男子だと屋邊と俺と玉山。女子の場合、鬼原井と七掛、戸枯だな」


 七掛の名前が出た時にどきりとしたが、笠鳥先輩たちが気付いた様子はなかった。

 俺は話題を変えようと、ここにはいない人物に言及する。


「屋邊先輩は?」

「消えた。古宇田の時もそうだったから、この手の空気が苦手なんだろうな」


 笠鳥先輩は苦笑して窓を見る。


「夜の学校に忍び込んで、男女混合で大騒ぎして体育館で雑魚寝って場合もあるんだが、明日は終業式だろ。散らかすのもまずいから、今回は男女で別れることになった」


 笠鳥先輩が各自にオレンジジュース入りの紙コップを配る。


「ともかく、このパジャマパーティーは卒寮生の話で盛り上がろうぜってこと。もう関われない世界の奴の記憶にきっちり残ってるんだぞってことを伝えるためのものだ。言わせんな、恥ずかしい。あ、扉を全開にしておけよ。会場がここだって縁山は知らないからな」


 趣旨を考えると、この部屋が会場だって察しがついていそうだけど。

 俺はコップを片手に扉を開けに行く。廊下の左右を見回すと、女子陣地の方で招田先輩の部屋の扉が開かれていた。女子側の会場になってるらしい。

 肩に手を置かれて振り返る。笠鳥先輩が廊下の先から聞こえる笑い声に明るい笑みを浮かべた。


「女子の方はもう始めてるな」

「みんな、なんでそんなに明るいんですか?」


 もう会えないのに。

 笠鳥先輩は俺の顔をまじまじと見つめると、白い歯を見せて笑った。


「青春は笑って終わらせるものだろ」


 始めるぞ、と笠鳥先輩はさっさと部屋に戻っていった。

 笑って終わらせる、か。

 俺たち遍在者の青春は唐突に終わりを告げる。これからの学校生活はあっても、もうサクラソウのメンバーと関わることはない。

 学生としての青春と、遍在者としての青春はイコールじゃない。卒寮と同時に終わるものなのだ。

 俺もそのうち、笠鳥先輩たちのように割り切れるようになるのだろうか。

 今はまだ笑える気がしなかった。


「おーい、榎舟、早く来いよ」

「ちょっとあったかい料理を持っていくんで先に始めててください」

「……はいよー」



 時計の針が七時を指す。

 縁山先輩が来ることが分かっているだろうに笠鳥先輩が面白半分に流しているB級ホラー映画のクライマックスが迫った時、


「なぁ、今のシーンおかしくね?」


 気付いてはいたけれどあえて指摘しなかった俺とは違い、笠鳥先輩は指摘した。


「さっき、こいつが携帯電話を森で投げ捨てたのに、なんでポケットから出てきたわけ?」


 なんだ、そっちか。脈絡なく森の奥にぶら下がってる首吊りロープの方だと思った。

 茨目先輩がしたり顔で笠鳥先輩に答えた。


「笠鳥、あの携帯電話は大人の都合ってやつだ」

「大人はマジ増しのマジシャンだなぁ」

「あっ、大人の都合を使えばスマホを女子更衣室にテレポートさせられるのでは?」

「いや、それは白い光で画面が見えなくなる大人の都合も込みだから」


 なんて会話だ。

 鴨居先輩が口元に手を当て、裏声を出す。


「ちょっと男子ぃ」

「なにが男子ぃだよ。誰のマネだ。つか、きめぇ」


 笑いながら突っ込みを入れる玉山先輩に、笠鳥先輩も腹を抱えて笑う。

 床を踏む室内サンダルの音がして、部屋に人が入ってくるのと、画面いっぱいに青白い手がべたべたと無数に張り付けられたのは同時だった。


「きゃあああああ」


 突如響いた叫び声に俺と鴨居先輩は同時に耳を押さえ、ダメージを受けていない笠鳥先輩と玉山先輩が状況を察して笑い転げた。


「ホラー映画が警報装置代わりになるとかウケる!」


 笑い転げている笠鳥先輩と玉山先輩が見えない悲鳴の主、三依先輩は悔しそうに部屋を見回した。


「くっそ、笠鳥だな!? 笠鳥なんだな!? あいつ、絶対に許さない! 相真君、ここに笠鳥いるんでしょ、蹴り飛ばして!」


 テレビリモコンを操作して電源を落として、三依先輩は怒りの形相で虚空を指さした。

 今朝会ったというのに、なんだか久しぶりにあった気さえする。

 今夜限りでもう会えないのがウソのようだ。

 目の前にいるのになぁ。

 鴨居先輩と玉山先輩が顔を見合わせて、ニヤニヤと笑いだす。


「映画の実況するか?」

「いいねー」

「くっ、お前ら! あたしが他世界のテレビを消せないのをいいことに……!」


 腰が引けた三依先輩は自分には真っ暗にしか見えないテレビ画面を怖々と振り返る。

 これはあんまりだと思うから、俺はネタ晴らしする。


「さっきのがクライマックスで、今は大団円に向かってるところですよ。実況された方がむしろ、今夜よく眠れるんじゃないですかね?」

「……本当?」

「偽彼氏を疑いますか?」

「……点けてみる」


 三依先輩にテレビリモコンを操作されて点灯した画面ではちょうど除霊が完了する場面が映し出された。テレビが消えてもブルーレイプレーヤーは変わらず動作していたからだろう。


「ふぁ……」


 気の抜けた声を出して床にへたり込んだ三依先輩はベッドの上によじ登ってきて、俺の横に座って膝を抱えた。


「遍在者なんてオカルトっぽいものになってからずっと、ホラーは全部苦手なんだよ。お前らなぁ、本当にどうしてくれるわけ?」

「今夜からは女子寮だろ。同室の子と仲良くなるきっかけを与えてやった俺たちの優しさに感謝しろよ」

「ふざけろ」


 俺が借りていた漫画を拾い上げた三依先輩はそのまま軽く放物線を描くように鴨居先輩へ投げつける。

 鴨居先輩が空中で漫画をキャッチしてへらへら笑った。


「今のは笠鳥からの伝言な」

「おい、こら、俺は言ってないぞ!?」

「相真君、やっぱり笠鳥を蹴っておいて。寝相が悪いってことにしておけば誤魔化せるはずだからさ」

「了解です」

「榎舟、今なにを了解した?」


 三依先輩を観測できない笠鳥先輩は会話に置いてけぼりだ。

 それにしても、会話がカオス。遍在者の存在を知っている身内だけでこの状態なら、一般人を巻き込んだら会話が成立しないだろうな。だから、サクラソウなんてものがあるわけだけど。

 大団円を迎えたB級ホラー映画のブルーレイディスクを抜き取った鴨居先輩が笠鳥先輩と視線で何かを伝えあった。

 無言で動き出した二人は別のB級映画をセットし始める。


「B級どころかC級ホラー映画だぜ」

「インドのホラー映画『夜明け前のバラタナティヤム』だ。踊るぜ?」


 踊るって、ホラー映画じゃないのかよ。

 三依先輩も判断が付かないのか、膝を抱えて警戒しながら画面を眺めている。


「三依先輩、見ない方がいいですよ?」

「相真君は見たことのある映画なの?」

「いえ、ないですけど、どうにも嫌な予感しかしない」


 事実、俺はいつでも耳をふさげるように両手を持ち上げている。


 映画が始まった直後、暗い画面に一人の女性が浮かび上がった。インドの伝統衣装に身を包んだ女性が単調な動きを繰り返し、バックミュージックが少しずつ大きくなっていく。

 突如、バックミュージックが消失し、女性に光があてられる。女性には特に変わったところがなかったけれど、女性が背後の白塗りの壁に作り出す影はブクブクに膨れ上がった幼児のようなものだった。その影が女性の踊りに合わせて動き、再びバックミュージックが流れ始める。


 見なきゃいいのに、三依先輩は画面から目が離せないでいた。

 笠鳥先輩たちの反応を見ようと見回すと、先輩たちは困惑したような顔をしていた。


「こんなだっけ?」

「選定のためにいろいろ見たけど、最初は市場のシーンじゃなかったか?」

「……これ、あれだろ。名前は思い出せないけど、ほら、割とガチめな」

「――あ、やべ」


 何かに気付いた笠鳥先輩がテレビリモコンに飛びつくが、直後に三依先輩の見ている画面は消せないことを思い出し、俺を振り返った。


「榎舟、今すぐ消せ!」

「え?」


 困惑しつつもテレビリモコンに手を伸ばした直後、画面が背景の壁へとクローズアップする。白塗りの壁に影を作っているそれは小さな黒い人型で、それらは踊りに合わせて一斉に画面を振り向いた。

 うわぁ、これは夢に出そう。

 ベッドが揺れた。三依先輩が立ち上がり、壁に背中をつけて画面を指さし、口を開けたり閉めたりしている。もう悲鳴も出ないらしい。


「今消しますね」

「いや、なんか、これはすまん。本当はホラーといいつつただの陽気なインド映画を見せようと思ってだな」


 鴨居先輩が弁明するけれど、三依先輩は俺の腕を引っ張って部屋の外へ歩き出した。


「こんな部屋にいられるか! あたしは帰るぞ!」

「先輩、それはパニック系の死亡フラグです」


 引っ張られるままに部屋を出た俺は、笠鳥先輩たちに手を振る。


「持ってかれまーす」

「おう、ごゆっくり」

「本物の『夜明け前のバラタナティヤム』はどのケースに入れたんだろうな」

「探してラストシーンを三人で踊ろうぜ」

「シンクロしてやんよ」


 楽しそうだなぁ。

 女子側はお開きになったのか、廊下の向こうは静かだった。


「あぁ、もう、あいつらは本当に最後まで!」


 怒り心頭の三依先輩は俺の腕をつかんだまま玄関へと進んでいく。

 時刻は七時を過ぎており、外は真っ暗だ。在自高校の街灯があるけれど、出歩く時間ではない。

 にもかかわらず、三依先輩は靴をつっかけて玄関の扉を静かに開く。


「相真君、奴らのいる部屋の裏に回り込んで窓を叩くよ」

「ちゃちな嫌がらせを思いつきますね」

「……怖くないかな?」

「男子が揃えば、怖えとか言いながらノリで窓を開けると思います」


 そもそも、C世界を観測できない笠鳥先輩や玉山先輩は窓を叩かれたことにすら気づけない。


「くっ、あの怖れ知らず共め。靴にカメムシ入れてやろうかな」


 呟きながらも実行するつもりはないらしく、三依先輩は俺を手招いて外に出た。


「麓まで送って。あんなの見せられたからタクシーを呼ぶのも怖い」

「幽霊タクシーとかありそうですもんね」

「言うな、バカ」


 俺も靴を履いて外に出た。

 空気が澄んでいる。吐いた息が白くたなびいた。


「本当に今夜からサクラソウを出るんですね。もうちょっと猶予があるもんだと思ってました」

「規則だからね。それに、あたしもずるずる居残っちゃいそうだし」


 サクラソウの敷地を出て、二人で歩きだす。


「女子寮って学校から近いんですか?」

「山を下りることにはなるけど、駅より在自高校の方が近いかな。サクラソウの頃より遠くなるのは仕方がないけど、バスも出てるし、そう不便はないよ。朝の会議がないから早起きの必要もないしね」

「あぁ、そっか、会議……」

「ははは、ごめんね。外国語を教えきれなくて。引き継ぎも中途半端でさ。まぁ、七掛ちゃんとうまくやってよ」

「七掛ですか……」


 夕方の一件を思い出して苦い顔をすると、三依先輩が不思議そうに顔を覗き込んできた。


「どうした、喧嘩した?」

「まぁ、喧嘩の方が上等ですね」

「ほぉ、話してごらんよ。あたしも悩みを解決してもらったし、お相子ってことでさ。何ができるかはわからないけど」


 あの件は俺が解決したわけではなく、三依先輩と赤穂先輩の連携のたまものだと思うけど。

 俺はポケットに入れた手を握る。


「俺、中学の時は美術部だったんですよ」


 別に学校が力を入れているわけでもない、何の変哲もない美術部。部員数は七人で、一応コンテストに応募するくらいのことはしておこう、程度の軽いノリ。


「俺も似たような意識でした。どこかの部活に入らないといけないから入った。ただそれだけです。でも、簡単な勉強くらいはしようかと人体構造の把握代わりに家で3D製作を始めました」

「3D製作ってゲームとかの?」

「プロ仕様の作成ソフトではないですけど、高機能のフリーソフトがあるんですよ。今どきのパソコンなら普通に動きます」


 在自高校の敷地を出て、山をゆっくり下り始める。


「単なる趣味でしかなかったんですけど、それなりに勉強になるみたいで美術部での活動でも周りと差が付いていきました」


 いまになって振り返れば、一年の秋に県のコンテストで入賞してから空気が変わっていったように思う。


「めったに部室に来なかった顧問が頻繁に俺の様子を見に来るようになって、うっとうしくなった俺はさっさと家に帰って3D製作に熱中するようになりました。絵を描くより楽しかったので。もう、趣味でした。で、ブログに3D作品を公開するようになったのが転機でした」

「何かあった?」

「ダウンロード数七万。俺がシリーズものとして販売した3D作品がそれくらい売れました。というか、今でもダウンロード数は増えてるはずです」

「……七万?」

「はい。VRの興隆もありましたけど、キャラクターはともかく背景となる3Dはあまり多くなかったので、需要が殺到したんです。無料で公開したものも含めると百倍近いダウンロード数になりますし、俺の作品が使われた動画となると数えるのも難しいです」


 おかげさまで、ただの中学生が数百万の貯金を得た。その貯金を目当てにたかりに来る輩を遠ざけるため、なおさら帰宅部寄りになっていった。


「そして、高校に入学する直前でした。俺の作品が盗作されました」

「は? 最低じゃん」

「えぇ。とあるブログが俺の作品を自らの作品であると偽って掲載したんです。ですが、その掲載日時は、俺が当該作品を公開する三日前の日付でした」

「……どういうこと?」


 三依先輩が疑問符を浮かべるのも仕方がない。事実、この日付問題が解決するまでに半年を要したのだから。


「手口が分かれば簡単でした。事前に未公開の記事をブログに掲載しておいて、俺の作品が公開された直後にダウンロードして張り付ける編集を行った記事を公開したんです。ブログの編集日時が反映されず、掲載日時だけが表示される仕様を利用したトリックだったんですよ」


 だが、様々な人が騙されて俺を盗作犯呼ばわりした。3D製作者としては界隈に広く名を知られていたこともあり、一部ネットニュースにも取り上げられるお祭り騒ぎだった。


「一度火が付けば単純なもので、こじつけばかりの盗作指摘が大量に上がりました」

「それは……ごめん、言葉が見つからない」

「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。話の本筋はこの盗作騒ぎじゃないです。俺は、あの騒ぎを通じて分かったんですよ。案外、俺の作品を理解している人は少ないんだなって。なら、ブログ運営は時間の無駄だって。それで、ブログを事実上閉鎖しました。もう一年近く更新していません」


 さて、ここから本題だ。


「俺はもう、自分の作品を誰かに見せるつもりはありませんでした。なのに、今日の夕方――」


 七掛が訪ねてきてからのやり取りをできるだけ詳細に話す。

 やっぱり、最低だな。八つ当たりみたいなものだ。七掛が逢魔のブログに誹謗中傷を書き込んでいたわけじゃないんだから。

 けれど、やっぱり見せたくはない。


「3D製作は趣味です。づかづかと踏み込まれるのは嫌なんですよ。結果的にかなり強い言葉で追い払ったのは、俺に非がありますけど」


 話を終えると、三依先輩は真剣に考えている様子で麓に広がる夜景を見つめて足を止めた。


「相真君のペンネームは?」

「逢魔、です」


 七掛に言い当てられた通り、俺の名前、相真からSを取って逢魔だ。ただの趣味だから適当にノートにローマ字表記して思いついた安直なペンネーム。

 考えてみれば、魔に逢うなんて縁起の悪いペンネームにしたからあんな目にあったのか。

 自嘲する俺の隣で、三依先輩が唖然とした顔で口を開いた。


「逢魔って、あの逢魔?」

「いえ、多分違いますよ。俺が遍在者になる前の話なので、A世界での逢魔です。三依先輩は遍在者の時でも俺の作品を見られませんよ」

「いや――でも、そっか、今のあたしだと無理か」


 無理ってなんだ?

 三依先輩は口元に手を当ててぶつぶつと呟いた後、俺に向き直った。


「相真君、七掛ちゃんに鎌をかけられたんだよ」

「鎌をかけるってどういうことです?」

「相真君が作業用に使っているパソコンはA世界の物でしょう。つまり、相真君の部屋で作品を見せてほしいと七掛ちゃんがお願いするのはおかしい。だって、七掛ちゃんはB、D遍在だから」

「それはまぁ、あの時にもおかしいとは思いましたけど」

「プロジェクターで部屋に作品を投影していたとしても、やっぱりA世界を観測できない七掛ちゃんには見えないんだよ。マウスを操作しようとした君の反応や口外するなって言葉で、逢魔だと確信したんだと思う。そこで、ダメ押しに見せてほしいと迫った」


 ……筋は通っている。


「でも、何のために?」

「ファンだからじゃないかな」

「いや、それは矛盾してますよ」


 七掛はA世界を観測できず、逢魔作品を閲覧できない。ファンになんてなれるはずがない。

 俺の指摘に三依先輩は口を手で隠して笑った。


「矛盾ねぇ。何が起きているのか、あたしにも全貌は掴めてないけどさ。でも、良い方に転がってるんじゃないかと思うんだ」


 再び歩き出した先輩の横に並びながら、俺は三依先輩を見る。


「良い方に転がっている?」

「それを語る資格が今のあたしにないことだけがバッドニュースだ。あぁ、もうちょっとだけサクラソウに居たかったなぁ。なんて、今までの卒寮生もみんな言ってたんだろうけどさ」


 三依先輩の中ではもう終わった話扱いなのか、足早に山を下りはじめる。


「相真君にお願いがあるんだ」

「なんですか?」

「あたしの部屋にあるネリネの造花を七掛ちゃんに渡してくれないかな。BとC世界、どちらのも一緒にさ」

「さっきの悩み相談を聞いてましたよね。今は七掛と会うのが気まずいんですけど」

「その件も含めて、会う理由を提供してあげようというあたしの最後の贈り物だよ」

「……あのネリネの造花、俺がもらったらだめですかね?」

「それを決める資格が今のあたしにはないんだよなぁ」


 またそれか。


「どの道、七掛に謝らないといけませんから、引き受けますよ」

「よし、任せた!」

「――痛っ」


 三依先輩に背中を叩かれてのけぞる。

 かなり痛い。真冬で厚着しているのをいいことに思い切りたたかれた。


「あたしがいなくても女の子を泣かせんなよ!」

「善処しますよ。っていうか、ジンジン痛むんですけど」

「はっはっは」

「内心やり過ぎたと思ってるんなら笑ってごまかさないで下さい」


 まったく。

 在自山を下りてバス通りに出る。在自高校の学園バスなら山に入っていくけれど、市営バスはこの道まで出ないと乗ることはできない。


「あと一分ちょっとで来るってさ」


 時刻表を覗き込んだ三依先輩が教えてくれる。

 ラスト一分。

 どちらともなく空を見上げた。真冬の夜空は空気が澄んでいるのもあって高い。

 麓まで下りたとはいえ、この辺りは家がまばらだ。畑や田んぼばかりで、街灯の明かりも少ない。


「あぁ、こうして君と見上げる最後の星空なのに、霞んで見えないや。参ったね!」


 冗談めかして三依先輩が笑う。

 顔を見るのは憚れる濡れた声色に同意する。


「本当ですよ。フランス語だってまだ教わり始めたばかりじゃないですか。ロシア語だってまだ主語くらいしか教わってないのに」

「それについては本当、ごめん。みんなから教わって」

「三依先輩に教わりたかったんです」


 我がままでしかない。だから、これ以上は言わない。


「明日、終業式ですね」

「あぁ、そっか。ちょっと憂鬱だわー」

「春休みなんですから、喜ぶべきでしょう?」

「晴れてクラスの友達と遊びに行けるのはうれしいかな」


 ちっとも嬉しくなさそうな声で三依先輩は笑う。


「偽恋人の話だけど、クラスの子にはフラれたって言っておくよ。この顔なら信憑性抜群だし」

「それ、赤穂先輩がサクラソウに怒鳴り込んで来そうですね」

「今の君の顔なら向こうが勝手に勘違いしてくれるよ」

「お互い様でしょう」


 道の先にヘッドライトの明かり。

 大型車の走行音が近づいてくる。


「――相真君」

「なんですか?」

「めげるなよ。確かに、あそこはサクラソウだけど、サクラソウだからこそ悲しさだけで終わらない青春をしなよ」

「考えておきます」

「考えるな。感じろ」

「言いたいだけですよね、それ」


 バスが目の前で停車して、乗降口が開いた。

 バスに乗り込みながら、三依先輩は振り返らず、最後の言葉を口にした。


「あたしは楽しかったよ。君とは短い時間だったけど、それでも、心の底から楽しんだ。だから、相真君もがんばれ」

「頑張ります。お元気で」

「うん――またね」


 さようなら、じゃないのか。

 三依先輩との繋がりを断ち切るように、乗降口がぴしゃりと閉められる。

 去っていくバスが見えなくなるまで見送って、俺は再び夜空を見上げた。

 霞んで像を結ばない夜空はそれでも綺麗に星を輝かせていた。


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