趙の風雲児――華毒

〝持っていると、怖いのですわ〟と花芯は華毒に震えていた。

姫傑は脂汗を浮かべながら、問うた。

「それは、なんだ……」

 天武は顔の前に小瓶を翳し、眼力を強めた。

「降伏せよ。さもなくば、これを水源に投げ入れる。この世にあってはならぬ、毒だ。たちどころに、こときれる。仙人は、こういったものを持ち、使う」

 言いながら、天武は再び片腕を上げ、勢いよく振り下ろした。

「秦の全軍、趙を滅ぼせ。半壊した軍を打ち破り、首都邯鄲を攻撃せよ!」

 恐ろしいほど、冷酷な声音だったと思う。

(全く、香桜様々だ。――何と楽な戦いよ)

 次々に砲弾が飛んでゆき、火柱を上げてゆく。女は、ぼうっと砲弾が飛ぶ様を見、趙軍は散り始めた。

 ――楚でも思ったが、武将亡くした軍は、瓦解が早いものよな。

(さて、母上を帰して貰おうか)

 戦意喪失した西蘭は、問題ではない。天武は眼の前で剣を引き抜き、姫傑の首に当てた。

「そなたは、王にしては弱すぎる。まァ、案ずるな。趙は秦に成り代わり、もっと強い国になるであろう。屍に未来を見る必要はない」

 剣の刃で首を持ち上げ、ニィと口元を緩めた。

 ようやく言えると、快感を覚えた。

「幼少の屈辱、思い知れ。思い上がりの太子よ。ん? 先程の女軍人は、貴様の女か? 西蘭と言ったな。後ほど四肢を、おまえの上にばらまいて……っつ……」

 こつん、と頬に何かがあたった。見れば小石だった。眼の前で、趙姫が、投げたのだ。目を剥いて、天武は趙姫を信じられない思いで見つめた。

 趙姫は震えながら、一言を投げつけた。また小石を投げつけた。

(母様が……私を疎んだ?)

「あっちへ行け」

 信じられない言葉に、剣が滑り落ちた。

 腕が震えた。

「母様……なぜに、そやつを庇う!」

 趙姫は明らかに、姫傑を庇っていた。ほっそりとした腕を回し、抱き締めて、天武を睨んでいる。姫傑はただ、瞠目していた。

 ――生むのではなかった。子供なぞ、知らぬ。天武など知らぬ。

 唇だけが動いた。天武はぼそりと本名を告げたが、趙姫の軽蔑の視線は変わらない。

「わたしの、子供を、虐めるな」

 腕の中の姫傑が、目を見開いた。西蘭も、驚いて趙姫を見つめている。

天武は砲弾の飛ぶ中、母を睨んだ。

「莫迦を言うな! わ、私は、あなたを助けに……いや、殺しに……っ」

 趙姫は、また視線を彷徨わせた。姫傑は完全に言葉を失っている。もう天武など眼中にないと、空中で視線を遊ばせている有様だ。

 狂気と、正気が行ったり来たりする瞳は、不気味だった。ようやく天武は、母が狂っている事実に気がついた。

 背中が、がら空きになった。眼の前で西蘭が口元を覆い、大量の涙を溢れさせた。

 低い、犲のような声が、ゆっくりと忍び寄ってくる。

「秦の王……妹を、よくも……」

 大男が這い寄り、天武に向かって剣を掲げていた。

 ――もう良いわ。疲れた……と天武の手がだらりと下がった時、心に声が響いた。

〝必ず、戻って来るのよ……〟

 震えながら告げた貴妃の言葉。胸元に忍ばせた薬草が、かさりと音を立てた。庚氏の腹の子供を思い浮かべる。

 ――私は独りではないのだ。咸陽に、待っているものがおる以上。此の世に生まれてくるものが在る以上。

 天武は儚く笑った。

「死ねぬ……母様、政は、まだ死ねぬのです」

 姫傑はいまだ呆然としていた。その時、遠くから、馬の蹄の音がし、孟黎がそれに気を取られた。どこからか、弩の矢が飛んで、孟黎の首を貫いた。

(勝機!)とばかりに首を叩き斬った。馬の音は、すぐに止んだ。

 陽が射し込み始め、雪原にあたかも福音の光が注がれ始める。遠くから、一頭の馬が勢いよく走り込んできた。

「天武さま! 参上遅れました! ご無事ですか!」

「陸睦! こっちだ! そなた、生きておったか!」

「愁の名にかけて、俺は死ねませんよ。先に行っています! 邯鄲へ」

 秦兵が一斉に趙王の戦車を取り囲み、捕縛しようとしている場面が目に映る中、陸睦の馬は中央を突破し、首都に消えた

 ――邯鄲は、落ちた。立派な水門も、皇宮も、すべて焼け落ちる。

 ふと、趙姫がふらりと逃げた。

「趙王と、西蘭は生け捕りにせよ! 陸睦に続いて援護に……」

 兵たちが顔を見合わせた。彼らは泣いていた。頷いて、次々に邯鄲に向かってゆく。

 趙姫は雪原の真ん中で足を止めており、明け始めた太陽を静かに見上げていた。

「先程の話は、本当ですか」

 趙姫はゆっくりと振り向き、僅かに笑い、ゆっくりと逃げ始めた。

「母様! 私は」

 趙姫の目が、天武に向いた。天武は、華毒を握りしめ、顔を上げた。

「私は、いつか仙人になるぞ。――そうして、貴方をきっと……」

趙姫はひたすら雪原を逃げるので、天武は追わなければならなくなった。

「何処へ行く!」

 答もなく、趙姫は蹌踉けた足で、山に向かっている。

「危ない! 母様、もう逃げる必要はない! なぜ、私から逃げるのだ! 趙は間もなく落ちよう。天武……いや、政です!」

 ふと、趙姫は一度だけ振り向き、両手を広げた。はっと気付くと、そこには深い壕のような断崖があった。小さな足が、僅かに滑る。

「政、仙人はいるのよ。だって、迎えに来たのだもの」

 最期の一言だった。天武はただ、墜ちてゆく白い貴妃服を見つめた。

涙一つ流れないーー。身も心も悪鬼になったのだと、冷えてゆく中で、馬の音が響き、天武はゆっくりと振り返った。光の面紗の中に、陸睦が立っていた。

「終わりましたね。すべて。天武さま、これで、すべての国が揃いました。今こそ名乗るが宜しいでしょう」

 奈落に墜ちた母の断末魔は聞こえない。膝をつき、奈落をただ、眺め、震える唇を必死に動かした。

「私はここから始まる……始まる皇帝……だ……。二度と、王とは呼ぶな」

 陸睦は、にっこりと笑った。笑った顔が、燕の知将に似ている事実に気がついた。

(本当は……そなたも、誰も殺したくなかった……みな、一緒に戦って欲しかっただけだ)

 陸睦は優しく髪を揺らして、馬に跨がり、勢いよく澪を嘶かせた。いつしか先陣を預かる陸睦は、馬を鳴かせる所業をしきたりとしていた。

 太陽は完全に元に戻っていた。地上の闇に、天界が合わせたのかもしれない。

「始皇帝、先に行きます! 皆が待ってます。咸陽に戻り、新政を行うが宜しいでしょう。子も、無事に産まれますよ」

「まことか。では、庚氏は助かるのか」

「ええ。後宮のお役目は終わりませんが。宮殿も、拡張するのでしょう? 楚で、言いましたよね」

「李逵みたいな口調は止めろ」と、涙目で言い返すと、陸睦は豪快に笑って見せた。

 終わったのだと見下ろせば、邯鄲の至る所には火柱が上がっていた。見事な水門も、砲撃が止むまでは、破壊され続ける。

「私は、死ねぬ。母様、迎えに来たとはいったい誰なのですか……」

 呟いて、首を振った。

 長年続いた、苦しみの地・嬴(えい)姓(せい)趙(ちょう)氏(し)の歴史は、これで閉じた。

 ――ここからが始まりだと、天武はもう一度、奈落を見下ろした。

闇に吸い込まれた母の声を持って、統一は成ったのだと。

肉親の壁は、乗り越えたのだと。しばらく足が動かなかったが、やがてまず、親指が動いた。止まる状況など許されないのだと、空を見上げると、雪解けの雲が浮かんでいる。

 戻り次第、すぐに邯鄲への攻撃の停止命令を下し、邯鄲に向かった兵力を再び集めさせた。百二十万の大軍は、半分に減っていた。ふと、天武は朱鷺に跨がり、周辺を見回した。

(陸睦がおらぬな)

「おい、陸睦は、いまだ邯鄲か」

兵の一人が首を振った。天武は剣を抜き、再び問いただした。兵によると、陸睦は、最初の戦いで、雪崩から脱出し、趙兵を一人で二十万も斬り殺した上で、孟黎と対峙したと言う。

「我らを逃がすために、たった独りで孟黎の軍と……」

 生きているはずがなかった。

 孟黎の軍は、三十万だ。奪った弩を構え、そのまま息を引き取り、孟黎を最期に貫いた。

(では、あの時、孟黎を貫いた弩は……)

 雪原は戦いを嘲笑うかの如く、再び雪崩により、白銀に化けてしまった。

――終われば、優しい少年に戻るがいい。天武の言葉を実行するかの如く、最期、陸睦は微笑んでいたと言う。

「雪崩が、護ったのです。お陰で、惨殺はされず、雪の中に」

「そうか」

 天武は小さく言い、姫傑の戦車のあった場所に向かって歩いた。

歩いて、孟黎の遺体を見つけ、周辺を見回り、今度は朱鷺を走らせた。

 夕暮れになったが、雪は堆くなっており、陸睦の姿は見つからなかった。

 陸睦は弩を構え、最期に倒れたと言った。

(恐らく、死して、構えた手が硬直し、外れたのだ。――最期まで、武勲が欲しかったか)

〝俺は、先に行ってます。子は、生まれますよ〟

 天武の目から涙が溢れ、雪原に染みていった。

 光の中で、陸睦が乗っていた馬は、華陰の時の馬、澪だ。そうか……と涙目で微笑んだ。

 もの言わぬ雪原を見回し、朱鷺の手綱を握る。手に涙が落ちた。

「馬も一緒なら、寂しくなかろう……天界で、思う存分に駆けるが良いわ。もう、武器など持たずにな」

 ふと、一頭の馬が駆けてきた。名を覚えていない少年だ。何だ、ひっそりと涙を流す暇もないのかと、目元を拭い、天武は顔を上げた。

「天武さま、咸陽に、も、戻りましょう……お、俺が護ります」

「いちいち私に、おどおどするな。武勲が欲しいなら……今後、命を賭して役に立て」

 少年は大きく頷き、慌てて馬を走らせたが、馬術の上達がなっていない上に、鎧が逆。

「何を教えておるのだ、おまえは」

 おまえ、とは誰を指すのか。返事の代わりに、黙して優雅に輝く白銀の上の、蕗の薹が小さく揺れていた。

 極寒の雪国にも、白銀の海の国にも、やがて花朝節は訪れる。天武は持ち歩いていた最後の華毒を、ふいに雪の上に捨てた。

「欲しければ、拾え、もう要らぬ――」

 太陽を睨み、天武は静かに雪原を後にした。

頬に涙が落ちたが、拭わずに、弔いとして、流れたまま――。

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