最終章 秦の愁天武 天に在って願わくば③
*
――更に、愁天武亡き後。二年が経過。
咸陽から遷都した渭水南。阿房宮。天武が最後に建てた、膨大な宮殿である。
今朝ほど密かに楚の珠羽の軍と、漢の劉剥の軍が咸陽に迫っているとの知らせが、咸陽を駆け巡った。時機は来た。天武の死は隠していても、すぐに分かる者には分かる。
元庚氏の夫、楚軍を率いる叡珠羽は、軍を吸収し、咸陽を焼き尽くすつもりだという。
「どこにいやがる、あのガキ!」
――っと。熱くなりすぎたぜ。
姫傑は怒鳴って、すぐに辺りを窺い、殊勝な態度に戻った。宦官の長・太監などをやっていると、自然と冷静さが身につく。
それに、殷徳のご機嫌を損ねないためにも、演技は必要だった。
いや、愛玩され、生かされるには、心を閉じたほうが傷つかずに済む。常に姫傑の手は、殷徳や、せがむ妃嬪の相手で汚れた。
天亥を操作する一方で、天亥が相手にしない貴妃たちの夜の相手も、仕事となっていた。
数々の女を愛しながらも、貫けない。疼く捌け口のない欲が、どれだけ姫傑の精神をねめつけたか。
宦官用の服の胸元を少し開けて、手で扇いだ。男性器を切除し、抜けた髪を隠すために、頭には頭布を巻いていたが、いつしか、また髪は伸びていた。
不思議だが、逸物をなくしてからの自分は、ずっと雄になったと思う。切り取った下半身が疼く兆候すら、感じたこともある。
――モノなくしても、男っちゅーもんは、そうそうなくならねぇやな。危機を察する本能だけは手放さなかった自分を、褒めてやりてえぜ。
(っと、いないな……母親の近くか? あの甘ったれ)
探し回ると、天亥は、庚氏の宮で空を見上げているところだった。
すぐに姫傑に気づき、にぱっと笑う。
少し気弱で奥ゆかしい性格は断言すれば、王向きではない。
(本当に、王って柄じゃねえな、こいつは)と姫傑は再三、思い、それでも太子の身分で有りながら、天武の子に仕えて来た理由は、殷徳に命を助けられたからなどという、高尚な考えなど、元よりない。
――宦官などという、女が好きな自分が一生で一番遠くに在りたかった存在になってまで永らえた動機は、ただ、秦を内部から滅ぼすため。
想像を絶する宦官手術に耐えたのも、すべて天武への恨みあってこそ。
死線を彷徨い、それでも命が在ると知った瞬間、姫傑は諦めるものかと誓った。
策略は苦手だが、天亥を利用するには容易かった。
「趙皇姫傑? 何があったのだ」
「さあ、君子。一刻も早く、咸陽を出るのです。もうじき、楚の軍が押し寄せて、惨殺が始まるでしょう。楚の珠羽は冷酷にも咸陽を滅茶苦茶にする男だ。亡き天武さまのためにも、貴方だけは、生き延びねばなりませんぞ」
「亡き父の……?」
(言ってて、ちゃんちゃらおかしいぜ)と思いつつ、姫傑は続けた。
天亥は、庚氏に似た大きな瞳をしており、少し少女のようにも見える顔立ちだ。
「とうとう、父の死が知れ渡ったか」
「ええ、そのようです」
短く返事をし、姫傑は咸陽の回廊を急ぐ。天亥に与えられた宮殿は、阿房宮の中央皇宮。
天武はいつしか姿を現さず、寵姫と巡遊にいそしんでおり、宮殿の内部など見向きもしなかった。
「貴方の無茶な政治のツケでもありますがね」
「政治? わたしは、そなたらの言うとおり、父のやり残した残骸を片付けただけだがな」
戦いにはそぐわない優しい笑顔だが、言っている内容は、冷酷そのものだ。
一瞬、かつて君臨していた秦の王を彷彿とさせるような口調。
(莫迦な。こいつは、珠羽の子だ。なのに、なぜ、似ている……)
どうやら時間がないようだ。武道に長けた男の耳が、迫り来る音を察知する。
「寄り道いたしますぞ」
「姫傑? こっちは後宮だが……」
少年の手を引き、姫傑は阿房宮の南の宮、天空で言うと南十字星にあたる宮殿に足を踏み入れた。回廊を通じ、辿り着いた場所は、人気のない寂れた宮だ。
調子の外れた歌が聞こえてくる。
――西蘭だ! 身の毛のよだつ力辱から、二十年逢えずにいた。
涙が溢れた。
愛妾の声に、姫傑は昂ぶりを抑えられない。
逸物はなくとも、心の勃起は誰にも止められないだろう。
「西蘭! 俺だ! 分かるか?」
ぴたり、と歌が止んだ。ゆっくりと女が姿を現す。
西蘭は片足を引き摺っていた。天武に刺された傷は深く、歩行機能に支障を来していた実情を初めて知る。
「姫傑……? 姫傑だね!」
声は嗄れ果て、若いはずの西蘭は、老婆のような白髪だった。
極度の恐怖が老いを早めたのか。それとも、再三の無駄な出産か。
か弱くなった四肢を抱き締めて、姫傑は涙声で囁いた。細腰宮はあの頃と変わらない。
「済まねえな。ずっと、こんな場所で待たせて」
西蘭は崩れ落ちた。床に突っ伏して、泣き声を上げた。
「天武と殷徳が死んだ以上、ここにいる必要はねえ。話は後だ。こいつを連れて逃げる。おまえも来い。天武の死が伝わった各国が、虐殺に来る!」
あたし、白髪だよ……? と西蘭が髪を押さえる。
姫傑は巻いていた布を外し、短髪になった頭を振って言い捨てた。
「だから、なんだ。変わんねえよ」
西蘭は「あんた、アレなくしても変わらんねえ」と憎まれ口を叩き、瞳を輝かせた。
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