第4話  勉強会

 三学期期末試験の範囲をクラスメイトに教えてもらった俺は、カラオケ店で歓迎会をするというみんなに「猛勉強しないとガチでやばい」と本心から頭を下げて、サクラ荘への帰路に就いた。

 いや、本当になんだよ、この範囲。えげつなさ過ぎて心折れるわ。しかも進学校だけあってレベル高いし。

 赤点どころか二桁点数も危ういぞ。

 とにかく、まずは仲葉先輩や屋邊先輩にご教授願おう。去年のノートが残っていればそれを貸してもらって勉強しないと。


 あ、でも放課後は遍在者の義務で外国の論文をコピペしたりするんだっけ。今の俺だと知識がないから文字ですら模写にしかならないぞ。外国語の勉強を並列してやれってか。

 そもそも、外国の論文なんて読めもしないのに重要性が分かるはずもない。


 いろいろと聞くしかないな。

 塀に囲まれたサクラ荘の敷地に入ると、縁側で猫を撫でている屋邊先輩を見つけた。あの縁側が定位置というのは本当らしい。


「屋邊先輩、ちょっといいですか?」

「うん? あぁ、新寮生の榎本君」

「はい、いえ、榎舟です」


 あまりにも自然に苗字を間違えられたから聞き逃しそうになった。

 屋邊先輩は膝の上の猫から手を離す。すると、猫は俺を嫌そうに一瞥し、屋邊先輩の膝から降りて庭の隅へと消えて行った。


「ニャムさんは人見知りだから、あまり気にしないで」


 あの猫、ニャムさんっていうのか。サクラ荘で飼ってるのかな。

 屋邊先輩は膝についたニャムさんの毛を払うと立ち上がった。


「それで、用事は?」

「あ、そうだ。期末範囲の授業内容が分からないので、去年のノートとかあったら貸してもらいたいんです。後、遍在者の義務ってやつも何から手を付ければいいのか」

「なるほど、確かに、転入してきてばかりだと大変だよね」


 納得した様子で屋邊先輩は腕を組む。


「遍在者は学力に関係なく呼び集められるから勉強は寮生全員の死活問題でね。そんなわけで、期末試験が近づいてきた今頃になると――」

「おーい、勉強会開くぞー。っていうか、誰か数学教えてヘルプ!」


 サクラ荘の中央、会議室の方から聞こえてきた救援要請に目を白黒させていると、屋邊先輩が小さく笑う。


「あんな風に、勉強会が開かれるんだよ」

「焦ってるのが俺だけじゃないとわかって安心していいのか、不安になるべきかちょっと迷うんですけど」


 来年度も試験前に慌てる未来の自分を見た気分。


「榎舟君は先に会議室に行くといいよ。僕は去年のノートを探して持っていくから」

「ありがとうございます」


 屋邊先輩いい人。

 俺も準備しないと。

 自室へ行って荷物を置き、勉強道具一式を持って部屋を出る。

 扉の前に人が立っていた。


「七掛さん?」


 俺と同じく勉強道具を持って部屋の前にいた七掛さんは相変わらずのクマが浮いた目でこちらを見上げたかと思うと、廊下の先を指さした。


「勉強会する。呼びに来た」

「あぁ、ありがとう。今から行くところだったんだ」


 わざわざ呼びに来るなんて、意外と面倒見がいいらしい。

 先導するように歩き出した七掛さんの隣に並ぶ。彼女が持っている教科書を見る限り、俺と同じ一年生らしい。


「サクラ荘にいる中で一年生って何人いるんだ?」

「私と榎舟君だけ」

「……他はみんな二年ってこと?」

「そう。半年前までは三年生もいたけど、卒寮していった」

「そっか」


 一年が二人だけならできるだけ仲良くしておかないと後々辛いな。七掛さんも同じように考えて呼びに来てくれたのか。


 サクラ荘中央の会議室にはすでに集まった寮生たちによる勉強会が開かれていた。

 男女関係なく得意教科を教えあっている状況らしい。この手の勉強会によくあるグダグダになっていく空気はなく、ちゃんと勉強していた。

 在自高校の授業レベルが高く、遍在者には遊ぶ余裕がない裏返しにも思える。

 けれど、これだけまじめに勉強していれば成績も上がるだろう。サクラ荘にまつわる噂、政府が全国の天才を集めて教育する施設というのも、こういった背景のもとで生まれたのかもしれない。


「一年組が来たな」

「七掛ちゃん、英語を教えて」


 女子生徒の一人に呼ばれて、七掛さんがちらりと俺を見た。


「屋邊先輩から去年のノートを借りないと授業内容もわからないから、俺は後回しでいいよ。同じ一年だけあっていろいろ教えてほしいけど、時間かかりそうだからさ」

「分かった」


 頷いて呼ばれた方へ歩いていく七掛さんの後姿を見てふと思う。

 ……俺たち以外は全員先輩だったはずでは?

 七掛さんは一つ上の学年に教えられるくらい頭がいいのか。頼りにさせてもらおう。


「榎舟やーい、こっちこーい」


 呼ばれて振り返る。笠鳥先輩が俺を手招いていた。


「今行きます、蕎麦男子先輩」

「蕎麦男子先輩!?」


 大げさにのけぞって、俺が付けたあだ名に反応を示した笠鳥先輩は昨日の夜を思い出したらしく笑い出した。


「昨日の引っ越し蕎麦のことか。来たばかりで顔と名前が一致しないのはわかるけど、お前、もっといいあだ名をつけろよー。あれか、細く長く付き合おうって含みでもあんのか。駄目だぞ、もっと太く切っても切れない絆にしようぜ」

「つまり、うどん男子先輩ですか?」

「麺類から離れろよ! 切っても切れないうどん男子とかコシが強すぎるだろ!」

「――腰の強い男子と聞いて!」

「鬼原井は落ち着け、保健体育のワードじゃねぇよ!」


 割って入ってきたのはちょうど会議室にやってきた鬼原井先輩、仲葉先輩、招田先輩の女子トリオだった。

 仲葉先輩が俺を見つけて紙袋を持ち上げる。


「去年のノートが必要かなと思って、持ってきましたよ」

「ありがとうございます。屋邊先輩にも頼んでいましたけど、二冊あると補完しやすいので仲葉先輩にも頼もうと思ってたんです」

「先回りしちゃいましたね」


 ニコニコ笑う仲葉先輩の後ろから屋邊先輩もやってきた。


「はい、去年のノート。字が汚いけど――仲葉さんのがあれば読み解けると思う。赤で星マークつけてるのは僕が勉強するときに考えた問題だから気にしなくていいよ」

「ありがとうございます」


 二人分のノートを受け取って机に重ねる。うむ、圧巻のボリュームである。

 のんびりしてもいられないので早速数学のノートを開いて読む。

 仲葉先輩も屋邊先輩もノートに解答だけ書くタイプの人じゃなくて助かった。担任の補足説明もメモを取ってくれているから授業をある程度追体験できる。

 でも、ほぼ一年分の授業深度の違いがあるから、その部分を基礎に補足説明が乗ると訳が分からない。


「うどん男子先輩が教えてやろうか?」

「お願いします」


 笠鳥先輩が椅子を持ってきて俺の隣に座り、ノートを覗き込んでくる。


「任せろ、数学だけは得意なんだ。数学だけはな!」


 なぜ、数学だけ、を強調するのか。

 まぁ、全教科で追いつかないといけない俺としては一教科だけでも教えてくれるとありがたい。


「手が空いたら七掛に任せるけどな。この勉強会もほとんど七掛先生の補習授業みたいなもんだし」

「七掛さん、頭いいんですか?」

「三年までの授業の予習が済んでるくらいには勉強ができるやつだ。後は鬼原井もあれで頭がいい方だな」

「鬼原井先輩が? ただのエロ大魔神だと思ってました」

「エロと勉強は両立できるんだ」


 これ以上話を続けるとこちらを剣呑な目で睨んできている招田先輩に叱られそうだ。

 ……あれ? 仲葉先輩がいない。

 会議室を見回すと他にも女子生徒が数名いなくなっていた。

 不思議に思ったのも束の間、廊下の方から女子の話し声が聞こえてきた。


「はい、みんな、休憩タイムに入ろうか。バレンタインデーチョコを持ってきたよ」

 最初に入ってきた戸枯先輩が頭上に箱を掲げる。

 そうか、バレンタインか。え、今日だっけ?

 スマホで日付を確認すると、バレンタインは明日だった。


「当日に渡そうとすると男子がそわそわして勉強できないだろうから、一日ずらしてお届けだ、野郎ども、感謝しろよ!」


 あぁ、そういう。配慮のたまものだったのか。

 戸枯先輩が片手で持った箱を会議机に置き、笠鳥先輩の方へ軽く滑らせる。

 笠鳥先輩が箱を止め、捧げ持つと戸枯先輩たちへ恭しく頭を下げた。


「ありがとうございまする。ホワイトデーの折には気持ちを込めてお返ししますゆえ」

「うむ、苦しゅうない」


 仲いいなぁ。

 笠鳥先輩が蓋を開けて会議机に置き、チョコを一つつまみ上げる。手作りチョコだ。


「これはマジなやつだったりする?」

「笠鳥にマジになるやつはいないでしょー」


 戸枯先輩があっさりと否定して手を振ると、笠鳥先輩が苦笑してチョコを食べた。


「お、美味い」


 すぐにいつものペースを取り戻す笠鳥先輩を眺めつつ、俺も義理とわかりきったチョコを一口いただいた。

 それにしても、本命かどうかを気にする笠鳥先輩を見る限り戸枯先輩が言ったバレンタインデー当日に渡すとそわそわするという見立ては正しいのだろう。

 ただ、俺の場合は入寮したばかりだから義理で間違いないと断言できる。だからこそ、バレンタインデーの存在も半ば忘れていた。

 まさか義理とはいえもらえるとは思わなかったし。

 あ、ほろ苦くて美味しい。


「――ん?」


 ふと視線を感じて横を見れば、七掛さんがこちらを見ていた。目があった瞬間、彼女は視線を外してそっぽを向く。

 七掛さんの視線を追いかけると、別の女子生徒、縁山先輩がため息を吐くところだった。

 なんとなく重いその溜息に、俺はどういうことかと七掛さんに視線を戻す。

 七掛さんもまた俺を見ていたが、すぐに視線を逸らして縁山先輩を見た。


 ……俺に縁山先輩の悩みを聞いてこいって言ってる?

 縁山先輩との接点はほぼないけど、なんで俺にお鉢が回ってきたんだろう。

 しばし考えて、明日がバレンタインデーだと思い至る。

 この時期の悩みとなれば恋のお悩み。かといって、相手が分からない以上同じ寮生が聞きだすと地雷を踏み抜きかねない。

 その点、入寮したばかりで縁山先輩が抱える悩みとは確実に無関係な俺なら、どんな問題でも波風立てないで済む。しかも、今は同じ寮生というのも悩み共有のハードルを下げられる。

 俺以上の適任がいないから、聞いてきてほしい、といったところか。


 俺は空気の読める男子高生である。

 立ち上がって縁山先輩に話しかける。


「どうかしたんですか?」

「何がって、榎舟君か」


 俺を見上げた縁山先輩は意外そうな顔をしながら隣の席を手で示した。座っていいらしい。

 椅子を引いて座りつつ、単刀直入に話を進める。


「なんだか、重いため息をついているのが見えたので」

「あぁ、見られたか。というか、よく見てるね」


 気付いたのは俺ではなく七掛さんですけどね。

 感心したように俺をまじまじと見た後、縁山先輩は「まぁいいか」と呟くと会議机に頬杖を突いた。


「クラスの男子が、あたしを好きだと噂が立った」

「バレンタインデーですもんね」

「それだけならよかったんだけどね。今日、その男子が別クラスの赤穂さんに告白した」

「……え、噂が立ったのはいつですか?」

「一週間くらい前かな。もちろん、あたしは告白されてもいない」


 想像していたのとはまるで違う恋の悩みだったんですけど。しかも、縁山先輩は迷惑をこうむっただけで恋心とか一切なさそうだし。

 その男子生徒は何を考えてるんだ。どんな事情があったんだ。

 状況も裏事情も掴めずに言葉を探していると、縁山先輩が話を続けた。


「なんかね、その男子が罰ゲームで好きな人を言うことになって、あたしの名前を出したらしい。多分、本命を隠すために誤魔化したんだろうけど、この一週間で予想以上に噂が広まったから慌てて本命に告白した。これが真相じゃないかな」

「あぁ、なんとなく事情は分かりました。噂が広まっちゃうあたり、とっさに嘘を吐いたのも本人的には正解を出したつもりなんでしょうね。縁山先輩がこうむった迷惑を考えなければ、ですけど」

「考えてないからこそ、あたしを巻き込んだんだよ。あたしに対する認識もその程度って事。まぁ、あたしも名前を覚えてなかったくらいだけど、それでもこんな風に出汁にされる筋合いはない」


 はっきりと言い切ってから、縁山先輩は再びため息を吐くと会議机に突っ伏した。


「はぁ、遍在者だから遊びの誘いも受けられないハンデを背負いながらなんとか築き上げたクラス内での立場が、あれのせいでグラグラだっての」


 確かに、そういう意味でもひどいな。遍在者特有のハンデまでは意識してなかった。相手も、縁山先輩がそんなハンデを負っていることなど知る由もないから、縁山先輩も抗議できない。

 それであの重苦しい溜息か。


「なんでかあたしがフラれた扱いだし、事情を知ってる友達は同情してくるし……。あたしは噛ませ犬じゃないんだっての」


 当然ながら不満を口にして、縁山先輩はため息を吐くと、何かに気付いたように俺を見つめてきた。


「榎舟君、結構顔いいよね」

「なんですか、いきなり」

「うーん」


 縁山先輩は体を起こし俺を上から下まで観察すると、口を開いた。


「榎舟君、あたしと付き合っているふりをしてくれない?」

「え、嫌ですけど?」


 思わず全否定してしまった。

 でも、今の話の流れからすると、付き合っているフリをする俺が噛ませ犬になるってことだし、拒絶するのが当然だと思うんだ。

 縁山先輩はまた会議机に突っ伏した。


「うわぁ、結構きついな、これ……ごめん。そもそも無神経なことを言った。あぁ、これじゃあ、あれとおんなじだわ」

「いえ、俺も言葉を選ぶべきでした。お相子ということで」


 と、言ってはみたものの、今の俺を振り返ると最低ではなかろうか。

 なにしろ、悩みを聞き出しておいて解決策の提示もせずに拒絶する形になっている。提案された案が納得いかないとはいえ、流石に今の物言いはない。

 代替案が浮かぶわけでもないから仕方がないか。


「期限を切るなら、付き合っているフリをしますよ」

「……いいの?」

「三学期が終わればクラス替えもあります。そうなれば縁山先輩は新しいクラスで立ち位置を決めていきますよね。今の噂が立っているとやりにくいのは確かだと思いますし、考えた限り、他に案が出そうもないですから」

「ありがとう。助かるよ」


 縁山先輩にとっては死活問題といってもいい事件だったからか、本気で感謝しているようだった。


「後は別れるタイミングと理由をどうするかですけど……春休み明けにしましょうか。理由は、同じ寮住まいだと距離が近すぎて踏み込み方が分からなかったから、卒業後に改めて付き合うことにした、でどうですか?」

「凄くそれっぽい。榎舟君、編入前は何人の女の子を泣かせて――」

「別の男子に話を持っていきましょうか?」

「ごめん、申し訳ない、許して」


 まったく。

 とりあえず、一件落着かな。

 報告がてら七掛さんを見る。

 こちらの話を聞いていたらしい七掛さんは、俺と目が合うと複雑そうな顔をして視線を逸らした。

 ……何か、解決案があったのだろうか。聞けばよかったかな。


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