趙の風雲児――処分
16
腹を抱えたまま、庚氏はきつく目を閉じていた。
臨月間近の陣痛は酷く、庚氏を弱らせ続けている。今夜が峠だと誰かが言った。
秦の王の悪業を子供と妻が背負ったのではないか。趙の巨大さは、誰もが知っている。秦のような近年ようやく発起した田舎町とは違い、知力も、軍事力もある。無謀であったと人々は嘆いていた。いずれ、秦は負け、趙の軍事兵力により、終わる。
「いいや、天武は必ず勝つよ」
かつての軍師の言葉は、都度絶望の秦の民を奮い立たせるに充分だった。
そんな最中に飛び込んだ、趙からの皇宮と少府に宛てた秦の侵略成功の書簡は、秦の民に再び活気をもたらした。
趙や楚は巨大ではあるが、地方豪族が苦しめた圧政の地でもある。
知らず亡命した民たちが秦を盛り立てていたと言っても、過言ではなかった。
同時に亡命民にとって、秦の王は亡命の末戴冠した天武以外に考えられない事由が、此処にあった。書簡の終わりの結びには、〝始皇帝〟と記されている。
17
趙王の姫傑と貴妃の申西蘭は自らの戦車の台に括り付けられ、目隠しをさせられ、自害防止の猿轡を噛まされた上で、上から布を張られた状態で、輸送された。
趙の首都邯鄲は度重なる砲撃により、ほぼ壊滅したが、滅亡とまでは行かなかった。
趙兵の大半は自害を選び、雪原には人肉が山となった。
天武は皇宮の宝玉を始め、様々な歴史在る宝物を強奪させたが、凍った皇宮にはさすがに手を着けられず、姫傑を問い質す方向に決めた。
「いつか、本気で滅ぼしてやるわ。今日のところは良い。豪族たちの仇は討った」
王よりも歴史の在る地方豪族たちは、度々横暴で、庶民を脅かしていた。
趙の皇族の大半は、豪族上がりのならず者。
処分されて当然であろう。そう思えば、罪悪感を持たずに済む。
人数は減ったが、長い長い行列を作り、趙からの凱旋は開始された。
途中で見せしめに楚の長城を通り、趙の捕虜数万を長城に置き晒して、首都の咸陽に向かう。下手に咸陽に入れれば、暴動を起こすからだ。天武は素早く兵を分け、見張り兵を十万つけた。
ふと、珠羽と劉剥の姿を探したが、見当たらず、捜索を打ち切る。
青空に白い雪が舞う。凍った山はいまだに白銀の世界を露わにしていた。
雪解けの季節はまだ、訪れず、兵糧も減って来た頃、懐かしき秦の象徴、渭水が見えた。
――さて、まだ気を緩めるわけには行かぬな。
「裁くべき罪人と処遇は、道中で書簡に記しておいた。王であった姫傑並びに正妃の申西蘭は、私が裁く。軍部の武官を集め、武器その他を取り上げ、二人を永巷に繋げ! ああ、傷の手当ては、していい」
胸から、緑の破片が吹き出してきた。指で触れると、つんと青葉独特の苦みが鼻をつく。
「天武さま、ご帰還でございます!……あ!」
「退け!」と迎え出た事務官の間を駆け抜けた。事務官たちが「天武さま、ご乱心」と右往左往して、転倒する者も出た。ところで、ぐらりと空中に放り出された。朱鷺が限界を迎え、横転した。
趙から秦へ、まだ軽い天武を乗せ、山を走り、山賊からも逃げた。秦では一晩をかけて燕を駆け抜け、翠蝶華を怖がらせた。
王を乗せ、趙から、秦へ送り届けた王馬は、同じく涙を浮かべていた。
「疲れたであろう。朱鷺――楚への長い道のりもあったな。項賴の首を落としに、全力で走った。此度の遠征では、最後には、趙の霊山を登り、秦への往路・復路を共に戻った。そんな顔をするな。大丈夫だ……少し、おまえも休むがいい。そうだ、先に陵墓で眠るか? 私も、皆も、そこでまた新たな国を作るつもりだ」
『そうなんですか? 知らなかったですよ』
後からよく伸びる低音が、天武の耳を揺らした。
天武は涙を浮かべた馬を一瞬だけ抱き締め、頬を寄せた後で、振り返らずに口にする。
「そう言えば、そなたには楚で信宮の話もしたな。フフ、何故か、おまえには話してしまう。内密にしろ。朱鷺を頼む。しばらく厩舎に安静を」
自身の言葉に急激に血の気が引いた。誰に向かって話して……。
返事はなく、冬風が静かに吹き抜けただけの回廊を、静かに眺めた。
〝陸睦! 朱鷺を頼む〟言葉は常套句で、異変には、誰も気づかなかった
(無理もない。知らせの書簡に、陸睦の名前は記せなかったのだからな)
陸睦は生きてはいない。死んだとは誰も言わなかった――。
「天武さま。庚氏さまの元へ、お向かいください」
李逵の姿が見える。また性懲りもなく盆を持っている……と思いきや、李逵の目は赤く充血していた。嫌な予感がした。
「庚氏は、どうした! 慣老は!」
ぐるりと二重の城壁で囲った庚氏の宮殿は、楚の佇まいをそのまま生かしており、砂の関城の風体であった。
主人を迎えようと、わらわら出て来た先ぶれの兵と女官を剣で追いやり、鎧のまま宮殿に上がり込んだ。
寝所への回廊を走ったところで、慣老に出会う。
「天武さま! 宮殿を走ってはなりませぬ! 庚氏さまのお体に障りますぞ」
天武は鎧を脱ぎ捨て、乾燥し、粉になった薬草を手に、慣老に差し出した。
「ギザギザに赤い実だ。間違いなかろう。あやつが間違えるはずはなかろうて」
空から舞い降りた、などと言っても信じぬだろうが。
「……慣老! 仙薬とは、凄いものよな、案ずるな、今後は仙薬の開発を許可し、私自ら一生を掛けて、捜索を命じよう。後は任せたぞ」
――お子は、生まれますよ。大丈夫です、天武さま。
(自信ありげにおまえは言ったな、陸睦……)
死して彩り忘れることなかれ。そんな書物の表題を思い出した。
死しても彩りは変わらない。それでも、世界は壊れるから。
――大切なものは、すべて持って、旅立とう。
陸睦は、とっくに死んでいた。天武はあの霊山で、陸睦の言葉を受け取った。惜しむらくは、白起としての生が、ほんの三ヶ月で幕引きとなった事実だけだ。
涙目で慣老は薬草を受け取り、大慌てで走って消えた。何人もの医者が犇めき合っている中で、天武は踵を返した。
命を屠った自分が、ここにいる必要も権利もない。命を護りたい者どもが、きっと大業を成し遂げる。心配は要らない。
「天武……生きていたの……」
柱からふいに声がした。ずっといたのか、翠蝶華の肌の白粉は崩れかけ、指先は震えている。
「そう……」と小さな声がして、嗚咽が響いたが、駆け寄る所業など許されるはずもない。それは翠蝶華も分かっている。
生還を抱き合い、大切にし合うには、距離が遠すぎる。札を引き、素肌で夜を共にすれば、また一晩、狂い合えるのだろう。
劉剥に嫉妬して、思い描きながら蹂躙する中に愛などあるわけもない。
「――私は、数十万の命を奪って戻ってきた」
翠蝶華は無言だった。無言で、赤い貴妃服を翻して去って行った。命を大切にしたいがために、天武に差し出した我が身の屈辱でも抱いているのか。
――これで、いよいよ悪鬼になれる。
天武は今までになく、憎悪に染まった自身を感じながら、皇宮への回廊を通り、集まっていた武官に声を張り上げた。いつになく、声が掠れていた。
「永巷へ向かうぞ! 数人の屈強な武官を集めよ!」
ようやく捕えた、憎き趙王姫傑と、西蘭の処分が、まだであった。
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