趙の風雲児――返答

 姫傑と西蘭が泣き喚く声が、永巷に響く。天武は表情を崩さず、冷淡な目で姫傑を見下ろしていたが、やにわに告げた。

「助けたいか」

 頷くと、ガラン、と長剣が投げ出された。

「ならば、辱められる寵姫の前で、自害せよ。さすれば、西蘭だけは助けてやろう」

「俺が死んだ後なんか、信用できっか! てめえは西蘭を「子宮」なんて言ってやがる!」

「わからぬぞ? 手を解け!」

 西蘭の髪を掴んだ天武が、にぃと笑った。身の毛がよだつほどの悪鬼の顔。人の浮かべる表情ではない。

――幼少に、俺がそうさせたのか――。

 姫傑は剣を手に、震える足で立ち上がり、涙目で上を見上げた。大好きな空は見えない。腐ったような、湿った岩室があるだけだ。

 頬に涙が落ちる。全く、いつになっても止まらない。

 ……俺は莫迦だから、こんな愚行しか、思いつかねえ。

(褒姫、無理矢理、犯って、悪かった。あと、西蘭、もう、抱いてやれねえ……楽しかったぜ……ほんとによ。好きだったさ)

 唇を噛み締めて、貫かれた痛みに負けるかと、剣を己に向けて構える。

「これが、俺の返答よ!」

正気を取り戻した西蘭が、腕を伸ばしている。力辱に塗れても、西蘭は一度たりとも姫傑から眼を逸らさなかった。蹂躙されても、西蘭はずっと姫傑を見つめていた。

一瞬でも眼を背けた自分が恥ずかしくなる。

「駄目! 姫傑! お願いだ、止めさせてくれ! ――っつぅ……ぁっ」

「っりゃああああああああ!」

 二人の声が重なった。

「ア……」唇が麻痺した上から、声を発した気がする。

ぽた、ぽた……と足に血がこぼれ落ちた。

「死ぬわけ、ねえよ……。俺にだって、敗者の矜恃はあるん、だ……。天武、これで、西蘭をたすけ……うああああああああ!」

 絶叫して、(俺、死ぬかも)と思った。

貫いた下半身は震え、前のめりに倒れた時、遠くで赤子の声がした。

――赤子だァ? 種をぶった切った俺に、最高の皮肉な話だぜ。とことん、嫌がらせすんだな……。

呟けず、姫傑は遠くに意識を飛ばし始めていた。

    *

(死んだか……いや、生きておるな。そうでなければ、面白くない。これからだ)

 ふと見れば、西蘭も壁に背中を摺らせ、失神していた。

「死にたく、ねえよお……っ」

 蠢いた情けない呟きに眼が緩んだ。ようやく聞けたと、歓喜の震えを覚えた。

(そうだ、そう言えば良かったのだ。さすれば、切り刻まずに済んだのだ)

 悠か過去が眼に映り、やがて眼の前で激痛に耐えきれず嘔吐した男に、視点を戻した。

――莫迦な男だな。逸物を切り落とすとは。知らぬぞ、死んでも。

 天武は呆気に取られた兵を睨み、腕を伸ばしたまま、きつく眼を閉じた男――姫傑の腕を爪先で蹴飛ばした。まるで、死にかけの蝗虫だ。

手足を捥ぎ、捨ててやろうかと剣を抜いた。

 小さな声が天武の鼓膜を揺らした。

 振り返ると、西蘭ではない。西蘭はあまりの衝撃か、涎を垂らして、足を開いたまま、あられもない姿態を晒している。

(何だ? かすかに声が……)

「女を丁重に連れ行け。いつまでも触れるな! これ以上の手出しは処刑の対象だ。姫傑は、そのまま捨て置けばいい。手足を失えば、小半時も立たぬ内に蝗虫は絶命するものだ」

 ふと、どすどすという、女らしからぬ音に鼻に皺を寄せた。

「その男、私が引き取っても良いか? 天帝さま」

 永巷にはそぐわない、金銀を身につけ、たっぷりとした髪を揺らした燕の貴妃・殷徳が立っていた。

「どうせ、死に行くのだ。趙王の剥製は、さぞかし美麗と思ってな」

 殷徳妃は、返事を待たずに、天武の横を通り過ぎ、屈んでコロコロと笑った。

「ほほ、趙の美太子、姫傑ともあろう男が、酷い有様じゃ。さて、生きるか死ぬか、まだ分からぬな……おや? 止めぬのか」

 天武はふいと顔を背けた。

 今や殷徳の力は後宮に満ちている。庚氏を正妃にした以上、対抗馬の殷徳にも、立場を与えねば、大騒動になる。現に殷徳は、庚氏を毒殺しようとした。

(これ以上の後宮の面倒は、要らぬ!)

「死にかけた男一人で済むなら、安いものよ。後宮を牛耳る女を殺せば、私が反感を買おう。好きにしろ。今、そやつの名前を呼んだか?」

「ほほ。美子には眼がないのでな。趙との繋がりなぞない。何を心配しているのだか」

 殷徳は袖で口元を押さえ、またコロコロと告げた。

「そうそう、先程お子が、一際けたたましく泣いて、静かになったが……残念な話だな。お子の命は、一瞬で終わったようだぞ。そら、おまえたち、丁重に運んでおくれ」

 自分の宮から連れてきた青年と共に、殷徳は永巷に入り込み、「おやおやおや」と倒れた男の頭を撫で、満足そうに担ぎ出して行った。

 恐らく宦官にし、愛玩するつもりか、もしくは後宮の宦官手術の実験台か。

 ――誠、最初から腹立つ女よ。いつか追い出してやるぞ。

 気絶した西蘭を運び出すと、永巷には静寂が訪れた。

 地下階を上がると、大水法が見える。

〝お子の命は一瞬で終わったようだぞ〟

「そうか、やはりな……」

 いったい何だったのか。僅かに肩が揺れ始める。おかしな話だ。

「く、くく……ははは……」

 天武は肩を揺らして笑い、窺ってきた兵士すべてに剣を向け、笑いながら振り回した。

「あーははははははは! ハーハハハハハハ! 見るなァ! 殺すぞ……?」

 顔を手で覆い、冬の夜空に向かって、大きな笑い声を上げて見せる。

涙が流れるわ、笑いは止まらないわで、狂ってしまいそうだった。

 ――趙は終わった。長年に亘って続いた統一への悲願は、果たした。父に勝ったのだ。

母も消えた。今後、眼の前を塞ぐものは、もはや皆無。母を始末した私に、何の怖いものがあろう?

両腕をしっかりと開き、北極星と天極を腕に押し込め、天に向かって呟いた。

「なにを憂う! 私は始皇帝となったのだ! 私の子を欲しがる莫迦な女などは、ごまんといる! 宮殿も、陵墓も、すべてこの手で完成させねばならぬな!」

 ふと、背中にべちゃりと何かが当たり、天武は顔を顰めた。真冬だ。冷えた背中にさらに固い物体が当たった。

「やはり、莫迦王! 何が始皇帝よ! ふざけてるんじゃないわ! ああ、寒いわね!」

 振り返ると、涙目の翠蝶華が雪玉を投げた姿勢で停止していた。

 天武はふらりと足を向け、ただ、息を白くしている翠蝶華に向いた。「なによ」と言わんばかりに、勝ち気な口唇が、つんと上がっている。

 笑い泣きのまま、眉を下げる。唇が震えた。崩壊しそうなほど、涙腺が撓み、翠蝶華が

歪んだ。

「子が、死んだと……私の、子が……死……」

 翠蝶華は涙目のまま、両腕を開いて見せた。視界がぐにゃりと歪み、まっすぐに地表の雪畳に向かって涙がこぼれ落ちた。

 眼の前で翠蝶華は女神の微笑みを浮かべている。天武は首を静かに振った。

「嘘だ。そなたが心から私を受け入れるなど有り得ぬ」

「まあ、忘れたの? 私は秦の王の淑妃ですわ。最後くらい、優しくしてあげても宜しくてよ?」

 ――最後の言葉に天武が繰り返す。

「そなた、今、何と……何と言った!」

 翠蝶華は与えた貴妃服ではなく、いつかの妓女の服に着替えていた。一番似合う、赤の貴妃服に、短い帯を揺らしている。

「漢に戻るの。まあ、誰かさんが滅茶苦茶にしたから、再建しなきゃだけど、なんとかなるわよ」

「そんなもの、私が」

「滅亡させてやる? 分かりやすいわねえ。最後くらい、そっちから来たらどうなのよ」

 言葉は躊躇していた四肢を動かした。柔らかい翠蝶華の腕に飛び込んで、天武はただ、嗚咽を堪えた。遥媛公主の言葉が耐えず、胸を響かせては消える。

 行く先は地獄、行く先は地獄、行く先は地獄……。

 翠蝶華の腕に涙を落とし、肩を震わせた天武に、小さな嗚咽が重なった。

「元気な男の子だった! 天武、あんた、これから大変よ。母子をしっかり護るのよ。でも、面白くないわね。どうして、残虐な所業を続けるあんたが、幸せになれるのよ。面白くないわ。唾くらい吐きつけたいわね」

 驚きで言葉が出せない。

「それでは、子は……庚氏は……」

 翠蝶華は涙を溢れさせて頷いた。

(どうして、私は、翠蝶華の前では上手く自分を操縦できぬのか)

 背中に当てられた雪がひんやりと、背骨を髄まで冷やそうとする。

翠蝶華の口元が、もごもごと動いている。すべては、あの日と同じだった。永遠を信じた、あの日。翠蝶華と天武は共に互いを衝撃のまま、映し合った。

 天武は眼を閉じた。すべては、この唾の吐きつけから、始まった――。

だが、唾など飛んで来なかった。腕を絡め、翠蝶華は自ら唇を宛がったのだ。

天武の口腔を舐め、ねぶり、あたかも恋人の如く慈しんでさえ、見せた。

――愛おしいと、言ってはならぬ気がしていた。言ったところで、何も手には入らない。

だから、口吸いを強くする。

「……おまえには、最初から最後まで、してやられたな。共に私の国を見届けたかったが」

 翠蝶華は笑って、空を見上げた。穿つ天龍が悠々と空を泳いでいる。

「あんたの創る国なんて、どうでもいいわ。ねえ、皆を幸せにすると。約束して」

「さあな? 私は悪鬼だから。紅蝶の桃花蓮、翠蝶華。最後に舞ってくれぬか。覚えておらぬか? この場所……」

「私の舞は愛おしい人に捧げるもの。お断りよ」

 翠蝶華は周辺をゆっくりと見回した。

 永巷に入り込んだ翠蝶華の手を引き、見せた大水法の前だ。

「咸陽承后殿は広いのだが。何かの運命なのだろう」

 翠蝶華はととんと爪先を雪原に打ちつけた。

「冬ですわね。噴水も凍っていますわ。……気まぐれが起きましたの」

 翠蝶華は折扇を開き、ととん、と飛び上がって、ひらりと舞った。

 月に照らされた黒髪は銀の面紗を被って流れ、手足は舞い降りた天女の如く柔らかく、口元には微笑みすら浮かんでいる。緩く開いた口元は、誘い、艶めかしかった。

「約束は、果たしたわよ」

ふ、と笑って毅然と去って行き、天武も皇宮に爪先を向けた。

二人は二度と、振り返らず、別れた。

桃の下で出会ってより、十の年月が過ぎていた。

               *

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