最終章 秦の愁天武 天に在って願わくば④

           *

 西蘭を片腕に抱き、天亥の手を引いたところで、姫傑の真後ろで火の手が上がった。

(来たか。始まるな)

 気付いた天亥が腕を伸ばして、戻ろうとする。

「母様が! 姫傑、母上も一緒に!」

 腕をひっ捕まえて、持ち前の短気さで言い返した。俺にしては随分と我慢したと思う。

「甘ったれたこと言ってんじゃねえ。――大丈夫、珠羽は庚氏だけは殺しはしません。さあ、俺の言うことを聞いてくれますね? でなければ、二人だけの秘密を暴露しますよ。貴方は何を、どれだけ殺しました?」

 ひくっと天亥の喉が大きく震えた。姫傑は決して皇宮では見せなかった獰猛な視線で、天亥を睨(ね)めつける。

(言ってみろ、てめえが殺した中には、身内も、含まれてんだろうがよ)

 やがて小さな声で、天亥は「わかった」と呟いた。

様子を見ていた西蘭が耐えきれずに天亥を引き寄せた。

「……子供を怖がらせて、どうすんだい。可哀想に……おいで」

「足、動いて、ない。どうしたのだ?」

「ん? これかい? さあねえ……昔、わるーい男に刺されたのさ。命があるだけ、めっけもんだ」

「それは、けしからぬ話だな」

「ふふ、そうだな」

 西蘭は微笑んだ。「子供に罪はないだろ」と頭を撫でた――ところで、大きな梁が火だるまになって落ちて、行く手を阻み始めた。

あっという間に火は燃え広がり、宮を焼き始めた。熱風に息ができず、姫傑は袖で口を覆い、進まねばならなかった。煙が立ち上り、それもできなくなる。

――ここまでか……?

「くそ……っなんてこった……っ」

 絶望の中、不意に炎が巻き上がり、道ができた。

 ――こっちだ、趙王。貴様は嫌いだが、命令だ。今回だけは助けてやる。

 ぼうぼうと燃えさかる宮殿の中で、姫傑は火の中に立つ、かつての仙人を見つけた。

 金色の髪に、ゆるやかな表情。琵琶を持つ手は、天亥を連れ出す。

「蛟龍貴人! おまえ……」

 火に煽られた貴人は、眼を細め、腕を大きく振り上げた。龍が這い出て、梁の炎ごと押し潰す。一瞬で火は消えた。

「急げ。すぐに火は燃え上がる。一分とて、もたぬぞ」

 そうして障害を難なく退け、仙人は瞬く間に消えてしまった。

「あたしらを助けた? 仙人が? どうして……」

 涙目の西蘭に口づけし、天亥を抱き上げる。

「――さあな! 考えてる暇ねえな! 今なら、咸陽を抜け出せる!」

 西蘭と、姫傑は頷きあった。しかし、後ほど天亥は、秦を憎む姫傑と、失策を責め立てた忠臣の裏切りにより、自殺に追い込まれる運命である――。

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