趙の風雲児――龍と蝶

「もう、いいのかよ」

 正門手前で、ふと、翠蝶華は足を止めた。「相変わらず可愛げねえ女」と悪態が背中に飛んだ後に、言葉は夜空に消えてゆく。

柱に寄りかかったまま、男は酒瓶を手に、吐き捨てた。

「とうとう天武が統一しやがった以上、俺も、動かなきゃならねえよ。楚の珠羽に、みすみす奪われてたまるかよ。あいつ、そのうち咸陽を焼いちまうぞ。怖ぇ怖ぇ」

 返事をしない翠蝶華に呆れ、髪をがりがりとかき上げる。

「おい、呂の娘。てめえが秦にいると、色々と厄介だ。抱き潰してやっから従いてきな」

 嗚咽を堪えられない翠蝶華に、劉剥は後から腕を回し、翠蝶華は劉剥の腕の中で涙を零す。劉剥の背中の龍が、包むかのように舞い上がった。

「あたしはいつでも、この龍を見つける。あんたが先に死んだら、あの女を引き裂いてやるからね」

「あァ? っそ。精々、俺は長生きしなきゃなんねえな。長生きしてえから、クソマズイ飯、作るんじゃねえぞ。分かってる? 俺はおめえを選んだんだぜ?」

 頷いて、翠蝶華は刹那、眼を閉じた。耳元の赤い耳飾りが揺れる。蛟龍の雲気は、冬空に映えて輝いていた。

「俺は呂家の後ろ盾が欲しいだけだが、少しは愁傷になったんじゃねえか? あれか? 秦の王の貴妃なんてやってると、ちったあ素直になるってモン?」

 翠蝶華は一度だけ後宮を振り返ると、劉剥の後を従いて、足を踏み出した。

 未来は拓ける。天武の、翠蝶華と劉剥は離れてはならないと言った香桜の言葉そのままに――。

「劉剥、聞きたいんだけど。あんた、なんで龍を背負ってんのよ?」

 劉剥は面倒くせえなという風情で、言い返した。

「さあ? でぶ母ちゃんが、仙人に見初められたんじゃねえ? もしくは、押し倒したか」

「ふざけないでよ! まあ、あんたが香桜と同じなはずないわね。天帝と蜥蜴の差だわ」

 天帝の言葉に、劉剥が興味を示した。「道中にでも話してやるわよ」と翠蝶華は勝ち気に言い返す。

 こうして、咸陽の後宮を風靡した元妓女・淑妃は静かに姿を消した。

 空いた淑妃の地位は、のちに傾国の美女と称される女が襲名した。

名を申西蘭と言い、後に西姫と改名。天武の子供を二人、産んだとされている。

いずれ、秦の王亡き後、子供を次々と毒殺され、珠羽襲撃の際、宦官の姫傑と共に、最後の庚氏の子供・愁天亥と逃亡、自殺の教唆するのだが、まだまだ系譜にも記されていない。

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