趙の風雲児――山麓②

 天武の号令で、一斉に大砲が火を吹いた。

だが、狙いは砲撃ではない。趙軍を逸れて、砲弾は聳えた山に向かってゆく。

(さあ、来い! 崩れよ!)

 天武は笑いを浮かべ、両腕を天に翳した。砲弾は山に吸い込まれ、ややして木々が燃え上がった。赤い火は翠蝶華を思い起こさせる。

 ず、ずズズズズ……。

 地響きは重々しく響く。

 ――おまえたちは幸運だ。神人へと進む秦の王の生け贄となるのだから。

秦の王に火の粉を浴びせた事実を、地獄にて後悔せよ。

 山肌の雪が一斉に雪崩を起こす。まず秦の軍を包囲した一角に雪混じりの土が滑り降りた。逃げようと、兵が縦横無尽に慌てる様は、面白い。さらに、火に逃げた兵は自ら燃えてゆく。雪が溶け、無残に転倒した背中に火が燃え移っては、ブスブスと音を立てた。

 雪が煙るとは知らなかった。雪崩に煙る現象があるとは面白い。

「突破口ができた。さァ、どうする」

 すかさず陸睦が手綱を掴み、指示を叩き飛ばしながら、滑走してゆく。

「今こそ一角は崩れた! 砲撃を楯に、趙軍に攻め込むぞ! ゆくは秦の武将、白起・愁陸睦! 秦の王への武勲を上げたければ俺に続け――っ!」

 ――数年前に山肌に向かった少年を瞼の裏に思い描いた。

(感謝するぞ、香桜――そなたは、秦の軍師であった。そなたは、最期に秦に勝利をもたらせる策を弄した。ふふ、今こそ信じよう。そなたは、仙人だったのだ)

 白銀の世界に、火の玉が落下する。火を纏った砲弾は砕け、更に火の粉を舞い散らせた。

 雪を喰い、火が燃え上がり、拮抗し始める。

 燃える雪原は、不思議な光景だった。真っ白の雪の上に、炎が燃え上がっては、ブシュと音を立て、消える。

「うおおおおおおお!」

 秦の王に命を捧げた兵たちが弾丸となって、趙軍に突っ込んだ。天武は静かに空を見上げる。僅かに陰りが見えた。太陽が、欠けてゆくような、不思議な空だ。

 ――太陽が、欠けておるのか。

 北極星が邪魔をしておるのかと、天武は空を睨んだ。いつもいつも不愉快な星だ。

 円が欠け、闇が押し寄せる。それはあたかも天帝の怒りの如く、天武は裁かれる自身を嘲笑う。

「私は天には負けぬよ。……行くぞ、朱鷺! 来られる者は従いてこい!」

〝きっと、無事に戻って来るのよ〟

 心に響く翠蝶華の願いを胸に、ただ一心に、剣を掲げ、崩れた包囲を突き抜けた。

また、雪崩る音が大きく大地に響いては消えてゆく。

 陸睦に追いつき、声を張り上げた。

「狙うは、趙王だ。全軍を趙の本軍に向かわせる。私が勝つか、姫傑が勝つか。この戦いは、天に仇なす者が勝利する。そなたは、すべてを叩き斬れ」

「言われなくとも、すべて殺してやりますよ」

 血に慣れた瞳に、天武は哀しみを覚えた。

「陸睦。この戦いが終わったら……そなたは優しい少年に戻って良いぞ」

 陸睦は涙目で頷いたものの、眼の前に現れた趙の将軍を睨み付けていた。猛将と謳われる孟黎だ。

 ち、と舌打ちをし、陸睦は馬上で剣を構える。

「こいつは、俺が。天武さま、空を!」

「知っておる。太陽の造反か? 朱鷺、今こそ、すべてを飛び越えよ!」

 趙軍が戦車を並べている前線に辿り着き、天武は手綱を高く引いた。朱鷺はもはや限界だったが、見事に飛び上がり、空中を舞った。

 一瞬、涙が横流れに飛び散った。降りた衝撃で雪の結晶がきらきらと無数に輝いた。

同時に、昼間の闇が押し寄せてくる。

空は完全に光を覆い隠し、雪原は闇に染まりつつあった。

これは、天の警告か。君主に相応しくないと、陰に乗じ、勝てぬと言うのか。

 天武についてくる者はいなかった。天武は後を振り返るのを止めた。

――いつだって、私は孤独にやってきた。天を見上げ、永遠に恋い焦がれるのは、孤独なほうがいい。

 兵の垣根をいくつも跳び越え、火矢を潜り抜ける。駿足の馬を率いて、天武はようやく趙軍の本軍まで辿り着いた。

 一際ぐんと大きな戦車に、趙王・姫傑は座っている。天武に気付くと、戦車がすべて向いた。

「あの包囲を突破したって? 趙の伝統的な包囲戦陣だったんだけどよ。やるじゃねえか」

 姫傑は女を連れていた。髪を引きずり、剣を構えている。ざくり、と女の長い髪を斬り捨て、縛っていた紐で纏めたものを、天武の馬の前に投げて寄越す。

 姫傑は髪を掻き上げると、やれやれといった風に告げる。緊張感がないようでいて、隙がない厭味な口調だ。

「俺ぁ、卑劣な手は苦手なんだけどよ。……てめえ、こうでもしねえと、全員を殺しちまうしな」

 長い黒髪は、母の趙姫のものだと気づき、天武は茫然自失となった。

「かあ、さま? なぜ、ここに……」

 姫傑の失笑が響く。うるさい。掠れた姫傑の嘲った声音は極めて耳障りだ。

「相変わらず、虐め甲斐がある親子だぜ。褒姫と斉梁諱を殺したてめえにゃ情はねえよ。はは、願うはずのお日さんも、てめえを見限ったってよ」

 姫傑は唸りを上げた。

「てめえの残虐なトコ、見誤ったぜ……っ! さっきの砲撃で、何十万の趙兵が生き埋めになった! 俺はな! 誰も死んで欲しくねえと思ってた。まあ、悪い子供を産んだ、母親も同罪。殺せる。そいつは遺髪だ」

 天武は呆けている母、趙姫を見つめた。

趙姫はなぜここにいるのか、わかっておらず、子供みたいに太陽の消えた空を見上げ、姫傑の横で震えていた。

(なぜ、そっちにおるのだ……母上)

 姫傑の長剣がゆっくりと引き抜かれてゆく。姫傑は渾身の恨みを込め、天武に吐いた。

「平穏を叩き潰した罪は、己で贖いやがれ!」

――平穏の言葉は、ずしりと胸に重しとなって落ちてゆく。 

幼少、膝を丸め、ただ、書物に囲まれるだけであった不遇の時代を重ね、声を張った。

母と幸せにいたかった。穏やかに、ただ静かに、私は暮らしたかった! それだけだ! 望みは小さかった! では、私の平穏を壊したのは、誰なのだ。

――悠か昔、私のささやかな、母の内での、平穏を奪ったのは……。

今こそ、世界は完全に闇となった。

その時、空が割れ、二匹の龍の龍気が渦巻き、大地を震わせた。

姫傑が剣の手を止める。

「日出帯食だと?」

 欠けた太陽が、欠けたまま昇ってゆく。

直下で、最大限の地響きと共に、趙軍の大半が雪崩に押し流されていった。

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