趙の風雲児――統一の夜
19
――庚氏の腕の中で、ふくふくした手が暴れている。白い肌を更に青褪めさせて、庚氏は、温かな布に包んだ赤ん坊を抱いていた。
「何をしておるのです。さあさ、天武さま」
庚氏の眦が動いた。ゆっくりと四肢を起き上がらせて、麗しい黒髪を揺らし、芍薬の如く微笑んだ。相変わらずの皮肉言葉が、何故か嬉しかった。
「生きて、おったか……」
庚氏は涙で腫れた目を擦り、慣老と見つめ合った後、頷いた。
「花芯のお陰でね。花芯は、薬草を磨れるのです。一生懸命、慣老と薬を作ってくれましたのよ。天武、夫の浮気を私は許しません。しかし、御礼くらいは……おお、よしよし」
泣きじゃくった子供が小さな腕を伸ばし、指をしゃぶって、小さな眼で天武を見つめていた。
「お抱きになりたそうな顔ですわね」と庚氏が、いつもの画策満載の笑顔で問う。
天武は慌てて首を振った。
「赤子を抱くには、私の手は冷酷過ぎる」
「まあ、元々冷酷な男の種よ。首が座っておりません。そーっとね……」
脳裏に先程の血塗れ・汚物塗れになって絶叫した姫傑の表情が浮かび、屠った男たちの臨終の煩悶が過ぎった。
ふっくらとした赤ん坊は、目元が庚氏に似ている。か弱すぎて恐ろしい生き物だ。同じく手があり、足がある。
(なんと、弱い……こんな小さき者が争い、憎しみ合う生き物になるのか)
――私は、こんなに温かなものを知らぬ。精一杯に生まれて来た命の、守り方など知らぬ。知らぬ。どうすれば良いか、知らぬのだ……。
ひゃー。忽ち赤子は泣き声を上げ、慣老が叱咤した。
「天武さま、大人の涙は、生まれたての赤子には毒ですぞ」
喚起され、天武は慌てて布越しに墜ちた涙を拭う。
ようやく慣れてきた。腕に尻を乗せ、鎖骨に頭を乗せると、安定する。ようやく赤子は泣き止み、眼を閉じて、ほかほかした体温を腕に伝えてきた。
「名は決めていますの。天亥ですわ」
「では、太子名は、愁天亥か。また咸陽が騒がしくなるな。私の子か……」
「ええ、紛れもなく、貴方さまのお子ですわ」
庚氏は強く念を押して告げ、天武を静かに燃えるような瞳で、見つめていた。
*
天武は疲労の限界を感じ、膝をついた。――趙から戻り、一睡もできていない。色々な出来事がありすぎた。
眩暈がする……いや、まだ動かねば。まだ立ち止まってはならぬ。
庚氏と別れ、〝そろそろ就寝を〟との慣老の叱咤を聞かず、天武は廊下を歩き回っていた。花芯を探さねば。気持ちは逸っていた。
花芯は今まで華毒で貴妃を殺していた。だが、庚氏を助け、子を助けた。気付けば、目頭は熱くなっていた。庭に、裸足で降りて、雪の冷たさに顔を顰める。
「やはり、ここか」
花芯は真っ白の雪の中、裸足で立っていた。髪を結っておらず、亜麻色の髪がゆっくりと揺れている。
「何をしているんだ。風邪を引く! また、奔起が文句を書いてくる」
「奔起さまは、私の父ではありませんわ」
花芯は微笑み、気丈な輝く目を開いて見せた。美しい金色の瞳が輝いている。
「行きずりの、身重の母を助けただけですの。本当の父は、存じません。ただ、これは言えます。母には、不思議な力がありましたのよ。天武さま。趙まで、どのくらい掛かりました?」
いつもながら、突拍子のない問いに、天武は朦朧と答える。
「あ、ああ、馬で十日ほどだが」
花芯は涙目で、その場に崩れ落ちた。顔を隠すのを止めたために、こうして見ると、花芯の肌は白く、触れた指先は痺れるほどに、冷たすぎる。
楚で触れた時より、ずっと冷たく感じるのは、何故だ。
「私は、仙人にさせられたのですわ。天武さま! ごめんなさい! お願い! 嫌わないでくださいませ。それに私は、言わなければならない話がありますの! よくお聞きになって! 庚氏さまのお子はね、天武さまの……っ」
髪を撫でると、花芯は瞳に涙を溜め始めた。毀れる涙は美しくて、息を飲んだ。
「なんて、優しい眼をするの……」
「聞いたぞ。おまえが助けたのだな。花芯、少しだけ、仙人を信じる気になった。おまえ、趙の山におったか?」
花芯は眼を瞠り、「いえ」と短く答えた。天武は首を振った。
「いや、おまえだ。薬草を舞い散らせた。華毒は趙に捨てたが……礼に何か」
「では、一生お傍にいさせてくださいませ!」
「正妃にはせぬぞ」
「貴妃として、一生ずっと仕えて参りますわ」
――そう来なくては。
仙人を手中にすることが、この時代を制覇する要だと、なぜに気付かなかったのか。
趙の皇宮を見て、分かった。姫傑がなぜ趙王になれたのかの、解があった。
恐らく姫傑は何らかの方法で仙人に接触した。
世界に仙人は多数おる。発見は不可能ではない。殷の王朝にも、周の王朝にもあった華の桃源郷の仙人伝説。
時代を凌駕する秘訣は、華仙人にある。
天武は象牙の肌の花芯を腕に強く抱いた。
(一生を掛けて、存分に働いて貰うぞ。花芯)
「花芯。私は、永遠にならねばならぬ。今後、私は自ら巡遊し、仙人と仙薬を探す。香桜の例がある。あやつも、仙人?」
花芯は何も言わなかった。
「しばし時間を空け、趙を完全に滅ぼす。その時、おまえに見せたいものがある」
天武と花芯の間を、風が走ってゆく。天武は悪鬼の表情で、手を差し伸べた。
「死を分かつまで、共に来い。永遠はきっと、この手に掴める。未来は拓けるのだ」
花芯の手が静かに天武の手に乗せられ、運命を重ねて行く。
――死を分かつまで……そんな言葉は幻想だと分かってはいる。
「私は、ずっとあなたの隣におりますわ。――愛していますの、天武さま」
統一の夜は、一つの別れと、一つの出逢いに彩られていた――。
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