趙の風雲児――龍

 *

『香桜はどこか知らぬか! 秦からの連絡は、どうした!』

 天武の怒鳴り声が聞こえる中、香桜は夜更けに乗じて軍を離れた。河が凍りつき、作戦の変更を余儀なくされた不機嫌な天武に付き合うほど、お人好しではない。

 庚氏妃の容態が急変したとの知らせが舞い込めば、天武が怒髪天になるのは容易に想像がついた。更にいよいよ牙を剥きかけている現実も感じている。

「さて、と」

 笛を手にし、くるくると回した。

 ――この機会に、我が妻を奪いにゆくか。

 香桜はこりこりと笛で額を掻き、耳の翡翠を空高く投げた。

いい加減、行方をくらませた花芯を見つける必要がある。そうでないと、また華毒などをばら撒き、秩序を滅茶苦茶にする怖れがあった。

 基本的に騰蛇は香桜に逆らわない。すぐに長い髭が方向を定めた。

 龍に揺られながら、香桜はただ、花芯を想った。天武への恨みや憎しみは日々強くなっている。だからこそ、花芯だけを脳裏に置いた。

 庚氏の膨らんだ腹を、花芯はどれだけ羨ましく眺めていたのか。しかも天武が庚氏の腹の子供を愛し始めている事実は、花芯の居場所を奪うに充分だった。

 翠蝶華も同じだが、天武の傍の女は、いつしか本気にさせられる。多分、天武の持つ、そっけなさと寂しさに惹かれて、変わってしまうのだ。

(遥媛、おまえになら、分かったのか)

 雪の季節だ。粉雪が舞い散った。雪月の中、龍は大平野を超え、静かに下降した。

                   *

 ――趙と斉の間の山、琅邪山。

 香桜は静かに降り立ち、龍を翡翠の中に納めた。翡翠晶は耳にはつけず、握ったまま夜の山に足を踏み入れた。

 すぐに目的の子猫は見つかった。

 月夜の下、夜露に濡れた薬草をぷちん、ぷちんと摘む音が響いている。時折ふっと嗚咽を堪える声も。

「花芯、いるな」

 名前を呼ぶと、小さな足音が響き、木々が揺れた。

 モソソソと木々の間を逃げ回る子猫を捕獲するべく、飛び越えて、眼の前に着地した。舞った髪が落ち着く頃、香桜は顔を上げた。

「前も言ったはずだ。隠れていてもわかる、とね」

 月明かりの下、二つの龍眼が妖しく光っている。花芯は言葉が出ず、ただ、後ずさりして逃げようとする。

 腕を捕まえて、引き寄せた。やはり花芯だ。

香桜と慣老の会話を聞いたのだろう。慣老に庚氏を救う手立てを伝えたのは、紛れもなく香桜だった。

「聞きたい。なぜ、庚氏を殺さないでおいたんだ? 俺は知ってる。きみは、殷徳の宴の時に、庚氏に華毒を盛ったんだ」

 また花芯の頭が、ゆっくりと揺れる。一歩すっと足を進めた。

 怯える花芯の頬を包み込み、胸に抱くと、花芯は寄りかかって、香桜の服に涙を染み込ませ、弱々しく訴えた。

「聞かないでくださいませ」

 濡れた花芯の瞳に、月と香桜が映っている。あまりに綺麗で、迂闊にも涙が零れそうになった。

「それを知って、ますます俺は、おまえを妻にしたくなったんだが」

「まだ仰いますの……」

「言うよ、何度でも」

「また、泣いてますのね」

 浮かんだ涙を、細い指が拭って行った。

 柔らかい四肢を抱き締めて、首筋に顔を埋める。ひんやりとした四肢は、互いに体温など伝え合わない。傷心の花芯は、小さく腕で震えた。

 小さな足で、天武のためだけを考え、花芯は庚氏の薬草を探しに来た。さぞかし葛藤があった心中を察したが、きりがなかった。

 細い腕を掴んで、瞳を煌めかせると、低い声で囁いた。

「いい加減、受け入れな」

 反発し、花芯は激しく首を振り、鬱屈を発憤させるかの如く、香桜にしがみついた。

 欲が動かすのか、花芯は香桜の服を指先で脱がせ、はだけさせて、舌を這わせた。う……と思わず開いた唇から喘ぎが漏れた。

 雌の龍族は凶暴だ。遙か昔に龍族の女は、すべて淘汰されたはずだった。得てして悪につけ込まれるのが女。悪龍に成り下がっていた事実に今頃ようやく気がつく。

 ――稀に、人間の中に、龍族は生まれる。知らず、人に紛れて、弾かれるのが運命だ。

(だからこそ、救いたかった)

「あんたなんか、要らない! 要らないの! 返してよ! あたしの天武さまを返して! ううん、違う。あたしを返して!」

 わああああ……っ。花芯の泣き声は人知れずの山に響いた。泣きじゃくる小さな頭を撫でて、ゆっくりと空を見上げている内に、花芯の嗚咽は小さくなった。今度は恥ずかしくなったらしく、腕に潜り込んで、出て来ない。

 髪を撫でる手を止めず、香桜はただ、花芯を慈しんでいたが、別れを察した。

「俺は、おまえを殺し、天界に連れ去るつもりだった。おまえの名前は、系譜にはない。地上にいても、いずれ居場所はなくなる。そうして、俺は幾人を消したのだろうな」

 泣き顔を晒した花芯に、香桜は微笑んでみせた。

「俺がやらなかったら、未来に用意されるべき命は生まれず、世界は終わるところだ。妃嬪の系譜に選ばれた人間を、本来の正しい道に導く。本来は、誰もが必要なんだ。無駄など、ない。だからこそ、裁きは必要。屠られるために生まれる人間などいやしない」

 香桜は目を閉じた。花芯が近寄って、頬に手を伸ばしてくる。

「でも、私は、天武さま以外要らない。ねえ、どうして天武さまは、仙人じゃないの? どうして私のものにはならないの? どうして欲が押さえきれないの?」

「きみが、本当に天武を愛しているから」

 言い切って、香桜は目を細めた。「見て」と耳元で囁いて、手を取って空に舞い上がる。

 天武の軍隊が集結している光景を見た花芯は、まじまじと香桜の表情を窺った。

 恐ろしい数の兵が長く山岳を埋め尽くして、伸びている。

遠くには趙兵が集結し、両者は夜明けと共に、大平野で衝突する。

「天武は、あそこだ」

 目下の暗闇の中、天武は一睡もせず、ただ風に髪を靡かせ、朱鷺に跨がって静かに周りを見ている。朝を待っているのか、空を見上げたまま動こうとしない。

 口を押さえ、花芯は止められないまま、涙を流し、「ああ……」と小さく呟いた。

「もうじき、この時代最後の戦いが終わる。分岐点を超えた。俺が導くのは、ここまで」

 天剣を握る手が震えた。香桜は、ふわりと笑って最後に花芯を優しく抱き締めた。

 桃の香りがする。

 ――しばし、別れだ、花芯。

「きみの愛情を理解するが、俺からの愛。天帝は、愛を奪わない。花芯、愛してるんだ」

 花芯はぎゅっと掴んでいた薬草を握りしめた。どうしていいのか分からず、香桜を見つめたまま、はらはらと涙を零しながら、首を振った。

「この時代の人間には、まだ伝わっていない言葉。それを、きみが初めて、天武に伝える権利を託す。天武が死す瞬間、迎えに行く。本当は」

 香桜は言葉を止めた。

 ――本当は、殺す必要がある。花芯は天武を変える可能性がある。それでも、生きて欲しいと想う気持ちは、間違ってなどいない。

 瞼を閉じた。

(私の役目は、終わったか)

「蛟龍仙人貴人、白龍公主芙君、これ以上の地上への干渉は、私が許さぬ。龍に喰われたくないならば、姿を現せ! お遊びはここまでだ」

 ざああと雪の合間に宝玉の欠片が舞う。土を蛟が這い、金色の光を撒き散らして、貴人が、空からは氷の粒を舞い散らせ、白龍公主が、天帝の前に姿を現した。

二人の仙人を従え、天帝の声に戻った香桜は、きっぱりと告げた。

「天に戻るぞ。時代流るる刻、我ら有り。だが、時代は流れる。もはや、我らは不要よ」

 香桜は流暢に告げ、腕を組んで再び秦軍に目をやった。

続いて貴人も、白龍公主も同じく配置された戦陣を見つめている。貴人は瞳を赤く染め、白龍公主は紫綬羽衣を肩から滑り落とし、険しい視線を浴びせていた。

反逆しても、結局天龍には氷も、蛟も勝てない。

「ご苦労だった。後は人間たちが歴史を動かす。秦と趙がぶつかれば、時代は次なる動きを見出す。狂った系譜もより、確証を持って歴史を紡ぐ」

 つん、と腕が引っ張られる感触に気がついた。花芯が、香桜の服をしっかりと掴んでいる。驚きで、香桜は僅かに瞼を大きく上げた。

「お。お別れを……っ。て、天武さまに……! 貴方をすごく信頼しているのに! 黙っていなくなるなんて、駄目ですわ」

 震える声で花芯は言葉を何とか押し出し、縋る如く続けた。

「天武さまは、誰も信用しない中で、貴方だけを信じたの。……私は、咸陽に戻ります。戻って、ずっとずっと天武さまの貴妃を務めるの。これ、差し上げますわ」

 花芯は手に握っていた薬草を掴み、香桜の手に押しつけた後、夜空に横顔を向けた。表情は、もはや少女ではなかった。

「私は、責任を持って、伝えて見せる。生まれてくる子供にも、教えますわ。秦は最初の愛一杯の国になる。庚氏なんかに、負けないんだから!」

 別れも言わず、花芯は振り返らないまま、淑女の横顔で眼の前を去ってゆこうとした。

「いいんですか」と貴人が聞いた。香桜はなぜか懐かしいような感情を噛み締めた。

「いいよ。ちゃんと迎えに降りるから」

 手の中の薬草だけが、夜風に揺れていた。

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